書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

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2012年03月22日 17時28分07秒 | 意識論関連
○偶発性。

 運/幸福というのは偶然のことである。

 自然淘汰というものも偶然のことである。

 偶発性というものは意図的/意識的な選択の結果ではない。

 偶発性による格差というのは原理的に不可避であり、だからこそ富の再分配としての社会主義的税の役割がある。

 マイケル:サンデル特有の思考誘導があるので、多くのヒトは与えられた命題上でしか考えることができないが。社会における結果の全てが意図的/意識的な選択によってもたらされたものではない。

 都市/文明というものは養老孟司が言うように意識の産物などではなく、ほとんど無意識の産物に過ぎない。断片的に計画性は存在していてもである。

 偶発的な結果というのは、必ずしも意識的修正や抑制なくして長期的持続可能性が得られるわけではない。自由経済主義というものも、あくまで「概ね。」うまくゆくというだけであって、全てがうまくゆく保障はない。

 自由経済の効率性というものには必ず偶発的格差が混入するものである。自然淘汰の仕組みと同じ構造が自由経済には存在するからである。自然淘汰の仕組みである以上、最終的には必ず弱肉強食によるヒエラルキー化が不可避であるため、意識的に公平性を担保するためのルールが必要となるのである。税というのはこのルールの一つである。

 現在の生物学においては、偶発性による不公平の結果だけを「目的。」であると言っているのと等価であり。誰の選択も介在しない遺伝要素による生存という「結果。」を「目的。」と混同しているから優生学の異常性を誰も指摘できないのである。

 いうなれば、現在の生物学というのは観念によって優生学を支えているばかりで論理的検証や反論を全く行っていないのである。これは怠慢というよりはむしろ犯罪である。



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 評価報酬だけが意欲を促すというのは嘘である。自発的で純粋な意欲であるなら評価報酬に関わらずに行われるものであり、災害ボランティアなどにおいては個人的損失をしてまで他者の利益/社会の貢献を行うものである。

 むしろ富だけが行動原理になっているなどというのは、自主性/自発性が欠落している者特有の意識狭窄性の証明である。富という「エサ。」しか動機にならないというのは、チンパンジーの行動原理と全く同じものであり。これには人間としての本質意識の働きというものが介在していないからである。

 チンパンジーのように社会全体の公益的視点を持たないヒトであれば評価報酬や富だけが目的であろうが、人間であればそんな短絡的で機械条件反射的な無意識行動しか選択できないわけではない。

 多くのヒトは多数他者からの評価報酬/富が動機の多くを占めるであろう。それが「現状。」であり「現実。」である。

 現状という現実を「踏まえ。」て、どのような行動こそが理想的であるかを選択してこそ「意識。」の働きである。現状という現実を迎合し、「諦める。」のは観念であり無意識である。

 諦めることを「観念する。」というのは、それが論理的根拠ではないからである。諦め観念しておけば無為無策に現状に迎合しておくことができるので、大脳辺縁系が楽なのである。大脳辺縁系が満足すれば多くのヒトは思考を停止することができるため、論理検証性が働かなくなるのである。



 サンデルだの養老の手口として、何ら建設的意見も議論も成立していないにも関わらず。機械的に講義の最後には「とても良い議論が出来たと思います。」だとか褒めることで聴衆のご機嫌を取り。はぐらかされることによる気分的満足によって、それ以上の深い思考は全く働くことはない。

 サンデルの講義からは何ら革新的解決策も画期的解析も出ては来ない。サンデルが促す題材に基づいた条件反射的な固定観念しか促すことはなく、あくまで頭を使ったかのような錯覚に陥って気分的に満足を促していることによる「人気。」であり。これは大衆迎合に過ぎないことを、多くのヒトは自律的には認識できないものなのである。

 平凡で無思考な大衆の固定観念に寄り添っておけば、バカな聴衆から人気を得ることは簡単である。ヒトの多くはEQやSQ程度のペテンであっても、それがマスコミがでっちあげたペテンであるとは認識できないからである。




 貧富が存在すること自体は必ずしも不公平とは言えない、質素な生活をする自由もあって然るべきであり、必ずしも金儲けだけが幸福の基準ではないからである。

 富の不公平が社会にとって問題なのではなく、異常なまでに富を独占しようとする欲望の暴走が貧困を産むことになるのである。

 必ずしも高い賃金を得ている者が賃金に見合った能力を持っている訳ではない。大王製紙の元会長のような単なる世間知らずのボンボンに金を与えてしまったり、オリンパスの経営陣のように粉飾をするような無能な者が地位を保守できるというのは。それを支えている服従者/迎合者の存在があるからだ。

 文系の大衆観念的には、粉飾や浪費を行ったトップの者だけを糾弾しておけば正義が行われたと錯覚するであろう。トップの者に服従迎合した者については、あたかも服従する以外の一切の選択肢が存在しなかったかのように扱い、その行動選択の問題点は無視される。これは従順且つ忠誠忠実であることへの文系観念的な「美。」的感覚によるものであり、錯覚に過ぎない。

 かつて西武グループの会長によるインサイダー取引の命令に対し、命令された社員は「会長の権力は絶対だと思っていた。」などと証言している。

 無能な異常者に服従迎合するヒトの行動というのは、それが感覚的/観念的な無意識による論理性の欠けた気分によるものでしかなく。自分に対する他者との観念的順位格付けによって行動が決定してしまうから無能な異常者が放置されてしまうのである。

 観念的順位格付けというのは本能的な社会形成習性が促すものである。他者と自己との順位格付けを観念的に規定しておくことで気分的に「安心。」することで、論理的合理性が放棄され、結果的に異常な富の偏在を産むことになるのである。

 Fair、すなはち公正公平性というのは意識的論理的に決定されるべきものであり、本能的社会形成習性が促す無意識的な服従迎合こそが公平性への最大の障害なのである。

 全てのヒトが、本能的な順位欲による特定の者への盲目的服従迎合をせずに。形式外見に惑わされずに自律的に公平性を維持できれば、異常なまでの不公平は解消されるのである。

 具体的対策としては透明性による多数からの監視が有効であろう。そのための内部告発であり、告発者を守るというのは企業や団体において義務であり。これを守らないということは社会全体に対する反逆なのである。

 無論、透明性があったとしても、何が不公平であるのかを認識する論理的思考/本質的意識が多数の民衆に働かなければ、透明性も役には立たない。ナチズムのように公然と残虐行為を行っていても抑制が働かなくなってしまうのは、多数という権威性への迎合による気分的「安心。」が行動を決定してしまうからである。

 権威とは、それ自体は科学的根拠ではない。権威というのは多数によって観念的に構築されるものであって、盲目服従による気分的「安心。」を本能的に求める無意識性を促すだけの「見なし。」に過ぎない。

 ヒトである以上、間違わない者などいない。過ちを冒す可能性というのは全てのヒトに存在するのであって、過ちを過ちと認識する意識/論理検証性こそが人間としての価値なのである。

 多数のヒトが論理検証を行わず、本能的安心によって特定の者に服従迎合してしまうから社会が崩壊へと向かってしまうのである。本能的社会形成習性というのは自然淘汰の結果としての無意識条件反射行動に過ぎず、何ら社会安全性を保障することはない。本能というのは偶発性による結果的選択によって偶発的に遺った機能でしかなく、どのような結果に陥るのかは誰も保障していないのである。

 自由経済主義のように、「概ね。」安全で効率的なものであっても、必ずしも常に安全性が保障されてはいない。自然選択的自由経済原理というのは、あくまで無意識的な力であって、公平性を担保するためのルールの構築運営といった意識的な誘導安全性の確保が欠かせない。




 文系観念上では、「人は環境に生かされている。」などとしたり顔で論ずるが。これは謙虚を装うことによって多数他者からの共感を得ようとする身勝手な観念に過ぎない。

 振り込め詐欺の集団内部において、「自分は振り込め詐欺師の集団によって生かされている。」としておけば、詐欺師集団に迎合服従するための言い逃れにもできる。

 土地ごとセシウムまみれにされた酪農家達にとって、現在の環境とは「殺されている。」ようなものである。決して「環境に生かされて。」などいない。文系観念というのは論理的普遍性がなく、単なるその場限りの気分的満足を得るための身勝手な文学(芸術)に過ぎない。

 芸術やスポーツというのは科学や哲学とは異なり、あくまで個人的な気分を満足させるための主観的価値観の追求に過ぎず、何ら統一的で普遍性を持った理論を追求することはない。

 哲学を文学(芸術)と分類しているからこそ、論理検証性というものが全く働かず。怠惰な気分的満足ばかりが追求され続けることになるのである。人文科学と称するのであるならば、単なるその場限りの気分的満足に溺れず、論理検証を徹底して普遍性のある理論を追求しなければならない。それが出来ないのであれば「科学。」と名乗るのは社会的嘘に過ぎず、公費の浪費による単なる詐欺に過ぎない。

 科学的真理の追求においても、自発性の源となる純粋行為には個人的主観による価値観が伴うが。これは本質的自発性の源となるべき要素であって、むしろ論理検証性/本質的意識を促すものであり。逆に文系観念の追求というのはそもそもが自発的価値観に因る純粋行為ではなく、むしろ世間に対する迎合服従本能/社会形成習性を満たすことによる無意識的満足に過ぎない。

 基本的に文系観念というのは思考を停止させることによって気分的満足を得るためのものであり。これが論理検証性の欠落を招き社会安全性を放棄したり破壊させるのである。

 文系観念的には共感性というものが重要視されるが、これこそが多数派同調バイアスという気分的安心による満足を正当化するための観念なのである。

 多数派同調によって気分的に満足した結果、災害からの避難の遅れを招くことにもなる。地動説を火炙りにしたのも多数派という権威性への同調によってヒステリックな解決策が選択されたのである。

 「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという大衆観念も、これも権威という多数派への同調による気分的満足を得るための論理的根拠のない身勝手な実証不能の観念に過ぎない。

 生物学/脳科学において、文系観念が混入している現状というのは論理検証性の欠落による社会安全性への冒涜なのである。事実、脳科学は社会的には無益な脳トレ類による世間的ウケ狙いにばかり邁進しており、何ら犯罪や事故防止に対するヒトの危険性について言及することはない。

 未だに脳トレ類の効果の論拠とするのは、脳血流増加である。脳の血流が増加したからといって「頭が良くなる。」ことの直接的論証には全くならず、むしろ脳トレによって脳血流が増加しているにも関わらず何の効果も存在しないことが立証されているのであり。脳血流増加は「頭が良くなる。」ことの論拠とするのは科学的に間違いなのである。

 マスコミというのは大衆観念への迎合による多数派同調とウケ狙いにばかり邁進しており、こうした事実は全く報道されることはなく。むしろ脳トレ類による人気体制を維持することによって利益追求しかしておらず。これは本質的には報道の社会的役割を全く果たしていないのである。

 マスコミ自体が詐欺をしていて、詐欺が減る訳がなかろう。




 クイズ番組における解答率の競争というのは、単なる一種のスポーツのようなものであり。暗記コンテストと同じで何ら本質的知能とは無関係である。どんなにクイズで正解をしても新しい普遍的理論や発見に結び付くことはない。むしろ既知の理論や発見の暗記に過ぎず、問題自体に間違いが混入していても「正解。」になる以上新しい理論や発見には絶対に結び付かない構造原理が存在するのである。

 マスコミはバラエティー番組でありさえすれば論理検証をしなくても良いものであると勝手に思い込んでいるようであるが。これはマスコミ側の勝手な分類に基づく身勝手な決め付けに過ぎない。バラエティー番組だからといって嘘を垂れ流して良い論拠にはならないのである。

Ende;
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