書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

傍観放置。

2013年12月22日 16時18分56秒 | 意識論関連
○亀山郁夫。

 「罪を犯した者が反省し、人間として復活することはあるのか。」を論じても社会的には何の意味もない。

 「犯罪者が救済」されても、そんなものは犯罪者個人の主観的自己満足に過ぎず。犯罪というものの原因究明にも再発防止にもつながることはなく、社会的には全く意味を為さず。こんな話で満足しているのは自律的論理検証性の欠落した大衆迎合に過ぎない。

 どんなに多数の大衆が満足しても、論理的には社会的価値が存在しない話である以上、これは哲学ではない。

 亀山郁夫がどんなに徒に胡乱な解説を開陳しても、主観的感想以上の意味はなく、論理弁証法に基づいた哲学としての社会的責任を全く果たしておらず。哲学ではないものを哲学だと言い張るのは詐欺ペテンに他ならない。



○黒崎政男。

 黒崎政男はオーディオなどのアナログ機器における主観的感覚に過ぎない「感じ」というものと、デジタル論理回路で構成された人工知能についての客観的検証を混同しており。論理弁証的哲学としての分析に全くなっていない。

 知能か否かの検証というのは主観的「感じ」で論証出来るようなものでは構造原理的になく、徹頭徹尾論理検証的に論証されるべきものであって、黒崎は自分の主観的感覚を絶対的なものであると勝手に錯覚しているオカルト勘違い男である。

 大衆の多くは、主観的感覚によって知能か否かを判定出来るものであると勝手に錯覚しているが。こうした大衆的錯覚を利用する形で非論理的観念でしかない「感じ」で人工知能を論証したかのように言い張るのは詐欺ペテンに他ならない。



○松沢哲郎。

 京都大学の松沢哲郎も哲学科出身だそうだが、現状の哲学というのは主観的感覚と、客観的論理検証を履き違えており。哲学としての意味を全く為しておらず。この根源的大間違いを指摘出来ていない時点で哲学者としても科学者としても無能であり。現在の生物学界における多数決的評価による文化功労賞を獲得しても、科学者として社会的価値を持つわけではない。

 チンパンジーに図形文字を使えるように出来ても、短絡的にチンパンジーが人間としての知能を論証したことには全くならない。なぜなら振り込め詐欺師でも通り魔でも文字言語を扱うことは可能であり、言語機能を獲得可能かどうかは、「ヒト」という種の生物の特異性の論証にはなっても、「人間」としての知能の論証には全くならないからだ。

 チンパンジーやヒトに対し、エサと引き換えに如何なる特定能力を学習獲得させたとしても、学習させた以上の新しい発見や発明が出来るわけではなく。「偏差値の高い無差別殺人犯」同様、人間としての知能の論証には全くならない。

 松沢の論証法というのは、「文法の萌芽のようなものを感じた。」などという、主観的感覚をご都合主義的にこじつけただけの勝手な妄想程度の意味しかない。

 「言語を扱えれば人間性の論証になる」などという短絡的でバカげた観念を、多数大衆はあたかも科学的論証であるかのように錯覚するからといって。こうした非科学的観念に文化功労賞を与えるというのは、合法的詐欺ペテンに他ならない。

 そもそも「チンパンジーの利他行動から、人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」などという、論理的に絶対不可能な予測を立てている時点で、業績の捏造に他ならない。

 チンパンジーが数百のボキャブラリーを覚えたとしても、所詮は「エサと引き換えに覚えさせる。」という形式である以上、これは本能的情動である摂食本能を利用して特定能力を獲得させただけであって、訓練という環境に依存した「結果」的能力獲得に過ぎず。本質的な主体性や純粋な好奇心に依る「目的」能力獲得の論証にはならない。だからこそ「偏差値の高い無差別殺人犯」というものが存在するのであり、学力成績評価などの環境依存的で抽象化された「脳への報酬」欲しさに獲得した如何なる特定能力の高さも、本質的な人間としての知能の証明にはならないのである。

 摂食本能自体はチンパンジーが自発的に選択した「目的」行動選択ではなく、あくまで先天的に組み込まれた本能習性の「結果」に過ぎず。根源が単なる「結果」である以上、それを利用して獲得「させた」能力である限り、そこに意志としての「目的」選択が介在する余地はない。

 特定能力を獲得させるような環境下において習得させた能力以上の能力を、環境に依存せずに獲得可能であるという点だけが人間としての本質的な知能と言えるのであって。特定環境下に置かなければ獲得不可能であるという点において、これは本質的には「自発性」でもなければ「純粋な好奇心」の論証にもならない。

 もう少し平たく言えば、「エサでそそのかして獲得させたあらゆる特定能力。」など、「エサでそそのかしている。」時点で本質的には「自発性」でもなければ「純粋な好奇心」を発揮していることにはならないのである。

 松沢哲郎のように、税金を大量に注ぎ込んでチンパンジーに如何なる芸を仕込んで大衆のご機嫌取りをしても、科学としての社会的役割には全くならず、無責任極まりない。

 松沢当人に騙している意識意図が存在するかどうかは無関係である。それは「人類の救済」と称して破壊行動を採るのと同じで、愚かであるからといって無罪の論証にはならない。それともオウム真理教による洗脳テロが当人達の意図が介在していなければ詐欺ペテンではないとでも言うのであろうか。その弁護法はあまりにもご都合主義的であり、「当人に意図がない。」という点において同じペテンに加担しているだけである。

 チンパンジーに多彩な芸を仕込み、その芸に対して松沢がどのような主観的「感じ」を持っても、主観的「感じ」である時点で科学的論証からは逸脱しているのであり。それに対して多数の愚かな生物学者が何ら論理的検証による批判も出来ずに松沢の妄想に追随しても、残念ながら普遍的価値を持った科学的論証には一切ならないのである。

 一般大衆的には、学力成績が高ければ「頭が良い」と「感じ」るのであろうが、主観的に「感じ」るだけでは主観的観念の域を出ることはなく、主観を多数で共有しても科学的論証には一切ならない。

 チンパンジーが気まぐれに理由もなく観測者に興味を持ったかのように「見えた」からといって、それを短絡的且つご都合主義的に純粋な好奇心であるかのように「解釈」するのは間違いである。一見気まぐれであるかのように「見えて」いるとしても、観測者である松沢が絶対に危害を加えないことの保証がチンパンジー側から見て存在するわけではなく、観測者に興味を持つことに合理性が全く存在しないことにはならない。つまり好奇心であるかのように松沢が主観的に「感じ」錯覚しているだけであって、松沢の身勝手な妄想に過ぎない

 現在の哲学界や進化生物学界というのは、このように主観的な「感じ」ばかりを優先し、全く論理的根拠のない観念ばかりをご都合主義的に正当化するばかりであり。科学や哲学としての社会的役割である社会持続可能性や安全性につながるような論理的根拠を持った普遍的真理への探求を放棄している。

 たとえ数学界であっても、チューリングテストのような主観による人工知能判定基準を鵜呑みにしており、全く科学的には役に立たない観念に過ぎないことは少なくない。「機械コンソールを介して相手が機械かヒトかを判定出来なければ人工知能だと言えるのではないか。」などという、判定者の主観に依存するような判断基準が論理的証明であるかのように錯覚するのは、数学者特有の短絡性に由来する妄想であり、無批判な論理検証性の欠落に他ならない。

 たとえ「ヒト」であっても本質的な知能を持たなければ、人工でなくても知能は存在しないのであって。「ヒト」という種の生物でありさえすれば短絡的に知能を持つことの論証などなく、自然な会話が可能かどうかなどという基準自体にそもそも知能の根拠が存在しないのである。

 未だに人工知能研究者達は将棋の勝率だのクイズの正答率だの大学入試のような特定能力の高さだけで知能が証明出来ると妄想しているが、これは業績という抽象化された「脳への報酬」欲しさによる盲目性、意識狭窄性に由来する思考停止の暴走に他ならない。こうした暴走は研究費の浪費に限らず、本質的な知能とは何かについての検証を蔑ろにする怠慢である。

 このような様々な学術権威による怠慢を放置しておいて、犯罪や過失といったあらゆる「人災」への論理科学的検証が進まないのは必然的結果である。

 怠慢というものも当人にその意識の有無は関係がない。命懸けで毒ガステロをやっている当人にすれば怠慢の意識はないであろうが、むしろその盲目性や意識狭窄性による暴走こそが怠慢を証明しているのである。



Ende;
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 右脳と論理性。 | トップ | 利根川進。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

意識論関連」カテゴリの最新記事