○他人の不幸。
「他人の不幸は蜜の味。」と言われる。他人を不幸に陥れると、その他人と比較して自分が優位になったような錯覚によるものである。
実際にはヒトはサバイバーズギルドのように目の前で他人の不幸を目撃してしまうと、生き残ったこと自体に罪を錯覚したりする性質もある。
他人の不幸に快楽を感じるのは、目先の比較優位性による錯覚に過ぎず。本質的な自己内部の楽しみとは無関係であるため、酒や薬物などで脳を麻痺させ本質的意識を遠ざけようとするのである。
「悪銭身につかず。」と言われ、悪いことをして得た金銭というのは下らないことで散財しないといられない性質もヒトにはある。
他人との比較優位性でしか快楽を感じられないというのは、「他人との比較」という環境依存的快楽に過ぎず。そこには本質的自己の純粋な快楽を伴わないため、麻薬常習的にエスカレートしてしまう性質がある。
こうしたエスカレートというのは、それが気分感情バイアスによる無意識な行動であるが故の暴走性であり。脳内麻薬が促す行動バイアス(無意識)の奴隷に過ぎない。
ヒトの社会というのは他人との調和互助によってのみ持続可能性や安全性が確立されるものであって、他人を不幸に陥れていればこれが崩壊することは本当は誰でも「知って」いるのである。だからこそ悪人というのは自滅暴走から逃れることが構造原理的に出来ない。
相互に他者を陥れる社会に持続可能性がないことは、余程の知能障害でもなければ大抵誰でも「理解」可能であり。こうした論理性/意識を遠ざけるために暴飲暴食だの薬物依存といった逃避行動に破綻暴走「しなければならなくなる。」のである。
自律的に社会的責任を負わないというのは、自分が生活する社会の安全性や持続可能性を他人任せにする社会的「甘え」であり。こうした無責任性というものは個人から本質的自発性が失われていることから生ずるものである。
ヒトに限らず生物学的「社会性」を持つ種の生物には、集団内部においての優位性によって遺伝要因が遺る習性があり。その集団が環境に依ってはシエラレオネのゲリラのように残虐な集団ほど「生存に適する。」ため、より残虐な集団を形成する種へと淘汰されているとも言えるのである。
実際に野生に暮らす原住民の多くがこうした残虐さを持たないのは。結果的に残虐性の高い民族は生存繁殖にはあまり適していないからである。特定の環境においては残虐性は生存に価するのだが、その特定性が非常に狭いことによる結果であり、残虐な集団には持続可能性が低いことの証明でもある。
その意味においてヒトの多くは残虐性が低い種へと淘汰されているとも言えるのだが、これは傾向性や程度問題に過ぎず、絶対に残虐な行動をヒトが採らないことの論証には全くならない。特定の行動だけを抽出して「ヒトは残虐ではない。」などと勝手に結論付ける社会心理学者というのは、目先のバカマスコミ大衆からのウケ狙いに血道をあげて科学的証明を放棄しているペテンに過ぎない。
「ヒトは残虐ではない。」と結論づけてしまえば、ヒトの暴力性に対しての研究は行われなくなるのは当然である。これは科学としての怠慢であり社会的犯罪でもある。
イジメ体罰暴力といったものがなくならないのも、ヒトの残虐性の証明であり。先天的個人差や成育環境によっても異なるが、ヒトには暴力性残虐性といったものが切り離すことが出来ない。
現代日本社会だけを見ればヒトの多くは残虐ではないが、ほんの数十年前までは暴力による覇権争いが行われていた種であり。生物種としての淘汰変異はヒトの世代交代単位から見て数万年以上必要とするものであって、中世におけるヒトの暴力性は現代のヒトにも受け継がれていることに反論の余地などない。
故に「他人の不幸は蜜の味。」などと言う話が出てくるのである。蜜は甘いが採りすぎれば毒である。正当な競争以外に他人を不幸にすることは自分の健康も害することになる。
ヒトの残虐性というものは実在し、それは環境依存的な無意識的行動バイアスによって生ずるものであり。意識という自発的論理検証性が伴わなければヒトは人間ではないのである。
個人的純粋行為であっても一種の「錯覚」ではある。所詮は脳内麻薬がもたらす快楽であることに変わりはないが、他人との比較を伴わず社会的には外見上禁欲的で社会との調和性の高さをもたらすのである。
他人との比較に明け暮れている限り、本質的な自己内部の充足は得ることが出来ないため。破綻暴走的に他人の不幸を求めるようになり、その典型が無差別殺人犯という末路に至るのである。
無差別殺人犯が少なからず学生時代に学力偏差値が高いのも、学力成績という価値観だけを鵜呑みに絶対視する短絡性に基づいた、「飴と鞭」への条件反射的無意識行動バイアスの結果だからである。
ヒトは自分が今まで採ってきた行動を事後正当化しようとする性質がある。これは自分の過ちを認めたくないという拒絶反応によるものであり、自らの頭の悪さを認識「したくない。」という気分感情的思考バイアス/思考拘束が働くからである。
自己の行動の論理検証というのは、本質的自発性がなければ働くことはない。「バカにつける薬はない。」のはそのためである。薬物ではバカは治らず、あくまで意識(自己論理検証性)によって「変わる」のが意識であって、変わらない意識は無意識に過ぎない。
バカであることはアヘンである。
バカでいた方が大脳辺縁系が楽であり、思い込みだけで行動が決定していれば何も「考え」ずに済むからである。
ところがヒトの多くは自分の思い込みを自分の「考え」だと錯覚勘違いする習性があり、思い込みを思い込みであると認識出来ずに自分自身で選択した行動の結果であると勘違いする習性がある。
自分の意識の全てが自分の論理検証性によって把握出来ているものであると、ヒトの多くは勘違いするのである。
10回クイズというのがあって、「ミリン」と10回言わせた後に、「鼻の長い動物は。」と問うと、「ミリン」につられて「キリン」と答えがちな性質を利用したトリックの一種である。
ジャンケンの前に相手から両手で強く握手されると「グー」を出しがちなのも無意識が促すものである。選挙で立候補者がやたらと握手を求めるのも、それによって観念的な親近感という錯覚を植え付けるための手口である。
このようにヒトの行動というのは、そのほとんどが無意識的条件反射行動に支配されているものであり、意識=論理検証性というのはヒトの意識の1割にも満たないのである。
ましてや環境依存的な外見的優位性という無意識的思考バイアスに意識を奪われていれば、本質的な自発性は失われて自己論理検証性は全く働かなくなるのである。
自律とは自発性の中にあり、他にはない。環境依存的強迫観念に意識を奪われていれば自律が働かないのは必然的結果なのである。
自発性の喪失というのは成育環境において他者との比較による均質性への強迫観念によって、他者との比較に意識を奪われてしまうことが原因である。
ヒトは集団内部において他者より優位に見られたい習性があり、それによってより多数からの協力や統率協調性を得ることが出来るからである。だが、それは生存価には適していても社会全体の持続可能性や安全性の確立には直結するものではない。
ヒトは生物であるから、現実には社会持続可能性を求めるようには出来ておらず。目先の快楽を追求するようにしか大脳辺縁系は出来ていないのである。
コカイン中毒患者のように、脳というのは快楽を優先するだけの臓器であって、人間としての論理検証性というものは大脳が肥大した結果的に不随したオマケのようなものでしかないのである。
生物本能的にオマケであっても、これを放棄して良い理由には全くならないばかりか。むしろこれこそが人間として最も重要な「知能」なのである。
社会持続可能性や安全性に配慮が伴わない限り、あらゆる特定能力は人間としての本質的知能とは言うことが出来ない。
ネズミやイヌの行動から断片的に特定能力を抽出しても、それは人間としての本質的知能の論証には全くならないのは当たり前の話である。ネズミに原発の運転を任せておいたからこそ福島は放射性セシウムまみれにされたのである。
振り込め詐欺師がどんなに高度な「知能」を発揮しても、それは「ネズミの知能」に過ぎない。スーパーコンピュータがどんなに高速演算を出来ても原発の運転を任せられないのと同じことで。特定の能力の高さだけを挙げて人間としての本質的「知能」であると言い張るあらゆる研究者達は、従来の見解を事後正当化することによって権威体制を維持することだけを目的とした言い逃れ/取り繕いによって保身に血道をあげているのである。
これを腐敗と呼ばずに何と形容するのであろうか。
Ende;
「他人の不幸は蜜の味。」と言われる。他人を不幸に陥れると、その他人と比較して自分が優位になったような錯覚によるものである。
実際にはヒトはサバイバーズギルドのように目の前で他人の不幸を目撃してしまうと、生き残ったこと自体に罪を錯覚したりする性質もある。
他人の不幸に快楽を感じるのは、目先の比較優位性による錯覚に過ぎず。本質的な自己内部の楽しみとは無関係であるため、酒や薬物などで脳を麻痺させ本質的意識を遠ざけようとするのである。
「悪銭身につかず。」と言われ、悪いことをして得た金銭というのは下らないことで散財しないといられない性質もヒトにはある。
他人との比較優位性でしか快楽を感じられないというのは、「他人との比較」という環境依存的快楽に過ぎず。そこには本質的自己の純粋な快楽を伴わないため、麻薬常習的にエスカレートしてしまう性質がある。
こうしたエスカレートというのは、それが気分感情バイアスによる無意識な行動であるが故の暴走性であり。脳内麻薬が促す行動バイアス(無意識)の奴隷に過ぎない。
ヒトの社会というのは他人との調和互助によってのみ持続可能性や安全性が確立されるものであって、他人を不幸に陥れていればこれが崩壊することは本当は誰でも「知って」いるのである。だからこそ悪人というのは自滅暴走から逃れることが構造原理的に出来ない。
相互に他者を陥れる社会に持続可能性がないことは、余程の知能障害でもなければ大抵誰でも「理解」可能であり。こうした論理性/意識を遠ざけるために暴飲暴食だの薬物依存といった逃避行動に破綻暴走「しなければならなくなる。」のである。
自律的に社会的責任を負わないというのは、自分が生活する社会の安全性や持続可能性を他人任せにする社会的「甘え」であり。こうした無責任性というものは個人から本質的自発性が失われていることから生ずるものである。
ヒトに限らず生物学的「社会性」を持つ種の生物には、集団内部においての優位性によって遺伝要因が遺る習性があり。その集団が環境に依ってはシエラレオネのゲリラのように残虐な集団ほど「生存に適する。」ため、より残虐な集団を形成する種へと淘汰されているとも言えるのである。
実際に野生に暮らす原住民の多くがこうした残虐さを持たないのは。結果的に残虐性の高い民族は生存繁殖にはあまり適していないからである。特定の環境においては残虐性は生存に価するのだが、その特定性が非常に狭いことによる結果であり、残虐な集団には持続可能性が低いことの証明でもある。
その意味においてヒトの多くは残虐性が低い種へと淘汰されているとも言えるのだが、これは傾向性や程度問題に過ぎず、絶対に残虐な行動をヒトが採らないことの論証には全くならない。特定の行動だけを抽出して「ヒトは残虐ではない。」などと勝手に結論付ける社会心理学者というのは、目先のバカマスコミ大衆からのウケ狙いに血道をあげて科学的証明を放棄しているペテンに過ぎない。
「ヒトは残虐ではない。」と結論づけてしまえば、ヒトの暴力性に対しての研究は行われなくなるのは当然である。これは科学としての怠慢であり社会的犯罪でもある。
イジメ体罰暴力といったものがなくならないのも、ヒトの残虐性の証明であり。先天的個人差や成育環境によっても異なるが、ヒトには暴力性残虐性といったものが切り離すことが出来ない。
現代日本社会だけを見ればヒトの多くは残虐ではないが、ほんの数十年前までは暴力による覇権争いが行われていた種であり。生物種としての淘汰変異はヒトの世代交代単位から見て数万年以上必要とするものであって、中世におけるヒトの暴力性は現代のヒトにも受け継がれていることに反論の余地などない。
故に「他人の不幸は蜜の味。」などと言う話が出てくるのである。蜜は甘いが採りすぎれば毒である。正当な競争以外に他人を不幸にすることは自分の健康も害することになる。
ヒトの残虐性というものは実在し、それは環境依存的な無意識的行動バイアスによって生ずるものであり。意識という自発的論理検証性が伴わなければヒトは人間ではないのである。
個人的純粋行為であっても一種の「錯覚」ではある。所詮は脳内麻薬がもたらす快楽であることに変わりはないが、他人との比較を伴わず社会的には外見上禁欲的で社会との調和性の高さをもたらすのである。
他人との比較に明け暮れている限り、本質的な自己内部の充足は得ることが出来ないため。破綻暴走的に他人の不幸を求めるようになり、その典型が無差別殺人犯という末路に至るのである。
無差別殺人犯が少なからず学生時代に学力偏差値が高いのも、学力成績という価値観だけを鵜呑みに絶対視する短絡性に基づいた、「飴と鞭」への条件反射的無意識行動バイアスの結果だからである。
ヒトは自分が今まで採ってきた行動を事後正当化しようとする性質がある。これは自分の過ちを認めたくないという拒絶反応によるものであり、自らの頭の悪さを認識「したくない。」という気分感情的思考バイアス/思考拘束が働くからである。
自己の行動の論理検証というのは、本質的自発性がなければ働くことはない。「バカにつける薬はない。」のはそのためである。薬物ではバカは治らず、あくまで意識(自己論理検証性)によって「変わる」のが意識であって、変わらない意識は無意識に過ぎない。
バカであることはアヘンである。
バカでいた方が大脳辺縁系が楽であり、思い込みだけで行動が決定していれば何も「考え」ずに済むからである。
ところがヒトの多くは自分の思い込みを自分の「考え」だと錯覚勘違いする習性があり、思い込みを思い込みであると認識出来ずに自分自身で選択した行動の結果であると勘違いする習性がある。
自分の意識の全てが自分の論理検証性によって把握出来ているものであると、ヒトの多くは勘違いするのである。
10回クイズというのがあって、「ミリン」と10回言わせた後に、「鼻の長い動物は。」と問うと、「ミリン」につられて「キリン」と答えがちな性質を利用したトリックの一種である。
ジャンケンの前に相手から両手で強く握手されると「グー」を出しがちなのも無意識が促すものである。選挙で立候補者がやたらと握手を求めるのも、それによって観念的な親近感という錯覚を植え付けるための手口である。
このようにヒトの行動というのは、そのほとんどが無意識的条件反射行動に支配されているものであり、意識=論理検証性というのはヒトの意識の1割にも満たないのである。
ましてや環境依存的な外見的優位性という無意識的思考バイアスに意識を奪われていれば、本質的な自発性は失われて自己論理検証性は全く働かなくなるのである。
自律とは自発性の中にあり、他にはない。環境依存的強迫観念に意識を奪われていれば自律が働かないのは必然的結果なのである。
自発性の喪失というのは成育環境において他者との比較による均質性への強迫観念によって、他者との比較に意識を奪われてしまうことが原因である。
ヒトは集団内部において他者より優位に見られたい習性があり、それによってより多数からの協力や統率協調性を得ることが出来るからである。だが、それは生存価には適していても社会全体の持続可能性や安全性の確立には直結するものではない。
ヒトは生物であるから、現実には社会持続可能性を求めるようには出来ておらず。目先の快楽を追求するようにしか大脳辺縁系は出来ていないのである。
コカイン中毒患者のように、脳というのは快楽を優先するだけの臓器であって、人間としての論理検証性というものは大脳が肥大した結果的に不随したオマケのようなものでしかないのである。
生物本能的にオマケであっても、これを放棄して良い理由には全くならないばかりか。むしろこれこそが人間として最も重要な「知能」なのである。
社会持続可能性や安全性に配慮が伴わない限り、あらゆる特定能力は人間としての本質的知能とは言うことが出来ない。
ネズミやイヌの行動から断片的に特定能力を抽出しても、それは人間としての本質的知能の論証には全くならないのは当たり前の話である。ネズミに原発の運転を任せておいたからこそ福島は放射性セシウムまみれにされたのである。
振り込め詐欺師がどんなに高度な「知能」を発揮しても、それは「ネズミの知能」に過ぎない。スーパーコンピュータがどんなに高速演算を出来ても原発の運転を任せられないのと同じことで。特定の能力の高さだけを挙げて人間としての本質的「知能」であると言い張るあらゆる研究者達は、従来の見解を事後正当化することによって権威体制を維持することだけを目的とした言い逃れ/取り繕いによって保身に血道をあげているのである。
これを腐敗と呼ばずに何と形容するのであろうか。
Ende;