書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

煩悩。

2011年04月01日 13時19分59秒 | 意識論関連
 「煩わしい悩み。」と書いて「煩悩。」。

 「考えた。」つもりになっている人というのがいる。「Aにしようか、それともBにしようか。」その選択に論理的根拠があるならば、それは「考え。」である。

 実際には、「考え。」ではなくて、単に「悩んで。」いることの方が圧倒的に多いらしい。

 「悩んで。」いるということは、要するに気分的にどっちにしようか「悩んで。」いるだけで。どんなに気分的に「悩んで。」も、それは「考え。」ではない。

 気分的なバイアスであれば、それは環境依存に他ならない。気分的な好き嫌い自体が当人の意識的選択ではない上に、その場の気分自体もまた自律的選択ではないからだ。

 気分的に「悩む。」と、感情的に疲れるので。あたかも「たくさん考えた。」ような気分に陥る人は少なくない。

 ハーバード大学のマイケル:サンデルの講義とかは、受講者に「悩み。」を与えているだけである。受講者はややこしい状況、あるいは判断不能な状況というものを与えられて、その与えられた条件内部だけで「悩む。」だけで。「なぜ、そんな状況になったのか。」とか、「なぜ、その状況だけしか考えてはいけないのか。」には意識が働かない。もとい、「働き難い。」

 受験に合格した大学生であっても、学食で一人食事をすることの強迫観念を自己分析することはできない。もとい、「したがらない。」

 「普通の人。」の多くは、考えが浅い。考えの浅い人間が多数を占めている場合、その方が気分的に安心なので、考えが浅いままでも「安心。」なのである。

 判断というものを行うとき、そこに論理的根拠が伴わない、単なる気分的な好き嫌いのバイアスに拠る選択であれば、それは本質的には自律的に「考えた判断。」ではなく。環境依存的に既に存在している固定観念、好き嫌いに由来する無為無策な「反射行動。」に過ぎない。

 その反射行動に至るまでに、どんなに「悩んだ。」としても、その「悩み。」にどんなに神経を擦り減らしても、葛藤しても。それは「考え。」ではないのである。

 気分的な「煩わしさ。」こそが、むしろ「考え。」を阻害する。だから「煩悩。」というのであろう。

 本質的な有神論者の場合、危険な状況であっても命がけで「正しい。」行動をとることがある。というか、とる人のことを本当の有神論者というのであるが。こういう人には「悩み。」がない。恐れを知らない。ムスリムは「神以外の何物も、私は恐れない。」と言う。あまりに危険な状況でも無謀な程「正しい。」行動をとるので、できれば一人ではなく、ある程度大きな組織との連携を取って欲しい場面も、しばしばある。

 こういう人を、私は一人でも失いたくないからだ。

 別にイスラム教に限ったことではないが。大抵の「有神論者。」と名乗っている者の、少なからずは、「神がいないなら、何をしても構わない。」と思っているような自律判断の欠落した事実上の無神論者である。だからテロだの戦争だのが終わらない。

 パレスチナの女性救急隊員による自爆テロなど、イスラムの教えでは女性が殉教することは許されていないにも関わらず殉教に踏み切った。これは自分が神の祝福を受けられないことを知っていながら、自らの無力感に絶望したのであろう。

 パレスチナでの救急隊員の仕事というのは、とんでもない無謀な仕事である。ほとんど津波被災地の救出活動みたいなことが、何十年も続いているのである。しかし、相手は自然ではなく、ユダヤ人の強迫観念による迫害であり。人災である。ましてやパレスチナにおいて「大きな組織。」といえば、あまり選択の余地はない。何せ国連が放置している状態であるから、手詰まりになるのも仕方あるまい。

 ユダヤ人は、ナチスに迫害されたために、恐怖に怯えて「自分達の国。」を欲しがっているのであり。旧約聖書にある「約束。」を盲目的に信じ込まずにはいられないのである。

 モーゼの十戒の中には、「神がいないなら、何をしても許される。」というくだりがある。これは自律的な判断を一切放棄し、全てを神の責任に押し付ける精神的怠慢に他ならない。

 そもそも、軍隊というものは、生物学的な社会形成習性を経験則的にシステマチックに利用した、盲目的服従組織に他ならない。兵隊個人は命令以外に意識が働かなくなるように、過剰な訓練によって服従することを脳の身体性に刷り込み「学習。」されるため。結果的に「監獄実験。」のような虐待行動に陥るのである。

 本質的意識が働かなければ、そこに「心。」は宿らないからである。

 ユダヤの兵隊は、ただ上官の命令に従いパレスチナ人を迫害する。そこにナチスの吏官の亡霊が宿っていることも知らずに。だからアウシュビッツとやっていることが似てくるのである。犯罪者のプロファイリング同様、無意識な人間の行動というのは類似性が必ず出てくる。それはつまり「凡庸。」な出来事でもあるからだ。

 ヒトという種の生物の習性を利用することによって、自律的な「考え。」を阻害することが可能であるため、洗脳などのペテンが成立するのである。 

 これ程までに科学技術の進歩した現代においても、未だに戦争などという野蛮行為がなくならないのは。ヒトという種の生物を工学的に解析していないからである。

 既に社会心理学的実験の成果は充分にあがっている。その「結果。」をどう読み解くか、そこに意識が働かないから、世の中に変革が起きないのである。

 「豚の耳に小判。」である。豚の耳に小判をあてがっても、豚は嫌がるだけであろう。豚のままで満足か、それとも拒絶するか。本来は「選択の余地などない。」のである。

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