○擬態。
イカなどの頭足類の擬態というのは、イカ本人が意識的に行っているものではなく。視覚情報を機械反射的に体表の模様に変換しているだけである。視覚情報を機械条件反射的に体表模様に変換した結果として擬態として機能し、これが生存に適した「結果。」に過ぎず、イカ自身には擬態の「目的。」意識はない。結果的に擬態として機能するとしても、それが必ずしも当人の意識的選択による論証にはならず、なを且つ自己の身体機構を決定する遺伝的要因自体を自己選択することは原理的に不可能である。
昆虫類における擬態同様遺伝的な形態自体を自ら変化させることは如何なる生物でも不可能なのである。
結果的にツノゼミのような擬態にも何にもならない説明不可能な形態を獲得する場合もあり、擬態とは自然淘汰の偶発的「結果。」に過ぎず当人の意図的「目的。」意識など存在しない。
脳の視覚野においても、体性感覚野においても、抹消感覚器官と同じ配列マッピングを採る場合があり。これを短絡的に体表の模様として出力すれば結果的に擬態と同じ効果を得ることになる。
脳を介在しているからといって、必ずしも意識的に行動選択をしているわけではなく。ヒト以外の生物の行動については結果的に生存に適しただけに過ぎない。
無意識な機能がどんなに洗練され生存に適した高度な機能を持っているとしても、全ては無意識的条件反射であり。そこには自然淘汰の生存「結果。」しか存在しない。
従って偶発的に生存していた「結果。」に後からどんなに目的意識に伴う知能性をこじつけても、それは偶発的結果に対する「説明のための説明。」以上の何物でもないのである。
生物が全く生存に適さない機能や行動といったものを持っていても何ら不思議はない、それは全て偶発的な「結果。」に過ぎないからである。
偶発的に生存に適する機能や能力を獲得する過程において、大量の犠牲を伴う試行錯誤的な「のべつまくなしの変異。」があっても、犠牲となった個体種の存在を無視して結果的に生き残った個体種だけを取り上げ、あたかもその個体種が意図的目的意識に基づいて機能や能力を獲得したかのように論ずるのはご都合主義でしかない。
数十億年に渡る進化変異の全てを把握することは不可能である。ヒトの起こす犯罪ですら全ては把握不可能であるにも関わらず、生物進化の過程の全てを説明することなど原理的に不可能なのである。
現在の生物学者達の「説明のための説明。」というのは、司法において検察が自分達の想定した推理による筋書きを予め用意しておいて、後から筋書きに有利な証拠だけを断片的に集めて来て立証であると強弁するのと似たようなものである。
生物学者達は理論的な真理を追求することが目的ではなく、生物進化というものをあたかも万能であるかの如く「説明したい。」だけであり。文系大衆観念を満たすことによる気分的満足が目的である。そのため気分的満足に適さない合理的説明に対して、何ら合理性のない観念によって否定し続けようとするのである。
本能的気分が優先すれば論理思考は停止することは何度も述べた。実証不能の観念程強い感情を伴い、異常なまでに執着を発揮するものである。そして多くのヒトは感情的な相手の言うことに「観念。」することで思考停止に陥れられていることすら認識することは出来ない。
こうした手口は詐欺師や占い師と同じものであり、生物学が大衆の論理思考を撹乱しているということは、研究費の無駄遣いだけでなく、いわば詐欺師の片棒を担いでいるのと同じことである。こんなバカげた行為は社会的に許されて良いわけがないのである。
コンピュータウイルスであれば悪意のあるハッカーだけが高度化していて、一方ファイアウォール防御技術だけが全く進歩しないような状態である。PCやスマホにおけるワクチンに相当するものとして、詐欺師に騙されないようにするためには意識とは何か無意識とは何かを個人が認識することである。
ヒトにおける文系大衆観念という脆弱性を、気分的に認識したくないからといって放置しておいて詐欺が減るわけがない。現在の生物学/脳科学はあまりに非合理で不毛である。
観念とは本能無意識の産物である。脳の働きの全てが知性であるわけではなく、ヒトにおいても脳の働きの9割以上は無意識的固定観念によって支配されているのである。だからこそヒトの多くは自律的に何かに気付くことが出来ずに呆然と刷り込み学習した固定的文系大衆観念を優先してしまい、本質的に合理性のある判断というものが全く出来なくなるのである。
脳を介在した行動の全てが知性ではない。蛾が焚火に飛び込む行動であってもヒトが詐欺に引っ掛かるのも脳が作り出した行動の結果であり、本能という予め組み込まれた無意識的行動バイアスによって促されているのである。
焚火のような人工火炎というものはヒトが発生した数十万年から数百万年の出来事であろう、それよりも長い間生存に適した行動習性として光源の鉛直方向へと飛翔する本能が組み込まれた結果として蛾は焚火に飛び込むのである。
逆に言えば、数万年にも及ぶ犠牲を伴っているにも関わらず、蛾は全く焚火に対する対処対応というものが出来ない。これは本能という機械条件反射的に組み込まれた行動以外を、意識的、自律目的として選択することが出来ないことを意味する。詐欺に対する耐性が多くのヒトに先天的に獲得できないのも同じ原理によるものである。
ヒトの多くは実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけてきた。観念とは無意識の産物であり、且つ脳の産物でもある。ひとえに「脳の産物。」といっても、無意識的固定観念というものは大脳辺縁系の産物であり、自律的論理検証性というものは大脳新皮質の所以である。脳の機能の全てが知能であるわけではなく、むしろ9割以上の無意識によって本質的な知能認識能力は阻害されているのである。
何を所産とするかは意識か無意識かに依るものであり、破綻破滅への暴走というものは全て無意識が作り出すものである。意識的に行動選択することができれば破滅への暴走を認識し抑制することが可能であり、これが欠落しているから暴走を誰も止めることができないのである。暴走を止められて初めて知能であり意識であると言えるのである。
認知科学者が無意識の優位性を論ずる時、必ず時代や世間に依存した世間的成功が基準となる。将棋だのゴルフだのといった論理的に知能の根拠を持たない基準に基づいた競技順位を基準として「知能と見なす。」のである。
将棋だのゴルフにおいて高い順位を得ることが出来るとして、これが社会全体にとって持続可能性や安全性に寄与できるわけではなく。あくまで個人的な世間における優位性を論じているに過ぎない。
それなら詐欺師が高度な能力を発揮する場合においても、「賢い。」と見なすことになるであろう。これこそが文系大衆観念の持つ非合理的知能論の所以である。
個人的利益という本能に基づく順位を基準にしていれば、社会全体における持続可能性や安全性への自律的判断が価値を失うのは当然である。これこそが「バカ。」の所以である。
本質的知能による本質的合理性を追求した場合、頭の悪い大衆観念によって形成されている世間においては成功や評価がされないのは当然である。ナチス政権下において大量殺人に反対することは世間的に失敗し評価されることはなかった、こうした間違った評価による世間的失敗の原因とは、多数大衆による頭の悪さ故である。
頭が悪く無意識な者程自律的論理検証を忌避し、なを且つその場限りの言い逃れだの取り繕いにばかり意識が働くのである。言い逃れだの取り繕いには異常なまでに脳が働くので、あたかも頭が良いように「見える。」のかも知れないが、これは錯覚に過ぎない。認知症の初期症状においても同様の錯覚が働くのは、論理検証的に知能というものを測っておらず、文系大衆観念に基づいた無意識的判断しかしていないからである。
生物/脳/認知科学者達は、その無駄知識の多さと多数決的権威性によって、その地位や体制を維持することができるのであろうが、これらは全て錯覚の産物である。
カルト集団がその体制維持を可能であるのは、体制に加担している多数のヒト達による無意識的錯覚によるものである。西武グループにせよ、大王製紙にせよ、オウム真理教にせよ、東京電力にせよ、現在の生物学界にせよ、あらゆるカルト集団というものは内部のヒト達の無自覚性という錯覚によって体制が維持されるのである。
「会長の権力は絶対だと思っていた。」と、西武グループの社員は後述している。「思う。」だとか「気がする。」といった論理的根拠のない気分本能的な無意識行動バイアスに流されているから、合理的な論理検証性が全く働かなくなるのである。
東京電力における原発事故の予測回避の放置においても、「津波の影響を考慮すると、日本の何処にも原発は造れない。」という無責任性な固定観念を放置した多くの社員達によって作り出されたものである。畑村洋太郎の検証によれば、予め津波の影響を考慮に入れておけば論理的には炉芯溶解は回避できたのだと言う。
東電の作り出した「日本の何処にも原発は造れない。」という観念は、実際には「津波の影響を考慮に入れて原発を造れば採算性が採れないので、結果的に原発を造ることが出来なくなる。」ことを論じているのであって、原発の機械的安全性とは無関係な論理である。
社会全体の持続可能性や安全性を無視してしまえば、あらゆる行動選択というものは意味を失う。たとえ目先の物質的利益を得ることが可能であるとしても、長期的に見て社会が崩壊する可能性を含む以上、何ら本質的には合理性を伴うことはないのである。
持続可能性のない社会になど、もはや一分一秒たりとも人間として存在する価値などないのである。
ところがヒトの多くは目先の欲望や観念が優先してしまい、人間としての存在価値を簡単に失うことが可能である。目先の9割以上の無意識に行動が左右され、1割にも満たない論理検証性は便所の紙屑の如く破棄される。
結果的に9割以上の無意識的気分を満足させることにしか意識は働かない。
個々のヒトが社会全体の持続可能性や安全性を考慮せず、目先の固定観念に基づく気分的満足安心ばかりを追求していれば、社会は暴走を招き破綻に陥る以外にない。
無意識であるということは危機管理能力の欠落でもあり、無意識でいれば気分的には安心でもある。「自分一人くらいなら。」とか、「自分一人ではどうにもならない。」といった言い訳/言い逃れを用いて自律的な社会的責任判断を放棄するのは非常に簡単なことである。「出来そうにないことを、自分に要求するな。」などというゾロアスター教を鵜呑みにしておいた方が気分的には楽になれるであろう、しかしこうした気分的楽こそが思考停止による危機意識の欠落を招くのである。
本能というものが常に都合の良い結果を導いてくれる論理的根拠など全くない。詐欺にひっかかるのも、権威の命令に服従して原発の危険性を放置することも、これらは全て本能という無意識が導いたものである。にも関わらず「本能無意識こそが論理検証性を作り出す。」などと言い張る認知科学は科学としての役割を全く果たしていない。
むしろ従来の文系大衆観念に基づいた根本的誤認を隠蔽することによる体制維持だけが目的で、何が真理であるかという論理検証など生物/認知科学者達にとって権益権威の喪失にしかならないため、結果=目的という実証不能の観念に基づいた論証しかしたがらないのである。
生物学者達は科学的権威の擬態をしている。それがどんなに高度でも、知能と言うことはできない。
Ende;