他人の評価に左右されることなく個人的に楽しめる純粋行為を知る者は 結果的であれ物欲がなく 外見的には禁欲的ですらあり また社会公益的な行動選択もする傾向が 明らかに見られる
逆に 他人との比較評価や報酬に執着する者の場合は他人への迷惑に配慮ができない傾向性も明らかに見られる
人間性や倫理というものは自発性の中にある「自律」によって発揮されるものであって 他人との比較評価の中にはない
これは統計的な傾向性にも基づき 論理的根拠も伴う論証でもある
個人の主観的な美的感覚には普遍性がなくても 自己の脳内麻薬を自給自足できていれば 結果的に物欲に溺れることもなければ 他人への迷惑にも配慮できるようになるのである
主体的な純粋行為というものは 他人からの比較評価と異なり集中力が高く 何度失敗しても諦めることなく試行錯誤を繰り返すものでもある
諦めないのは それが好きだからである
好きなことに「諦め」るという選択肢はない
むしろ失敗しても「伸びしろ」を自覚し 他人からの比較評価に左右されることなく 更なる高みを目指して楽しむことができるのである
好きでもないことを他人から求められていても 失敗して評価が下がれば簡単に諦め たとえ一時的に成功してもそれ以上の高みを目指すことはなくなるのである
他人からの評価だけが動機の者 すはなち承認欲求中毒の者というのは 他人からの評価が自分が思ったように得られないと不満に陥り 簡単に諦め 他人を引きずり落として悪平等を求めるようになる
それしか満足が得られなくなっているためである
他人からの比較評価に左右されず 純粋に行為を楽しめれば 他人から何も教わらなくても独学で様々なスキルや知識を得ることができる
逆に 他人からの比較評価に囚われていれば 他人から教わったことを正確に教わった通りに答えることしかできず 間違ったことを教えられても鵜呑みにし 自分からは気づくことすらできなくなる
「気づく」ことができないのは 物事を深く論理客観的に検証(考える)ことができないからである
教えられたことを鵜呑みにするのは それが短絡的に評価になるからであって 他人からの評価という抽象化された脳への報酬に対して条件反射的にしか物事を考えられないからである
自分から好きで何かに熱中している場合 思ったように上手くできなければ創意工夫によって解決しようとする
何せ自発的であるから 上手くできないこともまた楽しめることで 集中して熱中して夢中になってスキルを磨き続けた結果 物事を論理客観的に深く検証することもできるようにもなるのである
論理客観的根拠のある「真理」が見極められてこその「自律」であって 個人的な好き嫌いや多数他人に迎合して安心することとは区別ができなければ身勝手な実証不能の観念の振り回しにしかならない
物事を自分の頭で考え 検証し 何が真実なのかを自分で区別できないからこそ 「自律」が成立しなくなるのである
嘘でもデマでも間違いでも鵜呑みにし 多数に同調して怒り狂って攻撃していれば満足なだけで 自分の行動を自己客観的に見ることすらできないからこそ 実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけるようになるのである
「へずまりゅう」はこう述べた 「迷惑な奴など ザラにいる」と それを根拠に自分の迷惑行為を正当化できるものだと勝手に勘違いしたのである
「自分で判断したこと」の全てが「自律」になるわけではない
「自律」とは 自発的に深く客観的に論理検証した根拠ある真実に基づいた判断が必要不可欠である
「迷惑者が多い」という環境だからといって 自分の迷惑行為を正当化しようとするのではなく むしろ自分が迷惑者にはならないよう教訓とし 自戒して気をつけようとするのが「自律」というものである
何をどう勘違いしているのか知らないが 「自分の判断の全てが正しい」と勘違いしているバカが多すぎる
学力偏差値が高かったことで 「自分は頭が良いんだ」と 勝手に錯覚しているのも大きな要因である
何せバカなので 自分の行動や言動を自己客観的に検証することもしないし そもそもできないのである
バカは自らのバカさを自覚しない だから難治性が酷いのである
アウシュビッツ絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは 自分の観念こそが絶対的に正しいものだと信じ込むことによって ユダヤ人大量虐殺計画書の作成によってナチス政権からの評価を得ようとしたのである
ヘイトスピーチの動機を 社会環境などの他人の所為にすることは簡単である
そういう簡単なことならイヌにでもできるのである
「人間」としての知能 論理客観的検証性という人間としての意識 意思 自由なくして 「自己」存在の立証にもならない
自己選択不可能な本能欲望に踊らされていて自由もスッタクレもないのである
Ende;