○選択可能性。
数十億年に渡る淘汰の結果である現在の生物相だけを観測している限り、過去に起こったことの全てを説明することは原理的に不可能である。証拠の全てが保存されているわけではなく、全ては憶測による推理にしかならない。
何より偶発性に依存した突然変異に起因する現象である遺伝的な進化変化については、目的的な「説明。」をすることは理論的に不毛である。突然変異には誰の目的意図も介在していないからである。
進化に対する合目的的な「説明。」というのは、あくまで生存だの種の保存といった「結果。」を生物学者達が「目的。」であると勝手に決め付けた上で強引にこじつけたものであり。「説明のための説明。」に過ぎず、何ら論理的証明にはなっていない。
ミミックオクトパス(学術名は知らない。)の能動的擬態だけを見れば、あたかもタコが意図的目的意識に基づいて行動選択をしているかのように「思え。」るのであろうが。こうした「思い。」には論理的根拠がない。
脳を介する能動的物真似擬態といったものは鳥類の一部でも見られる。カメラのシャッター音を真似することによって、あたかもヒトが存在するかのように天敵が錯覚するとすれば、結果的には物真似は「成功。」したことになるが。何の物真似をするのかは鳥自身の気分次第であって、何ら目的意識が介在する必要性はなく。あくまで偶然の結果でしかないのである。
ヨツコブツノゼミのように、従来の生物学における「説明のための説明。」が不可能な生物が存在しても何らおかしなことではなく。従来の生物学における「説明のための説明。」の方が間違っているのである。
ヨツコブツノゼミの場合、捕食者からすればトゲが喉に刺さって食べ難いという効果はあろうが。コブ自体には意味がない。この場合における「意味。」とは、あくまで結果的に生存に適するかどうかについての断片的意味に過ぎない。
「へんないきもの。」の著者である早川いくをも、ヨツコブツノゼミの説明において「何らかの意味が必ずあるはずである。」と述べている。しかし、良く考えてみて頂きたい。意味がある論理的必然性は一体どこにあるであろう。
突然変異というのは、いうなれば「テキトー。」であって。支離滅裂な偶然性によるものである。それが結果的に生存に適するかどうかも環境に依存しており、どのような進化変化をしていようとも何らかの目的に適する必然性など必要ないのである。
遺伝的に突然変異が組み込まれているのも、突然変異が組み込まれていない種の生物が淘汰された「結果。」に過ぎず。変異の程度が様々なのも、環境適応の結果に過ぎない。当然「適応。」自体も誰の目的意図によって自発的に選択されたものではなく、あくまで「結果。」以上の何物でもない。
ヒトの本能的行動習性であっても、集団に迎合することによって破滅暴走に向かう結果を導くことも少なくはない。生物学者達が本能的な暴走というものの原因を環境状況といった外的要因にしたがるのは、生物学者自身の自律的行動選択の欠落による必然的帰結であり。自分がしたくない自律判断であれば誰もがしたくないと「思う。」のはとても「自然なこと。」でもある。
自然本能のままに流されておけば破滅暴走に陥っても「仕方ない。」ものである。ヒトという種の本能習性のままに行動しておけば、原発が暴走しようと大量虐殺に至ろうと「仕方ない。」のである。しかし、こうした本能習性というものに抗がい、本質的に合理性のある持続可能性や安全性といったものを獲得するためには本質的な意識というものが不可欠である。ヒトは意識を持つことで人間として振る舞うことが可能になる以上、「仕方ない。」といった選択不可能性の証明など存在しない。あらゆるヒトに絶対に可能であるとは言わないが、可能であるにも関わらず気分的に「したくない。」からしないというのは、本能的であり無意識であり無責任なのである。
破滅暴走というものは無意識である本能習性の産物である。この破滅暴走性に対する耐性として意識/論理検証性というものを結果的ではあれ獲得したヒトという種である以上、これを放棄するというのは人間として怠惰と言う他ない。
どんなに気分的に嫌であろうとも、その「嫌。」という気分自体も自己選択によるものではない。
「あらゆる生物の存在には何らかの意味が存在するはずだ。」という観念が、文系大衆にはある。それは自己存在の意味というものが予め決定していて、自己自身で存在の意義を持たなくても生存し続けることの正当性が自分以外に存在すると「思い。」たいからである。
そう思うことで気分的に「元気が出る。」だの「勇気がわく。」からである。文系大衆観念というものの根源は、全てこうした気分的な本能的快楽によって促されるものであり。そこには合理的根拠や論理的意味といったものは存在しない。
ヨツコブツノゼミのコブのように、結果的に組み込まれた本能には意味のないものが含まれていても何らおかしくはないのである。
目先の多数他人や、それによって規定された権威への服従迎合というものに対してのCybernetics的説明というものを枚挙しても、本能的服従迎合の危険性の反証には全くならず。むしろ危険性を意識から遠ざける効果しか持っていない。
詐欺師に騙されるヒトの脳の習性というものも本能的感情システムの「結果。」であり。これ自体は当人の意識的選択によるものではない。これはナチス政権に服従迎合したドイツ人や、原発の暴走を放置した東京電力の社員においても同様である。
多くのヒトが引っ掛かった場合、それが集団催眠/洗脳であることすら認識したがらない傾向というものがある。多数派同調バイアスという本能的習性というものは、多数派に迎合した個体が結果的に生存に適した結果に過ぎない。
頭が悪い方が生存に適しても何の不思議もない。実際シエラレオネでは残虐性を競うことこそが生存に適したのである。
ヒトという種の生物が、その進化過程においてどのような淘汰が働いたのかは知る由もない。従って自己自身によって意識的選択を介していない本能習性による行動バイアスがどのような結果を導くのかは何の保障もないのである。
多数派同調バイアス、或は正常性バイアスといったものが津波災害においての被害拡大を招いた。こうした気分本能的な行動バイアスこそが本能的社会形成習性として組み込まれており、その結果としてナチズムや東電イズムを作り出したのである。これらの行動バイアスというものは本能気分といった無意識によって作り出される。
多数派同調によって服従することに安心し、正常性への勝手な思い込みによって危険性は無視される。そこには本質的な合理性の追求というものは存在せず、目先の断片的合理性だけが優先されているのである。こうした目先の断片的合理性のことをカントは純粋理性であると錯覚したのである。
チンパンジーの瞬間記憶能力を見ていると、あたかもチンパンジーの理性によって成立しているものであると錯覚しがちであろう。非常に高度で高速な特定能力というものは、あたかも本質的知能によって作り出されていると「思い。」がちなのであろう。しかし、実際にはチンパンジーの瞬間記憶能力というものはエサに対する機械条件反射的に作り出された能力であり、環境依存的な結果以上の何物でもない。
確かにチンパンジーの断片的能力は「凄い。」かも知れないが、それは程度問題に過ぎず知能の論証にはなっていない。
どんなに記憶力が高くても学力成績が高くても、自律的に社会安全性や持続可能性を求める本質的な人間としての知能の論証にはならない。
社会安全性や持続可能性を求められないのであれば、これは人間の社会にとって害はあっても利益にはならない。たとえ世間的/表面的に成功しているとしてもである。
ヒトは見た目という無意識判断が9割以上である。故に時代に左右される世間的価値観や、表面的な成功といったものを主体的価値観として考えがちである。社会安全性や持続可能性を追求しても世間的評価や報酬には短絡的には直結することはなく、むしろ世間的には排除の対象となる場合も少なくはない。
ヒトの多くは世間的な個人的利益/成功といった価値観に意識を奪われがちである。自己存在の価値というものを目先の世間に求めていれば自律は失われる。自律とは自己尊厳に基づいて行われるものであり、世間という環境に依存しない確固たる意思なくしては不可能なものなのである。
○自然。
自然という熟語の読みには「しぜん」と「じねん」の二つの読み方がああるそうで、「じねん」の方は仏教由来の言葉だそうで因果律を持たないもののことを現すそうである。
突然変異そのものは因果律を介在しない。因果律を介さない突然変異による結果である以上、変異の後にどのような淘汰過程の因果関係を並べても、根本自体に因果律が伴わないことは変えようがない。
現在の生物学における生物の結果に対する「説明。」というものは、その説明の最も根本的な突然変異の偶発性を無視した「こじつけ。」に過ぎない。
ある生物が生存に適した進化変化をしたことを、あたかも生物個体が自主的/主体的に変異を意図的に「した。」と現在の生物学は論ずるが。変異が生物個体の意図によって遺伝要因を変化させたことの論証には原理的にならない。
脳機能を介する能動的擬態である物真似であっても、生物個体が天敵の視覚的撹乱を意図して行っている論証はなく。むしろ意図目的といったものを介さず、淘汰の結果的反射行動である本能のままに行動自体の淘汰が行われた結果に過ぎず。先天的本能として組み込まれたあらゆる機能というものには個体当人の目的意識が介在する余地はない。
一見知能的に行動擬態/物真似を行っているように「見える。」としても、これこそが文系大衆観念による錯覚であり。こうした大衆観念による錯覚自体が先天的に組み込まれた無意識本能によって促されているのであり、こうした錯覚自体は当人個人の意図目的意識によるものではない。
意図目的意識が介在していないからこそ論理検証性のない観念として多くのヒトは「リアリティ。」を「感じ。」るのであり、こうした「感じ。」によって錯覚は錯覚足りうるのである。
従来の生物学は生存という結果に対して、あたかも目的が存在するかの如く膨大な「説明。」をしてきたが。これらの「説明。」というものは根本的に結果と目的を論理的に明確に区別していない「こじつけ。」以上の意味はなく、何ら論理的説明にはならない。
別段釈迦の言っていることを立証する必要性はないが、突然変異という偶発性が自然の根本にある以上、これは因果律を伴わない「じねん。」の考えの方が科学的にも合理性があると言える。
多くのヒトは断片的な説明だけで全てが論理証明であるかの如く錯覚しがちであるが。これは興味意識による論理検証性が足りておらず、本能由来の錯覚によって気分的に「納得。」することと「論理検証性。」を間違えているからである。
生物の全てが環境と調和し、持続可能で安定しているわけではない。現在の自然界の安定性というのは数十億年に渡る変異淘汰変化による結果として「概ね。」の安定性を獲得しているに過ぎず。決して万能完全であるわけではない。
ヒトという種の生物の本能的行動においても、「概ね。」安定的であるとしても。常に安定的で論理的判断ができるわけではなく、本質的合理性を持った社会持続可能性や安全性を基準とした選択というものは本能気分に流されることなく本質的意識によってのみ行われるものである。
そして本質的意識/本質的合理性追求というものは本能的には組み込まれておらず、あくまで当人の自発的な思考意欲によってのみ促されるものである。
本能的に組み込まれた行動というものは本質的合理性が伴うわけではなく、あくまで「概ね。」安定的なだけに過ぎず。環境や状況によっては簡単に暴走を招くものでもある。
Ende;