2012.7.5
○強制。
柔道だのダンスだの、日本の教育機関というのは強制義務化が大好きだ。
人間性を育てる教育において最も重要なのは自主性自発性であって、生徒に対して選択の幅を可能な限り拡げることが必要なのである。
しかし、文系大衆観念上では、同じことを強制することによって「心を一つに。」だとか、本能的な協調性/統率性ばかりを重んじる傾向がある。そもそも文武両道が人間性/自律的社会的責任判断能力の論証など全く存在しない文系特有の実証不能の観念に過ぎないのである。大人にとって取り扱い易い簡単な生徒を大量生産することというのは、言い換えれば大人の手抜きに過ぎない。
世の中にはいろいろな説があるが、バカ役人というのは多数の説から話を丸めて中途半端な解答を導き出して満足したがる傾向が酷い。実証不能の観念と、合理性のある理論を中途半端に丸めてしまうと合理性は意味を失う。
柔道選手が強姦したり、サッカー部や野球部の寮で大麻の栽培をしていたりするというのは、文武両道というものが人間性とは無関係であることの論証であり、論証が存在するにも関わらず導入するというのは、そこに論理検証が全く働いておらず、ただ単に話を丸めて多数派からの評価だけが目的であるからだ。
要するに日本の教育機関や役人共は、言われたことを言われた通りに実行することによって、権威や多数からの評価/報酬だけが目的であり。故に論理検証性も一貫した方針も全く存在しないのである。
当人に自発的自主的な目的意識に基づく合理的方針を選択する「意思。」がないということは、これは無意識な暴走状態と同じであり、カルトや通り魔の思考パタンと全く同じ環境依存性な無意識的選択しかしていないのである。
多数の説から話を丸めておけば、目先の責任からは逃れることが出来るであろうが。社会全体における教育機関としての責任は放棄しているのと同じである。
この種の話をしだすと、「一体どうすりゃいいんだ。」と言い出すバカが非常に多いが、これはすなはち「どうすべきか。」という主体的方針を合理的に検証する本質的意識というものが最初から存在しないからである。
無意識で「どうすれば良いのか。」を多数や権威に依存するようなバカが、この日本では大量に蔓延ってしまっているために、合理性のある教育方針や手法というものが全く行われないのである。
そもそも、このように本質的には自発性がないバカというのは、選択が本能感情によって無意識に決定しているために。本能感情的にヒステリックに主張したがる傾向があり。話を丸めて平均値をとっておくことしか最初から出来ないのである。たとえ犯罪にならなくても無意識な集団というのはカルトに過ぎない。だから教育委員会が事実隠蔽をし自分達に都合の良い事しか公表しないのである。
合理性のある論理的検証が出来ない文系観念に囚われたバカが教育機関を牛耳っている限り、自主性自発性を重んじ自律のある「人間。」を育てることは出来ず、結果的にはカルトや通り魔の再生産を促しているのと等価である。
柔道の強制によって生徒が亡くなったりするのは、教育機関自体がカルト状態であることの著れなのである。こうしたカルト教育を放置しておくからオウムに入信するようなバカが再生産されることになるのである。これは教育機関としての社会的責任を果たしているとは言うことができない。
個人の主体性を重要視する教育方針というものはノーベル賞受賞者達の多くが唱えるものであり、逆に強制性や均一性を重んじるのはヒステリックな多数の親やカルト教育委員会に過ぎない。論理検証的方針を唱える人というのは、その方針の根源が理性であって感情や本能、固定観念ではない故にヒステリックには主張しないものである。
こうした感情的に主張しない方針を軽んじるのが、無意識なバカ集団特有の「選択。」であり、これは主体的な論理的判断ではなく、単なる話を丸めただけの「結果。」であって、そこに意識的「目的。」は存在しない。
現状世間において、感情的/観念的丸め込みこそが世間的成功になる傾向がある。それはヒトという種の生物の本能習性の「結果。」に過ぎず、目的意識の喪失を意味する。
話を丸めて「うまくゆく。」という現状を短絡的に現実と主張するのは間違いである。それは現実の断片的論証に過ぎず、言うなれば「バカしかいないから、バカと話を丸めときゃ世間的にうまくゆく。」だけの話に過ぎず、何ら自律的な社会的責任判断とは無関係な欲望本能主体の意識狭窄なバカの論理に過ぎない。
バカの多数決や、バカの成功結果をどんなに沢山枚挙列挙しても、そこからバカではない帰結には永久に辿り着くことは原理的に不可能である。
強制からは自主性や主体的判断能力は育たず、本能的な服従性によって「従順な臣民。」を大量生産するだけである。服従することしか無意識的に「学習。」していない者であれば、自律的に社会的責任判断が出来ないのは必然的結果であり、原発が暴走するのも、天下りがなくならないのも必然の「結果。」である。
主体的目的意識の存在しない集団組織は暴走するものである。目的のない集団組織は暴走以外には主体的に選択する意思が最初から存在しないからである。多数で暴走を無意識に放置しておいても責任逃れが出来ると、多くのヒトは「思う。」であろう。特定の誰かに責任をなすりつけ、特定の誰かに懲罰を与えておけば全ては解決したと錯覚することも簡単であろう。
それは無思考なバカの論理であることを認識すべきである。
Ende;