書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

共感や絆は主観に過ぎない

2022年06月19日 15時23分03秒 | 意識論関連

絆や共感性というものは 暴力団だの半グレだの暴走族や振り込め詐欺の内部でも働くものであり

日本大学田中英寿体制やプーチン政権においても その内部では絆だの共感といったものが働いているのである

イジメやヘイトスピーチに便乗する大多数のバカにおいても 共感性によって誹謗中傷が暴走を加速させているのである

 

共感される「数」だけなら SNS上の「いいね」の数欲しさに無意味な虚飾に中毒になることもある

同調圧力というものも 結局は共感性に因るものであり 共感さえしておけば人間性が発揮されるなどという短絡安易なものではない

 

多数で共感したり 「絆」を感じれば 主観的には安心満足感が得られる習性がヒトという種の生物には先天的にあるものの

それはあくまで主観的感覚に因るものであって 何に共感するかの選択に自律的な社会的責任判断選択が伴わなければ人間としての行動にはならない

衆愚迎合的に 大多数の衆愚が気分的安心満足できるような話でもしておけば それは「共感性」として働くであろうが 衆愚がいくら多数と共感共鳴して「絆」を主観的に「感じ」ても その内容が論理客観的根拠に基づいた真理であることの論拠にはならない

梅沢富美男が相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖に対して「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と主張したことに対して どんなに多数が同調共感しようが 死刑などの刑罰が無差別殺人の原因究明や再発防止にはならないのである

 

「科学は多数決ではない」のと同様に 真理もまた「数」では見極められるものではない

ナチス政権下のドイツにおいては ナチス政権こそが正義だと多数決(民主)的に選出されたのであって 主観的気分としての安心満足感は安全性の論拠にはならない

共感性だの「絆」などというのは あくまで主観的安心満足感による感覚的なものに過ぎず 普遍的な人間性の論拠にはならない

暴走族同士がどんなに共感共鳴しようとも それが人間性の論拠にはならないのであり 集団規模による多数の共感共鳴によってむしろ暴走行為を安心して出来るようにもなるのである

共感共鳴だの「絆」というのは あくまで主観的安心満足感に過ぎず 人間性の論証には全くならない

 

「自分のことを大切に思ってくれる誰か」の存在も不要である

自己が主体的に生きていないからこそ 他人からの承認のようなものを必要とするのであって 誰も自分のことを大切だとは思わないとしても 主体的に自律的な社会的責任判断選択ができれば他人は必要がないのである

日本大学田中英寿体制の中では 田中に異議を唱えて左遷されてしまえば 仲間内からは「アイツはバカだ」とバカにされていただろう

ロシアのプーチン政権下においては 国営放送で反戦を主張したアナウンサーを「アイツはバカだ」とくさした視聴者もいた

東京電力福島第一原子力発電所において 原発の津波に対する脆弱性を主張して上司から嫌われれば 「アイツはバカだ」と言われただろう 「津波の危険性を考慮に入れたら 日本のどこにも原発など作れない」と言われれば 大多数の社員はそれを鵜呑みにし 組織の利益を優先して個人が自律的な社会的責任など取ろうとはしなかった

東京電力福島第一原子力発電所の中では 無責任なバカだけが上司から「大切に思われて」いたのである

それでは 原発の津波に対する脆弱性を主張したら 社外の誰かから「大切に思って」もらえただろうか?

そんなことは絶対にない

世の中「絶対など存在しない」と言われているが ヒトが素手で宇宙空間に放り出されて生き延びることが出来ないのと同じくらい絶対である

東電社内において 誰も自律的な社会的責任判断をしないという「多数」を論拠に 社内の多数で共感共鳴する形で原発の津波に対する脆弱性は傍観放置されたのである

 

「共感性」や「絆」といった「数」に対する同調迎合性を人間性だとすり替え錯覚しておいて 無差別殺人などの犯罪を含むあらゆる無責任な「人災」の根源的原因を見極めることはできない

自分の主観的感覚を絶対的な人間性か何かだと倒錯しているからこそ 無責任な犯罪者の倒錯の温床ともなってしまうのである

「自分だけは絶対に間違えない」という倒錯をしておいて 犯罪者の倒錯を批難しても 「バカがバカをくさしている」だけにしかならない

主観的感覚そのものは 自分の遺伝子を選択不可能である時点であらゆる本能情動感情も選択不可能であり 自分が育った環境としての社会や時代から受けたあらゆる「正解データ(常識)」もまた選択不可能である

しかし ヒトは自分の頭で物事を論理客観的に検証し 考え 主観的情動に惑わされずに真理を見極めることは不可能ではない

それは必ずしも簡単ではないかも知れないが 「難しいからやらなくても良い」というものでもないのである

学生にばかり学力偏差値競争を押し付け 若い人達の労働力を買い叩き 潰し合い競争を強要しておいて 自分達だけは「難しいからやりたくない」と言い出すのは もはや犯罪レベルの身勝手なワガママである

 

 


Ende;

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