書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

右脳と論理性。

2013年12月16日 15時11分42秒 | 意識論関連
○右脳優位への大衆的錯覚について。

 言語機能は左脳の領野(発話はブローカ野で文章はヴルニッケ野)が司ることが知られているが、言語であれば全て理性という短絡的なものではない。

 「言語化出来ないものは全て論理的ではない。」と、多くの文科系大衆は錯覚することが可能であるが。実証不能の観念であっても言語表現は可能であり、ペテン師や詐欺師達は言語を用いて相手の論理思考を撹乱するのである。

 論理的根拠を持たない観念を短絡的に言語化することはむしろ簡単である。

 多数で共有している慣習的固定概念を、論理的に検証することなく漫然と無意識に言語変換することは極めて簡単なことであり。これこそがヒトから論理検証性を奪い、思考停止に陥れる大きな要因の一つである。

 左脳優位な者の多くは、外見上理性的な印象を与える傾向があるが。実際には論理検証性の深さが欠落しているために、何も「考え」ておらず、従って何も「思う」こともなく、何も「感じ」ないだけであって。いわば白痴の無神経さと同じものである。

 相手が何を言っても、その内容を全く論理検証する意志がなければ、何の感情も促すことはない。感情が伴わなければ理性だと短絡的に「思う」ことこそが、実際には大衆的観念であり、ヒトの多くが実証不能の観念を放置傍観するという無神経さを発揮するのは、自律的論理検証性の欠落という無意識性によるものである。

 言語表現でありさえすれば論理性だと「思う」のは簡単であるが、実際には論理整合性のない話であっても気分的に安心満足を促す内容であれば、ヒトの多くは簡単に「わかった。」ような気分に陥り。論理整合性の欠落も身勝手な「解釈」をこじつけることで満足し、思考停止に陥るのである。

 現状世間において、言語表現のほとんど全ては論理整合性検証がされておらず、「暇人の井戸端会議。」程度の価値しか存在しない。

 ドストエフスキーを読んで、気分的に何かを理解したような錯覚に陥っても、実際の犯罪の抑止に対する具体的で論理的な原因究明にも、対策にも全くならない。

 ドストエフスキーで感動するのは勝手だが、感動という「感覚」的気分を、短絡的に意識であると、論理検証性であると解釈するのは、頭が悪いからに他ならない。

 単なる芸術文学というものは、芸術ではあっても弁証性を持った哲学にはならず。従ってドストエフスキーもニーチェもプラトンも、これらは文学や宗教の類ではあっても哲学としては意味を全く成さないのである。

 亀山郁夫がどんなにドストエフスキーで感動したのかを徒に胡乱にダラダラ長時間説き続けても、「罪と罰」から論理的犯罪対策などの具体的成果が得られることは構造原理的になく。単なる主観的感想「感じ」を大量に陳列しても哲学としての社会的役割には全く供さない。

 論理的根拠のない話を共有して、バカがバカに共感している様を見ていれば、バカではない者は怒りや憤慨を覚えるのは当然であり。目先の気分的安心満足ばかりを追求する左脳優位な者に対して、右脳優位な者が感情的になるのは必然的結果というものであり。こうした結果だけを取り上げて、「右脳=感情的」などという短絡的帰結を鵜呑みにする短絡性の方が、むしろ理性に欠けた観念に他ならない。

 右脳優位な者は、「考え」というものを言語変換するのに時間や手間が掛かる。ヴルニッケ野から文章という一次元表現でしか出力出来ないという「ヒトの脳の文章表現における構造的ボトルネック」が存在する以上、右脳の「考え」の全てを出力することは極めて困難であり、結果的に現状世間においては、「バカでもわかったような気分に陥ることの可能な簡単で短絡的な話。」以外は文章として評価され難いのである。

 右脳であっても大脳新皮質である以上、論理性を司ることに変わりはない。ただ、それを言語表現として出力することが苦手なだけなのである。

 ヒトの多くは寺島実郎が言うような「経済性と安全性を秤にかける。」ことを理性だと簡単に錯覚することが可能であるが。金では買えないものが存在することにまで意識(論理検証性)が働かないことから生じるバカげた錯覚妄想に他ならない。



 もし、今あなたが、「金で買えないものって、一体何だよ。教えてくれ。」と「思った」のであれば、あなたは典型的な意識狭窄である。自発的、自律的に「金では買えないものとは何か。」を検証する意志が存在しておらず、目の前にあることしか意識の俎上で働かない証拠であるからだ。

 自分からは自発的に何も「考え」ないのであれば、「考え」の全て、構造の全てを説明する必要がある。それはまるでコンピュータプログラムと同じで、間違いを教えれば間違ったままに作動するただの機械と同じで、バカである。

 「理解しよう。」とか「理解したい。」という主体的意志がなければ、何を読んでもバカは治らない。「お前の言っていることなど理解したくはない。」というのは的外れな見解である、おいらの主観的な気分感情を共有する意味での「わかる。」ことを拒絶するのは勝手だが、普遍性を持った理論を理解したくないというのは人間としての脳機能を放棄しているのと同じだからである。ところがヒトの多くは多数の主観的な気分感情を共有して安心満足することばかりに意識を奪われ、既存の自己存在を事後正当化するための屁理屈を陳列することにしか意識が働かない。それは厳密には「意識」ではなく「感情」「気分」に過ぎないことにまでは頭が働かないのである。

 トラウマというのも、一種「脳のバカさ」が引き起こす心理的思考拘束であるが。認知行動療法を用いて「正しい認識」を持つことによって、先天的な頭の悪さから解放するが可能である。

 幼少期に虐待を受けて育つなどの不可抗力によるトラウマであれば、これは心理臨床医学的治療が必要となるのは当然であるが。自発的論理検証の放棄を「社会が悪い。」だの「時代が悪い。」だの「教育が悪い。」だの「誰も教えてくれなかった。」などと他人のせいにするだけで具体的に時代や社会や教育のどこが悪いのかを論理的に検証し説明するつもりもないというのは、もはや臨床治療の範疇とは思えない。

 おいらが主観的の「思えない」だけかも知れないが、この世のバカのいちいちを面倒見るつもりはない。これについては後述する。



 何の話だっけ。

 ああ、そうだ、右脳と左脳の話だった。

 暗算などの数学機能も左脳が司ることが知られているが。数学が得意な奴が養老孟司の論理整合性の欠落を指摘出来るわけでもなく、数学機能というのは特定の断片的な論理思考能力に過ぎない。

 偏差値が高いだけの無差別殺人犯の存在というものも、これによって立証出来るのである。無差別殺人犯は断片的な数学機能や言語機能だけは充分に高くても、統合的な論理検証性に基づいた自律的で主体的な「考え」を全く持ち合わせておらず、目先の学力成績評価という抽象化された「エサ」につられて特定能力を獲得しただけなのである。

 こうした特定能力しか論証しない数学機能や言語機能だけを取り上げて、「左脳=論理性」などと短絡的にこじつけるのは、もはや科学でも何でもない。



 トラウマなどの心的外傷というのは、意識の上(論理検証性)では自分の情動の理由が全く理解することが出来ないケースが多い。

 「パブロフの犬。」に代表される無意識的条件反射行動というのは、当人の意識的行動選択によるものではなく。繰り返しなどによる動物的な行動「学習」、すなはち刷り込み「学習」によって反射的に高速に行動や思考として出力されてしまうものであり。個人の主体的意思行動判断選択とは無関係に陥るからである。

 意識的な論理検証による主体的な行動選択というものは、無意識な動物的条件反射に比べて速度や感情強度の点において劣る傾向があり。繰り返し行動学習してしまった条件反射行動を意識的に抑制するというのは困難である。

 繰り返し行動学習した条件反射行動というものは、脳の常習性によって「慣れ」てしまっており。機械的に瞬時に行動出力として表出してしまいがちであり、本質的な意識としての冷静な論理検証性が働かなければ無意識行動に脳を支配され、何も自分自身では行動選択が出来なくなるのである。

 これが「意識の9割以上は無意識。」と言われる所以である。ヒトの多くは自分の考えや価値観の全てを自分自身で論理検証的に把握理解しているものであると勝手に錯覚しているが、現実には自分自身では何も考えても選択してもいない「結果的な自己」を自己の全てだと勘違いしているのである。本質的な自己とは、自己自身による意識的選択判断を指すのだが、既存の自己に刷り込み学習された無意識な価値観や気分感情こそが意識であると、ヒトの多くは錯覚するのである。進化生物学者が言い出した「潜在知」なる概念も、無意識下の価値観が促す条件反射行動バイアスを事後正当化するための取り繕いに過ぎず、論理的には主体的意志による目的行動選択を伴う「知能」としての証明が存在しない実証不能の観念に他ならない。

 虐待や体罰の連鎖においても、こうした無意識性が原因であり、過去に虐待や体罰を受け入れた自分を事後正当化するための言い逃れ、言い訳、はぐらかしといった、その場限りの外見的取り繕いを、羞恥心という動物的な社会性行動バイアスで優先してしまうことで、個人の主体的な「考え」による行動選択が蔑ろになってしまうのである。

 「なぜ、自分はそう思うのか。」を論理検証するには、自分自身の頭の悪さや無意識性を認識する必要性が不可欠であり。どんなに強く「思った。」ことを強弁しても、それは心的ヒステリー拘束に過ぎず、本質的には自己自身の意識的判断選択である「考え」には全くならない。



 また、ヒトは動物的な社会性行動バイアスによって、他者よりも発言力のある優位な立場でいたいという欲望が働いており。集団の中における優位性を確保するために、他人をイジメたり差別することで生ずる環境悪化よりも優先してしまう傾向がある。

 イジメや差別排除というのは、ヒトの先天的行動習性である。ソマリアでのツチ族とフツ族による民族紛争や、シエラレオネの少年ゲリラによる想像を絶する残虐行為も、「誰よりも自分が集団内部での優位性を保ちたい。」という本能習性の暴走が促した「結果」である。

 イジメにおける残虐性も、イジメを行っている当人達には抑制が効かず、暴走しか招かない。それは先天的行動バイアスとしての社会形成習性として、集団組織的に統一行動をすることで集団組織内部だけでの信頼関係を保とうとする強迫観念が引き起こすものであるからだ。

 自律的に何も検証しない者であれば、どんな残虐行為も平気で行える。何も考えていなければ、何も感じないからである。

 冷静な残虐暴力行為は理性ではない。

 それは利益追求は理性ではないのと同じことである。

 「経済」とは、「経世済民」という言葉の略であり、「世を経て民を救済する。」という意味であって。個人や企業が利益を追求することが目的ではない。

 企業における最高責任者はCEOであり、それは「企業活動によって社会に貢献すること。」こそが企業の目的であることを意味する。

 他人を陥れてまで自分の世間的優位性を得ようとすることが、どれだけ人間として下劣な行為であるか、自分自身でそれを卑劣だと認識しなければ、何も感じることはない。

 無責任な残虐行為はどんなに冷静に行われても、決して理性ではなく。外見的冷静さを短絡的に理性と「見なす」というのは論理検証性が欠けており、同時に外見的に感情的だからといって理性ではないと「思う」のも合理的判断ではない。

 残虐行為というのはヒトの先天的本能習性であり、シエラレオネで見られたように、より残虐な個体集団こそが結果的に生存に適したという進化生物学上の「結果」であり、こうした本能習性自体は個人には選択不可能なものである。

 しかし、こうした残虐性の基となる意識狭窄性というものは、普段日常生活では発揮されることはほとんどないが。あらゆるヒトにおいて進化の過程で遺されていると考えるべきであり。ナチズムに染まったドイツ人でも、ポルポトに染まったカンボジア人でも、軍国主義に染まった日本人でも、現状の北朝鮮においても同じことであって。特別に北朝鮮首脳陣だけが先天的に異常なわけではなく、福島第一原発の危険性を放置した東電社員においても見られるヒトの普遍的性質として無責任さは発揮されるのである。

 ところが、現状の進化生物界や社会心理学界というのは、先天的なヒトの行動習性を断片的に抽出してきて、あたかもヒトは先天的な本能習性だけに頼っておけば、全てはうまくゆくものであるかのように論証したがる。

 これは、ヒトという種の生物の存在という「結果」を事後正当化することで、あたかもヒトは自動的無意識に目的行動選択がされるものであるかのようにプロパガンダしておけば、論理検証の大嫌いな文科系大衆からの人気が得やすいために、大衆迎合を目的として松沢哲郎のように結果的行動習性だけで全てを論証しようとするのである。

 これはただのペテンである。

 こうした大衆迎合的なペテンを放置しておけば、ヒトの危険性や無責任性といったものの放置の原因となり。ヒトという種の生物における危険性への危機回避策を蔑ろにする傍観放置を招くのである。

 ヒトの多くは、こうした危険性の傍観放置に何も「感じ」ることはなかろう。むしろ「ヒトという種の生物は、先天的に助け合いをする習性があり、常に他者と利益を分配し、差別や暴力を嫌うものである。」かのような論証でも進化生物学やマスコミが垂れ流しておけば安心で満足なのである。



 なぜこうした意識狭窄性ばかりが蔓延するのか。その原因を現代社会や都市にあると勘違いするのも簡単であろう。

 実際にはアメリカや日本の都市であろうが、ソマリアの田舎であろうが関係はなく。ヒトであればどこでも普遍的に生ずるものであって、養老孟司の「脳化」論のように論理的根拠もなく「現代文明社会がヒトを狂わせている。」的な観念を陳列しておけば大衆の多くは「わかった。」ような気分に陥り、何も論理検証せずに鵜呑みにして満足するのである。

 養老孟司の言っていることを科学的理論だと「思って」いる時点で、既に論理検証性が崩壊しており、目先の安心満足だけで撹乱されているのである。

 こうした気分感情による思考停止の満足こそが、論理検証的思考を停止させ意識狭窄を促すのであって。現代文明がヒトの危険性の原因であることの証拠は実は何もない。

 嘘つきというのは嘘だけを純粋に言うわけではなく、嘘ではないことも言うことで気分的な「信頼感」を獲得し、嘘を嘘として認識出来ないように誘導することで嘘に対する盲目性を促すのである。もし純粋に嘘だけしか言わないのであれば、これはむしろ究極の正直者に他ならない。

 ヒトという種の生物は、全知全能の神による産物ではなく。基本的には野蛮で愚かな獣の淘汰の結果に過ぎない。

 ヒトの先天的本能習性というのは、全て結果であって。どんなに都合の良いこじつけを陳列しても本能習性から目的を論証することは構造原理的に不可能であり、進化生物学者や社会心理学者達のオカルト妄想に過ぎない。



 林修のギャグ、「今でしょ。」というのは、「難しいことなど今は考えずに、目先の受験勉強だけに集中するよう。」生徒の意識を狭窄化させるための洗脳である。

 進学校だか進学塾での講師の評価とは、生徒の進学率だけであって、生徒が社会において生き甲斐を見つけられるかどうかや、自律的に社会的責任を負う人間性の有無は評価の基準にならない。

 警察における職務質問のノルマ消化と同様、進学率というのは断片的な成績評価であって、人間性の論証には全くならない。つまり、進学率が高くても本当の意味での社会貢献であることにはならない。

 林修は話をする時、口を尖らせ眉を「八」の字に寄せて話す。これは相手をバカにし見下している心理的徴候であり、安物の反社会的勢力、平たく言えばチンピラの言動パタンと酷似している。

 眼縁筋の動きがワンパタンなのも「他人からの外見」に執着していることを示す徴候であり。林修を人気者だと有り難がってうかれている大衆マスコミはただのバカである。

 心理に詳しくなくても、口を尖らせ話をするような行動が、「相手をバカにしている。」であろうことは、普通なら誰でもわかることであるが。相手が多数から認証された人気者であるというバイアスが、ヒトから客観性を喪失させ、バカに陥れ盲目にさせるのである。

 他人をバカにしている者というのは、「お前さんはバカだ。」とは言わない。表面的には他人を尊重しているかのように装い相手を丸め込むことで自分にとって有利に相手を誘導することで、「俺様は頭が良いんだ。」と満足しているのであり。マキャベリのように「カモを見つけることは簡単だ。」などとはぶっちゃけないのである。

 厳然たる事実としてバカであることを論証することというのは、論理的根拠もなく相手をバカ呼ばわりするのとは全く異なることである。本来バカであってはならない相手であると尊重すべき相手がバカである以上、これは正直にバカであることを説明することの方が、むしろ誠実であると言える。それが気分的に嫌かどうかとは無関係である。哲学理論というのは多数大衆のご機嫌取りを目的としたものではなく、あくまで理論の組み立てによって論証されなければならないのである。



 ヒトの多くは客観性を簡単に喪失し、主観的感覚「感じ」だけを意識の本質であると錯覚する。そして客観的視点による論理検証性を短絡的に「理屈」と称して、あたかも冷酷さであるかのように言い張り、感情を排除した理性を蔑視するのである。

 それは、自分の頭の悪さを指摘された気分の悪さから、無意識な主観的感覚を事後正当化するための逃避行動である。

 断片的な数学機能や言語能力だけを取り上げて「左脳=理性」などとこじつけておきながら、むしろ論理的客観性を「理屈」などと称して拒絶するというのは、その場限りのご都合主義にも程がある。



 認知行動療法では、他人から頭の悪さを直接指摘されないように。あたかも自分自身で考えて認識したかのように誘導することで反射的な拒絶反応を回避する手法が用いられる。

 もし、本当に自分だけで「正しい認識」が出来たのであれば、治療など最初から必要ないのであって。回りくどい思考誘導を促さなければ「患者」は心理的拘束の原因を「正しく認識」することは出来ない。

 つまり、認知行動療法における意識誘導というのは、ヒトの自己欺瞞による反射的拒絶反応を回避撹乱しているのであって、一種の軽いペテンでもある。そもそも意識誘導自体が「他者からの誘導」であって、あたかも患者自身が自力で「正しい認識」が出来たような錯覚を促し自己欺瞞による拒絶反応を撹乱することで、拒絶反応に伴う感情的興奮などが生ずることを抑制する手法である。

 ヒトの多くは自分の頭の悪さを認識すると、「自分は頭が悪いんだ。」と気分的に凹むことで抑鬱状態に陥り思考を阻害するため。回りくどい手口を用いて気分が悪くならないように「正しい認識」に誘導しているのである。

 相手が幼少期から虐待されていたような「患者」であれば、こうした手法も正当化可能であるが。進化生物学者や脳科学者、哲学者などの研究者を「患者」扱いしていたのでは本末転倒も甚だしく、従って本論では認知行動療法的誘導手法を一切採るつもりはない。

 「自分だけは常に絶対に正しい判断が出来ているものである。」という錯覚を、ヒトの多くは持っているものであり。振り込め詐欺師に騙されているヒトに対して直接「振り込め詐欺に騙されているのではないか。」と問うと反って拒絶反応を示して「騙されてなどいない。」と強弁するようになるのも、自己欺瞞の妄想が促す錯覚である。

 こうした自己欺瞞を科学者が持っていたのでは、科学が科学として社会的に役に立たないのは当然の話である。自分の言っていることの一体何が間違っているのかを、自分自身では全く検証判断出来ないのであれば、これは科学者や哲学者としてポンコツとしか言いようがない。本来治療する立場である研究者に治療が必要なのでは、あまりにバカげていて話にならない。

 左脳というのは、数学や言語機能などの特定能力への特化には適しているが。物事を統合的に検証する能力には欠けており、特定能力のような目先の事柄だけにしか意識が働かない意識狭窄性を促す。

 ヒトの多くは、コンビナート火災において、「ブタンが燃えても二酸化炭素しか出ないから安全だ。」と言われれば、黒い煙が二酸化炭素ではないことにまでは意識が回らない。本来二酸化炭素は無色透明であり、黒い煙は不完全燃焼に起因する煤煙であり無害ではないことにまでは気がつかない。「ブタンが燃えても二酸化炭素しか出ない。」と述べたのは数学者であり、数学能力が高いからといっても、全ての事柄にまで論理検証性が働くわけではなく。むしろ断片的論証だけで安心満足している左脳の統合的判断能力の欠如性を証明しているのである。

 残念ながら、現状世間においては右脳優位なヒトの論理検証性というものは、文科系大衆観念に短絡的に迎合しないために評価が得られ難く、右脳優位なヒトの多くは絵画や彫刻などの芸術分野でしか世間的には成功しずらいため短絡的に「右脳=感情」というバカみたいなレッテルが鵜呑みにされ、誰も間違いであることに気付かない。

 大脳新皮質である以上、右脳であれ左脳であれ論理的思考を司ることに変わりはなく、むしろ統合性という観点からは多次元的に考えることの出来る右脳の方が有利なのである。感情を司るのは大脳辺縁系であって、大脳新皮質ではないことは最初から明らかであって、「右脳=感情を司る」などという観念には論理的証明根拠がないのである。

 左脳優位というか、左脳機能である特定能力の高さにばかり意識を奪われているヒトにとっては、クイズだの入学試験だのといった限定的で断片的な能力基準だけで知能の全てを立証可能であると錯覚しがちであり。これらもまた意識狭窄性による論理検証性の欠如や思考停止が促すものである。

 ヒトは権威が促す命令や価値基準に対し、自発的に論理検証するという主体的意志が働き難い習性がある。こうした権威への盲目性は「左側頭葉の一部に磁気刺激を与えると快楽が得られる。」ことと関連があり、神という親を超えた超親への服従盲目性が促す思考バイアスである。

 子供が「親に服従しておけば安心。」という快楽が得られるよう成育過程において行動「学習」した結果、親を超えた超親、絶対不変の親としての神に服従することで過剰な安心快楽を得ることが出来るようになっている。これがヒトの権威への盲目性の大きな一因であり、短絡的行動バイアスとして働くことで簡単に思考が停止するのである。

 ヒトという種の生物は哺乳類であり、ヒトである以上親への服従や盲目性による行動バイアスを「学習」してしまうこと自体は不可避であり。心理学者の土居健朗が提唱した「甘え」という行動バイアスは、哺乳類の多くに見られる普遍的なものである。

 イヌなどの生物学的な「社会性」、すなはち動物本能としての社会形成習性というのは、集団的な統率行動を促すことで結果的に生存に適することで遺された習性である。

 スタンレー:ミルグラムも「Cyberneticsの観点から。」などと称して存在価値を証明しようとした権威服従性であるが、権威服従性というものが本能的習性という無意識な行動バイアスに過ぎず、それ自体が意志でも目的行動選択でもないことにまでは言及出来ていない。

 無意識な行動バイアスの結果が、何らかの特定結果を導き出すことがあることだけを抽出陳列しても、無意識な行動バイアスが常に正しい行動選択としての目的であることの論証には全くならない。現在の進化生物学においては、結果的に何かの方向性に適した現象結果だけを抽出枚挙することで、それがあたかも誰かの意志的選択による目的であるかのように言い張るが。これは進化生物学者達がでっちあげた神を事後正当化するための取り繕い以上の意味はない。

 カール:ライムンド:ポパーが論じた「白いスワン」の例えにあるように、「どんなに多数の白いスワンを捕まえて来ても、この世のスワンの全てが白いことの論理的証明にはならない。」のであり、この科学や哲学として極めて基本的な考えに基づいて検証することの出来ない現在の進化生物学や社会心理学というのは、科学としての社会的役割を果たすことはない。

 ある特定の本能習性による行動「結果」が、何がしかの優位性に適していることをどんなにたくさん抽出枚挙しても、そこに証明されるのは「結果」の論証だけであって、意識的「目的」行動選択の論証には構造原理的にならない。

 すなはち、進化生物学的な多数抽出による論証方法では断片的結果を論証することは出来ても、その結果から普遍性を論証することも、目的行動選択であることの論証も構造原理的に不可能なのである。

 ところが、ヒトの多くは。ヒトの先天的本能習性だけでヒトが常に正しい目的行動選択を行えるかのように垂れ流しておけば安心満足して思考停止に陥る習性があるため、進化生物学や社会心理学はこれを利用して大衆マスコミを非科学的ペテンに陥れているのである。

 マスコミは視聴率さえ稼げれば満足であり、これは警察による「職務質問ノルマの消化」と同様、目先の個人的評価だけを目的とした意識狭窄性による本質的目的放棄である。

 TBSをはじめとして、マスコミ各社は視聴率という金儲けだけが目的であり。本気で「人間とは何か。」を科学的に検証するつもりは全くない。これをペテンと言わずに何と形容するのであろうか。科学的検証による原因究明や、それに伴う危険性回避を蔑ろにしておいて、単に大衆迎合による金儲けのための科学番組風味な垂れ流しをしているのは、再発防止を願う犯罪や人災の被害者や遺族達に対して余りに不謹慎である。



 ヒトは他人のことを主観的分類「レッテル」に当て嵌めることで、あたかも相手の全てを知り尽くしたかのような錯覚に陥り安心満足する習性がある。

 電話口で丁寧な言葉遣いをしておけば多くのヒトが詐欺師だとは「思わない」のは、こうしたヒトのレッテル性、抽象化分類性に由来するものであり。詐欺師達はこれを利用して相手を気分的に安心させ、相手に対する「疑い」に対しての罪悪感を持たせることで論理検証性を放棄させるのである。

 抽象化には論理的根拠は不要である。「大体こんな感じ」という雰囲気で分類しているだけであって。言語分類におけるシンボル化のほとんど全ては経験則などの行動「学習」的観念に過ぎない。

 ヒトという種の生物が他の生物と比べて言語抽象化シンボル機能が高いことを、短絡的に人間性の論証であるかのように錯覚するのは、「ヒトでありさえすれば人間である。」という短絡的抽象化による錯覚妄想に過ぎない。

 残虐なゲリラであっても、アウシュビッツ絶滅収容所の吏官であっても言語機能に異常などなく。言語機能を短絡的に人間性の論証だと「思う」ことには論理的根拠は全くない。

 論理的根拠の全くないことであっても、ヒトの多くは疑うことや論理的に検証するということをしない。当然、科学的な批判精神も働くことはない。

 ヒトという種の生物は、先天的には科学的論理検証をしないものであり。単刀直入に言い換えればヒトは先天的にバカなのである。






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