「理性を超越した叡智」などというお伽話で気分的に満足していれば論理検証性を蔑ろにするのは必然であろう
西部 邁(にしべ すすむ 元東京大学教養学部教授)が民族主義(右翼)と話を丸めて迎合していたのは 自分には理性を超越した叡智のようなものが存在していて自動的に人間性を発揮しているものだとでも勝手に妄想していたからであろう
西部 邁に限らず文科系大衆の多くが傲慢なのは 「自分だけは絶対に大丈夫だ」という自分を過信(正常性バイアス)しているからである
こういうトンチンカンな奴が東大教養学部教授なんぞやっていたからオウム真理教幹部なんぞ輩出してしまったのであろう
どうにも東大というのは養老孟司みたいなペテン師があまりに多すぎて話にならん
オルテガなどの保守主義者の多くは主観的観念と客観的事実の明確な区別が出来ておらず 主観的に安心満足感が得られることを短絡的に安全性か何かだと勝手に妄想し過ぎである
経験則だの形式だの伝統だのを事後正当化するだけで論理検証性があまりにお粗末だからこそ 精密な論理検証や原因究明分析が出来ず 結局観念論で話が終わってしまうのである
何かヒトには人知を超越した謎の能力によって人間性が自動的(自然)に発揮されるかのような妄想錯覚に囚われているからこそ 何が間違いで 何が正しいのかを識別出来なくなってしまうのである
「理性や人知を超越した謎の叡智」なんぞあるわきゃねぇのに 何でそんなお伽話を鵜呑みに出来んのか信じらんないわ
そんなもんを鵜呑みに出来る頭の悪さは自覚認識できないんだろうな
出来損ないにも程があるだろ
なんとも残念な生き物だよ
それでよく自分達のことを「知的生命体」などと言えたもんだよ
感心しちゃうね
「保守か革新か」が重要なのではなく 重要なのは「主観的観念なのか客観的真理なのか」を区別認識できるかどうかなのである
「革命は理性だ」などという雑な分析に基づいているのは 頭ごなしに理性をバカにすることで論理検証性を放棄しようとしているからであろう
「理性には利己的利益追求の側面があります」などという嘘も 理性というもの 論理検証性というものを蔑ろにし 科学的論理分析に対する拒絶反応ではなかろうか
一応説明しておくが 利己的利益追求とは目先の本能的欲望が根源であり理性由来のものではない 純粋理性というものは人畜無害なものであり 害を及ぼすのはむしろ先天的本能由来の目先の欲望や執着に由来するものである
道徳教育の類がやたらと宗教的な気分感情論に偏るのも「理性を超越した叡智」などという謎の力学に依存しているからであり 文系哲学者が哲学としての社会的役割を全く果たしていない
「たかしくんは、やさしい気持ちになりました。」的なお伽話は イジメ差別に対して糞の役にも立ちゃしない なぜなら「俺はやさしい気持ちになんぞならねぇ」の一言で終わりにされてしまうからである
気分的にどうあれ 主観的に嫌いかどうかと行動が直結することが間違いであり 主観的に嫌いであれば嫌いであることを許容してあげることも必要である 無理矢理仲良しこよしを強要されてもストレスにしかならん
先天的にせっかちな者にとっては 先天的にのんびりしている奴が苦手でイライラするものである イライラするのは仕方ないし 苦手であることを相互に許容しあうことも必要である
人間性として重要なのは 主観的気分が行動に直結して暴力的威圧行動や多数派同調の強要などに発展しない自制心であり 主観的感覚は多数派から強要されてどうにかなるものではない
せっかちにはせっかちの長所があり 規定的業務における作業仕分けなどが得意な半面 規定以外のアクシデントへの対応はのんびり屋の方が冷静に対処出来ることもある
学力試験の類だと時間制限を設けることが当たり前になっているため 深く物事を検証したり探求したりする能力は測ることが出来ておらず その場限りの頭の回転力ばかりが評価基準になってしまうことで 考えの浅い薄っぺらな内容でも簡単に鵜呑みにしてしまうことに陥るのである
アルベルト:アインシュタインが大学での職を得られなかったのも 深く考える能力は学力試験では測定できなかったためではないだろうか
学力試験だのクイズ番組に向いている能力というものが ノーベル賞級の深い思考能力とは全く別のものであるからこそ 「地動説を火炙り」にするような解決法にも至ってしまう
別に思考が深いからといって 別に天才なわけでも偉いわけでもなく あくまで長所と短所は表裏一体であり 一面的基準だけを盲目的に信奉してしまうことで誰も間違いに気付かないことが問題なのである
室山哲也がイカレたことを言い出しても別に「言論の自由」であるが 科学的論理的に間違った観念に囚われるような奴がNHKの解説委員であることは許容の範囲を超えている
そこいら辺の酔っ払いがイカレたことを言っても「言論の自由」である 室山もイカレたことを言いたいのであればNHKなんぞ辞めちまえば良いのである ただそれだけの話である
多数派の専制のような一面的価値観で塗り潰そうとするのは保守主義か革新かの一方にに限ったことではなく あらゆる組織集団において生ずる「ヒトという種の生物の習性」に由来するものである
それとも小学生のイジメは「革新主義」や理性でイジメてんのかぃ 関係ないだろ バカか あんなもん動物的習性で無意識にイジメているだけだろ
先天的本能習性が促す行動バイアスが 本質的には無意識であるという論理的理解が出来ていれば 多数派の専制やバカ主義に陥ることはなくなる
先ずは「ヒトという種の生物が先天的に人間としては欠陥品である」ことを認識することから始めなければならない
「ヒトは間違えるものである」ことを前提にしていないから 暴力威圧的懲罰報復を唯一絶対的な「解決」だと錯覚することに陥るのである
ヒトであれば誰でも間違えることはある 間違いを間違いだと認識し 論理的に原因を究明し再発防止策に役立てるという理性こそが 社会安全性を高めるためには最も有効な道筋なのである
Ende;
西部 邁(にしべ すすむ 元東京大学教養学部教授)が民族主義(右翼)と話を丸めて迎合していたのは 自分には理性を超越した叡智のようなものが存在していて自動的に人間性を発揮しているものだとでも勝手に妄想していたからであろう
西部 邁に限らず文科系大衆の多くが傲慢なのは 「自分だけは絶対に大丈夫だ」という自分を過信(正常性バイアス)しているからである
こういうトンチンカンな奴が東大教養学部教授なんぞやっていたからオウム真理教幹部なんぞ輩出してしまったのであろう
どうにも東大というのは養老孟司みたいなペテン師があまりに多すぎて話にならん
オルテガなどの保守主義者の多くは主観的観念と客観的事実の明確な区別が出来ておらず 主観的に安心満足感が得られることを短絡的に安全性か何かだと勝手に妄想し過ぎである
経験則だの形式だの伝統だのを事後正当化するだけで論理検証性があまりにお粗末だからこそ 精密な論理検証や原因究明分析が出来ず 結局観念論で話が終わってしまうのである
何かヒトには人知を超越した謎の能力によって人間性が自動的(自然)に発揮されるかのような妄想錯覚に囚われているからこそ 何が間違いで 何が正しいのかを識別出来なくなってしまうのである
「理性や人知を超越した謎の叡智」なんぞあるわきゃねぇのに 何でそんなお伽話を鵜呑みに出来んのか信じらんないわ
そんなもんを鵜呑みに出来る頭の悪さは自覚認識できないんだろうな
出来損ないにも程があるだろ
なんとも残念な生き物だよ
それでよく自分達のことを「知的生命体」などと言えたもんだよ
感心しちゃうね
「保守か革新か」が重要なのではなく 重要なのは「主観的観念なのか客観的真理なのか」を区別認識できるかどうかなのである
「革命は理性だ」などという雑な分析に基づいているのは 頭ごなしに理性をバカにすることで論理検証性を放棄しようとしているからであろう
「理性には利己的利益追求の側面があります」などという嘘も 理性というもの 論理検証性というものを蔑ろにし 科学的論理分析に対する拒絶反応ではなかろうか
一応説明しておくが 利己的利益追求とは目先の本能的欲望が根源であり理性由来のものではない 純粋理性というものは人畜無害なものであり 害を及ぼすのはむしろ先天的本能由来の目先の欲望や執着に由来するものである
道徳教育の類がやたらと宗教的な気分感情論に偏るのも「理性を超越した叡智」などという謎の力学に依存しているからであり 文系哲学者が哲学としての社会的役割を全く果たしていない
「たかしくんは、やさしい気持ちになりました。」的なお伽話は イジメ差別に対して糞の役にも立ちゃしない なぜなら「俺はやさしい気持ちになんぞならねぇ」の一言で終わりにされてしまうからである
気分的にどうあれ 主観的に嫌いかどうかと行動が直結することが間違いであり 主観的に嫌いであれば嫌いであることを許容してあげることも必要である 無理矢理仲良しこよしを強要されてもストレスにしかならん
先天的にせっかちな者にとっては 先天的にのんびりしている奴が苦手でイライラするものである イライラするのは仕方ないし 苦手であることを相互に許容しあうことも必要である
人間性として重要なのは 主観的気分が行動に直結して暴力的威圧行動や多数派同調の強要などに発展しない自制心であり 主観的感覚は多数派から強要されてどうにかなるものではない
せっかちにはせっかちの長所があり 規定的業務における作業仕分けなどが得意な半面 規定以外のアクシデントへの対応はのんびり屋の方が冷静に対処出来ることもある
学力試験の類だと時間制限を設けることが当たり前になっているため 深く物事を検証したり探求したりする能力は測ることが出来ておらず その場限りの頭の回転力ばかりが評価基準になってしまうことで 考えの浅い薄っぺらな内容でも簡単に鵜呑みにしてしまうことに陥るのである
アルベルト:アインシュタインが大学での職を得られなかったのも 深く考える能力は学力試験では測定できなかったためではないだろうか
学力試験だのクイズ番組に向いている能力というものが ノーベル賞級の深い思考能力とは全く別のものであるからこそ 「地動説を火炙り」にするような解決法にも至ってしまう
別に思考が深いからといって 別に天才なわけでも偉いわけでもなく あくまで長所と短所は表裏一体であり 一面的基準だけを盲目的に信奉してしまうことで誰も間違いに気付かないことが問題なのである
室山哲也がイカレたことを言い出しても別に「言論の自由」であるが 科学的論理的に間違った観念に囚われるような奴がNHKの解説委員であることは許容の範囲を超えている
そこいら辺の酔っ払いがイカレたことを言っても「言論の自由」である 室山もイカレたことを言いたいのであればNHKなんぞ辞めちまえば良いのである ただそれだけの話である
多数派の専制のような一面的価値観で塗り潰そうとするのは保守主義か革新かの一方にに限ったことではなく あらゆる組織集団において生ずる「ヒトという種の生物の習性」に由来するものである
それとも小学生のイジメは「革新主義」や理性でイジメてんのかぃ 関係ないだろ バカか あんなもん動物的習性で無意識にイジメているだけだろ
先天的本能習性が促す行動バイアスが 本質的には無意識であるという論理的理解が出来ていれば 多数派の専制やバカ主義に陥ることはなくなる
先ずは「ヒトという種の生物が先天的に人間としては欠陥品である」ことを認識することから始めなければならない
「ヒトは間違えるものである」ことを前提にしていないから 暴力威圧的懲罰報復を唯一絶対的な「解決」だと錯覚することに陥るのである
ヒトであれば誰でも間違えることはある 間違いを間違いだと認識し 論理的に原因を究明し再発防止策に役立てるという理性こそが 社会安全性を高めるためには最も有効な道筋なのである
Ende;