○利根川進。
利根川進は「羽生善治のような能力が本当の天才だ。」と述べたが。これは科学的にはとんでもないペテンである。
将棋での勝率などの特定能力の高さというのは、人間としての自律的な社会的責任判断能力とは無関係であり。特定能力の高さを「本当の天才。」すなはち「本質的知能。」だと言い張るのは、科学者としてあまりに身勝手傲慢で無責任である。
東京電力社員の多くが原発の危険性をどうして放置したのかなど、ヒトが一人の人間として自律的に社会的責任判断をくだすためには何が必要であるのかを無視し。大衆迎合的に将棋の勝率などの特定能力の高さだけを取り上げ本質的な知能とは何であるかの議論を放棄するというのは、税金で研究している独立行政法人として傲慢極まりない。
特定能力だけがどんなに高くても、自律的に社会的責任判断に基づいた行動が自発的に採れないのであれば、これはいかなる特定能力の高さも人間としての知能としては機能しないことは明らかであり、これに対する論理的異論は一切ないにも関わらず、特定能力の高さだけを基準にして知能だの才能だのを論じているというのは、もはや学術権威としての社会的責任を放棄しており、あまりに独善的で無責任である。
自律的な社会的責任判断力こそが知能の本質であることを認識出来ない時点で、既に自律的な社会的責任判断力が欠如している証明であり。利根川進は学術権威として以前に人間としての社会的価値は存在しない。
Ende;
利根川進は「羽生善治のような能力が本当の天才だ。」と述べたが。これは科学的にはとんでもないペテンである。
将棋での勝率などの特定能力の高さというのは、人間としての自律的な社会的責任判断能力とは無関係であり。特定能力の高さを「本当の天才。」すなはち「本質的知能。」だと言い張るのは、科学者としてあまりに身勝手傲慢で無責任である。
東京電力社員の多くが原発の危険性をどうして放置したのかなど、ヒトが一人の人間として自律的に社会的責任判断をくだすためには何が必要であるのかを無視し。大衆迎合的に将棋の勝率などの特定能力の高さだけを取り上げ本質的な知能とは何であるかの議論を放棄するというのは、税金で研究している独立行政法人として傲慢極まりない。
特定能力だけがどんなに高くても、自律的に社会的責任判断に基づいた行動が自発的に採れないのであれば、これはいかなる特定能力の高さも人間としての知能としては機能しないことは明らかであり、これに対する論理的異論は一切ないにも関わらず、特定能力の高さだけを基準にして知能だの才能だのを論じているというのは、もはや学術権威としての社会的責任を放棄しており、あまりに独善的で無責任である。
自律的な社会的責任判断力こそが知能の本質であることを認識出来ない時点で、既に自律的な社会的責任判断力が欠如している証明であり。利根川進は学術権威として以前に人間としての社会的価値は存在しない。
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