○努力?。
以前ツイッターで誰かが「努力はウンコです、毎日しなければならないものですが、他人に見せるもんじゃありません。」って言ってた記憶があるんだけど、努力を他人に見せたがるのは、「他人からの評価が欲しい。」という社会的「甘え」からくる行動です。
矢口真理 R25
その後の知真理ちゃんの行動を見れば努力を他人から認めてもらおうとする人の末路がわかります。
養老孟司も「私は30年間安月給で働いた、そこには意味があったんだ。そう思わなきゃ、やってられないじゃありませんか。」なんて言っていた。
「やってられない。」って、具体的に何を「やってられない。」んでしょうね。多分、多数大衆のご機嫌取りを「やってられない。」だけなんでしょうけど。
本質的な主体性、自発性というものがない人というのは、自分の過去の努力を他人に見せびらかすことで、同じ観念を持ったバカ同士に同意してもらうことで気分的に安心満足を得ることしか出来ません。
こういう人には自律もありません。自律がないからこそ養老孟司みたいに無責任に支離滅裂なことを言い続けるんでしょう。
困ったことにマスコミというのはそもそも大衆迎合で商売が成立しているために、養老孟司みたいな努力辛抱根性的な精神論を陳列することで大衆迎合するばかりで、一切論理検証的に一貫した「考え」というものがなく、その場限りに多数派にウケそうな話を並べているわけです。
利己的な金儲けのために無責任な話を陳列しているのであれば、これは詐欺でしかありません。
野々村県議会議員の「泣き落とし」作戦も、言っている内容は「自分は努力して、頑張ってきた。」ことの陳列に他なりません。
人というのは他人のために頑張り過ぎると見返りが欲しくなるものです。
他人からの評価報酬という「見返り」ではなくて、本当に自分がしたいと思うことに集中し、熱中することで得られる本当の意味での自己満足によって、自分の脳内麻薬を自給自足することで、初めて自律というものが成立するわけです。
「自分が好きなことに熱中出来るのは、社会が安定しているからだ。」そう思えば「見返り」なんてなくてもやっていけるもんですから。
脱法ドラッグなんぞに手を出したりするのも、自分自身で自分の脳内麻薬を自給自足出来ないから由の行動です。
脱法ドラッグで暴走している奴らというのは、それなりに良い自動車に乗っていますから、世間的には「リア充」なんでしょう。そんな価値観に何の社会的意味があるというのでしょう。
金持ち=幸福(充実)というのは、実は外見的な子供じみた観念であって。本当に個人の幸福であることの証明には全くなりません。
宗教の場合は、先に「他人の幸福を求めなさい。」って言いますけど、自分の幸福がわからない人が他人の幸福なんてわかる訳がないんであって。いわば「既に自分が幸福な奴の論理」でしかないわけです。
「社会の為になる人を目指しなさい。」なんて言っておけば、多数大衆のご機嫌取りにはなるんでしょうけど。自分の本当の幸福を知らない奴の「努力」なんていうのは「余計なお世話」にしかならないことが大半です。自民党による自衛権拡大なんか典型でしょ。
「お国の為に。」などと称して勝てもしない戦争を始めておいて(勝てるからといってやっていいもんでもないですが。)、一体何が「国の為」なんでしょう。この支離滅裂を無視しておいて、英霊もすったくれもないでしょ。
矢口真理ちゃんがブクブク肥大したのも、脳が「餓えていた。」からでしょう。つまり、世間的な成功というのは個人にとっては意味がない証拠でもあるんです。
拒食なんかも、結局は「他人からの見た目。」という一般的に言うところの「自意識」の過剰に起因する症状であり。「他に萌へるものがない。」からこそ、他人からの見た目ばっかりに意識を奪われ、意識が狭窄に陥るわけです。
狭窄化した意識に「自己」なんぞありません。それは大脳辺縁系が促す行動バイアスという無意識のままに流された「結果」でしかなく、意識的に選択した「目的」がないからです。
他人の迷惑に意識が働くのは、目的意識を持った「自分」というものが明確にあることが大前提です。
「他人からの評価」に異常執着してしまうのは、親が子供に過剰な要求をした結果、強迫観念的に「誰かに認めてもらう。」ことでしか脳が満たされなくなるよう、子供が動物行動的に「学習」してしまっているからです。
宇治原なんちゃら君が「俺は頭が良いんじゃぁ。」などという、バカ丸出し発言をしたのも、自分の努力を事後正当化することで「他人との比較上優位でなくてはならない。」という強迫観念に取り憑かれているからです。
「自分は努力をした。だから、世間的にもっと評価されて当たり前だ。」という観念があるからこそ、無差別殺人のような支離滅裂な暴走も発生するのです。
あらゆる不祥事というのは、「俺はもっと世間から評価されるべきだ。」という社会的「甘え」が引き起こすものなのです。
Ende;
以前ツイッターで誰かが「努力はウンコです、毎日しなければならないものですが、他人に見せるもんじゃありません。」って言ってた記憶があるんだけど、努力を他人に見せたがるのは、「他人からの評価が欲しい。」という社会的「甘え」からくる行動です。
矢口真理 R25
その後の知真理ちゃんの行動を見れば努力を他人から認めてもらおうとする人の末路がわかります。
養老孟司も「私は30年間安月給で働いた、そこには意味があったんだ。そう思わなきゃ、やってられないじゃありませんか。」なんて言っていた。
「やってられない。」って、具体的に何を「やってられない。」んでしょうね。多分、多数大衆のご機嫌取りを「やってられない。」だけなんでしょうけど。
本質的な主体性、自発性というものがない人というのは、自分の過去の努力を他人に見せびらかすことで、同じ観念を持ったバカ同士に同意してもらうことで気分的に安心満足を得ることしか出来ません。
こういう人には自律もありません。自律がないからこそ養老孟司みたいに無責任に支離滅裂なことを言い続けるんでしょう。
困ったことにマスコミというのはそもそも大衆迎合で商売が成立しているために、養老孟司みたいな努力辛抱根性的な精神論を陳列することで大衆迎合するばかりで、一切論理検証的に一貫した「考え」というものがなく、その場限りに多数派にウケそうな話を並べているわけです。
利己的な金儲けのために無責任な話を陳列しているのであれば、これは詐欺でしかありません。
野々村県議会議員の「泣き落とし」作戦も、言っている内容は「自分は努力して、頑張ってきた。」ことの陳列に他なりません。
人というのは他人のために頑張り過ぎると見返りが欲しくなるものです。
他人からの評価報酬という「見返り」ではなくて、本当に自分がしたいと思うことに集中し、熱中することで得られる本当の意味での自己満足によって、自分の脳内麻薬を自給自足することで、初めて自律というものが成立するわけです。
「自分が好きなことに熱中出来るのは、社会が安定しているからだ。」そう思えば「見返り」なんてなくてもやっていけるもんですから。
脱法ドラッグなんぞに手を出したりするのも、自分自身で自分の脳内麻薬を自給自足出来ないから由の行動です。
脱法ドラッグで暴走している奴らというのは、それなりに良い自動車に乗っていますから、世間的には「リア充」なんでしょう。そんな価値観に何の社会的意味があるというのでしょう。
金持ち=幸福(充実)というのは、実は外見的な子供じみた観念であって。本当に個人の幸福であることの証明には全くなりません。
宗教の場合は、先に「他人の幸福を求めなさい。」って言いますけど、自分の幸福がわからない人が他人の幸福なんてわかる訳がないんであって。いわば「既に自分が幸福な奴の論理」でしかないわけです。
「社会の為になる人を目指しなさい。」なんて言っておけば、多数大衆のご機嫌取りにはなるんでしょうけど。自分の本当の幸福を知らない奴の「努力」なんていうのは「余計なお世話」にしかならないことが大半です。自民党による自衛権拡大なんか典型でしょ。
「お国の為に。」などと称して勝てもしない戦争を始めておいて(勝てるからといってやっていいもんでもないですが。)、一体何が「国の為」なんでしょう。この支離滅裂を無視しておいて、英霊もすったくれもないでしょ。
矢口真理ちゃんがブクブク肥大したのも、脳が「餓えていた。」からでしょう。つまり、世間的な成功というのは個人にとっては意味がない証拠でもあるんです。
拒食なんかも、結局は「他人からの見た目。」という一般的に言うところの「自意識」の過剰に起因する症状であり。「他に萌へるものがない。」からこそ、他人からの見た目ばっかりに意識を奪われ、意識が狭窄に陥るわけです。
狭窄化した意識に「自己」なんぞありません。それは大脳辺縁系が促す行動バイアスという無意識のままに流された「結果」でしかなく、意識的に選択した「目的」がないからです。
他人の迷惑に意識が働くのは、目的意識を持った「自分」というものが明確にあることが大前提です。
「他人からの評価」に異常執着してしまうのは、親が子供に過剰な要求をした結果、強迫観念的に「誰かに認めてもらう。」ことでしか脳が満たされなくなるよう、子供が動物行動的に「学習」してしまっているからです。
宇治原なんちゃら君が「俺は頭が良いんじゃぁ。」などという、バカ丸出し発言をしたのも、自分の努力を事後正当化することで「他人との比較上優位でなくてはならない。」という強迫観念に取り憑かれているからです。
「自分は努力をした。だから、世間的にもっと評価されて当たり前だ。」という観念があるからこそ、無差別殺人のような支離滅裂な暴走も発生するのです。
あらゆる不祥事というのは、「俺はもっと世間から評価されるべきだ。」という社会的「甘え」が引き起こすものなのです。
Ende;