暴動の映像とか見ていると、いつも思うんだけど。暴れている奴らに政治的な思想とか方向性があるようには見えない。
まあ、「見た目」の印象で決め付けちゃいけないんだけど。やっていることと問題との関連性が全くないので、理論的にも意味がない。
単に日頃のうっぷんをはらしたくて、社会に対して無差別に攻撃したいと思っていた奴が、暴動をキッカケに「皆でやれば恐くない。」的に便乗しているだけ。
先日の韓流バッシングとかも同根だね。誰か自分達と異なる集団とか個人を攻撃することによって、気分的に正義を振り回した錯覚に陥って満足しているんだね。
そもそも「日頃のうっぷん。」なんてものがあるのは、社会に対して迎合的であるからこそ生じるものであり、権威に対する批判精神がないことの証明。無差別攻撃なんていうのは攻撃すべきものが何なのかがわからないから無差別になる。
何が問題で、どうすれば解決するのか。原因究明と対策を行わない限り問題なんて永遠に続く。ところが、そんな面倒臭いことは気分的に嫌なので。インスタントに攻撃対象をでっちあげて暴力を振るっておけば気分がスッキリする。
大脳辺縁系がスッキリする。
誰かを悪者と定義しておいて暴力を振るうとスッキリする。水戸黄門の人気とはそれが原因である。水戸黄門とかアイロン男みたいなバカげた正義でスッキリしているような大衆の頭の悪さこそが諸悪の根源。水戸黄門なんて権威に服従することが大前提だからね。
社会に対して個人が影響を及ぼせることなんて、本当はちっぽけなもの。それは厳然たる事実。だけど、逆に集団が及ぼす力は強大。
困ったことに、感情的な行動を共鳴させることというのは非常に簡単で。理論的合理性を追求する理性というのは集団を形成しずらい。
それは、集団を形成すること自体が動物的な習性に因るものであるからで。いうなれば「にわか暴力団。」みたいなもんなんだろうね。
本当に必要なのは、単なる動物的習性としての集団心理ではなく。独立自尊としての自律的判断を、より多くの人が行うこと。
集団の力というものも、結局は「何に、どう使うか。」という目的意識が必要不可欠。方向性のない力こそが最も始末に負えない。原発の燃料みたいなもんだからね。
アインシュタインが懸念していた、学生に対する人工的な権威、力を用いることの悪影響というものは。自律的に自分で善悪を判断しなくなってしまうことを指している。
暴動が起きているイギリスだって、学力は低くはない。暴動をやっている奴の学力が低いかどうかではなくて、そもそも自発的学習に基づく結果としての学力成績を重視していないからこそ、個人に自律判断が育たないのである。
もしかしたら学力と暴動は無関係かも知れないし。秋葉の通り魔だって学力は高かったもんね。
自分の感情を制御する教育方法というものがあるけど。これも最終的には教育環境に依存している限り、環境変化に対応できるとは限らない。だから大切なのは個人の本質的自発性を重んじることであって。これは哺乳類の習性としての服従性、「甘え。」を自ら断ち切る意思が重要。
暴動が起きた時に、その環境に迎合するか、それとも自律的に感情を抑えるか。そこは他人からの「エサ」としての見返りや報酬があるわけではない。
他人から与えられる「エサ」としての見返りがなくても自律的に判断するのは、最終的には個人の求める「社会とは、かくあるべき。」というビジョンがあるかどうか。
暴動や略奪の横行する社会を、個人が求めているのかどうか。多くの人がそこに意識がいかなければ暴動はなくならない。
学力ビジネスに関わるヒト達であれば、本質的自発性の重要性なんて面倒臭いことには関わりたくない。目先の学生の学力さえ向上すれば権利権益になるから、後に学生が通り魔になろうが、暴動に参加しようが、「私の知ったことではない。」ってことになる。それなら学力ビジネス関係者というのは「教育者。」としての素養に欠けていることになる。
「社会とは、かくあるべき。」というビジョンっていうのは、あくまで自発的に想像しないと形成されることはない。ましてや現状の社会に迎合するだけなら、そんな面倒臭いことは考えない方が気分的に楽だから。
競争というものは、個人的に好きなことにおいて楽しむべきものであって。多数からの強迫観念に基づいて行うべきものではない。ましてや学力なんぞを競争させるべきものではない。学生同士の競争に勝っても、それが社会で通用する保障すらないのである。
まあ、「見た目」の印象で決め付けちゃいけないんだけど。やっていることと問題との関連性が全くないので、理論的にも意味がない。
単に日頃のうっぷんをはらしたくて、社会に対して無差別に攻撃したいと思っていた奴が、暴動をキッカケに「皆でやれば恐くない。」的に便乗しているだけ。
先日の韓流バッシングとかも同根だね。誰か自分達と異なる集団とか個人を攻撃することによって、気分的に正義を振り回した錯覚に陥って満足しているんだね。
そもそも「日頃のうっぷん。」なんてものがあるのは、社会に対して迎合的であるからこそ生じるものであり、権威に対する批判精神がないことの証明。無差別攻撃なんていうのは攻撃すべきものが何なのかがわからないから無差別になる。
何が問題で、どうすれば解決するのか。原因究明と対策を行わない限り問題なんて永遠に続く。ところが、そんな面倒臭いことは気分的に嫌なので。インスタントに攻撃対象をでっちあげて暴力を振るっておけば気分がスッキリする。
大脳辺縁系がスッキリする。
誰かを悪者と定義しておいて暴力を振るうとスッキリする。水戸黄門の人気とはそれが原因である。水戸黄門とかアイロン男みたいなバカげた正義でスッキリしているような大衆の頭の悪さこそが諸悪の根源。水戸黄門なんて権威に服従することが大前提だからね。
社会に対して個人が影響を及ぼせることなんて、本当はちっぽけなもの。それは厳然たる事実。だけど、逆に集団が及ぼす力は強大。
困ったことに、感情的な行動を共鳴させることというのは非常に簡単で。理論的合理性を追求する理性というのは集団を形成しずらい。
それは、集団を形成すること自体が動物的な習性に因るものであるからで。いうなれば「にわか暴力団。」みたいなもんなんだろうね。
本当に必要なのは、単なる動物的習性としての集団心理ではなく。独立自尊としての自律的判断を、より多くの人が行うこと。
集団の力というものも、結局は「何に、どう使うか。」という目的意識が必要不可欠。方向性のない力こそが最も始末に負えない。原発の燃料みたいなもんだからね。
アインシュタインが懸念していた、学生に対する人工的な権威、力を用いることの悪影響というものは。自律的に自分で善悪を判断しなくなってしまうことを指している。
暴動が起きているイギリスだって、学力は低くはない。暴動をやっている奴の学力が低いかどうかではなくて、そもそも自発的学習に基づく結果としての学力成績を重視していないからこそ、個人に自律判断が育たないのである。
もしかしたら学力と暴動は無関係かも知れないし。秋葉の通り魔だって学力は高かったもんね。
自分の感情を制御する教育方法というものがあるけど。これも最終的には教育環境に依存している限り、環境変化に対応できるとは限らない。だから大切なのは個人の本質的自発性を重んじることであって。これは哺乳類の習性としての服従性、「甘え。」を自ら断ち切る意思が重要。
暴動が起きた時に、その環境に迎合するか、それとも自律的に感情を抑えるか。そこは他人からの「エサ」としての見返りや報酬があるわけではない。
他人から与えられる「エサ」としての見返りがなくても自律的に判断するのは、最終的には個人の求める「社会とは、かくあるべき。」というビジョンがあるかどうか。
暴動や略奪の横行する社会を、個人が求めているのかどうか。多くの人がそこに意識がいかなければ暴動はなくならない。
学力ビジネスに関わるヒト達であれば、本質的自発性の重要性なんて面倒臭いことには関わりたくない。目先の学生の学力さえ向上すれば権利権益になるから、後に学生が通り魔になろうが、暴動に参加しようが、「私の知ったことではない。」ってことになる。それなら学力ビジネス関係者というのは「教育者。」としての素養に欠けていることになる。
「社会とは、かくあるべき。」というビジョンっていうのは、あくまで自発的に想像しないと形成されることはない。ましてや現状の社会に迎合するだけなら、そんな面倒臭いことは考えない方が気分的に楽だから。
競争というものは、個人的に好きなことにおいて楽しむべきものであって。多数からの強迫観念に基づいて行うべきものではない。ましてや学力なんぞを競争させるべきものではない。学生同士の競争に勝っても、それが社会で通用する保障すらないのである。