○高濱なんちゃら。(もはやググる気にもならん。)
高濱なんちゃらっていう人が経営している「はなまる学習会」っていう幼児教育塾に人気があって、先日TBSが取り上げていた。
「ノーベル賞がとれる子供に育てる。」なんていう、典型的な大衆迎合的キャッチフレーズを鵜呑みにしているバカはさすがにいないと思うが。TBSというマスコミが視聴率欲しさにテキトーなことを言うのは無責任極まりない。
主催者の高濱なんちゃらが言うには、「成功体験をさせることで、意欲を育てる。」んだそうだ。
しかし、残念なことに実際のノーベル賞受賞者の山中伸弥教授は「たくさん失敗してください。」と述べているので、高濱なんちゃらの言っていることは大嘘である。「なでしこジャパン」の監督佐々木則夫監督も「失敗を怖れず、挑戦することが大切。」と述べており、高濱なんちゃらの大嘘は大衆迎合的子供騙しに過ぎない。
環境依存的に植え付けられ、動物行動学習された「意欲」というのは本質的な自発性による「意欲」ではない。どんなに失敗を繰り返してでも諦めることのない確固たる意思、本質的「意欲」というのは、他人から環境依存的に植え付けられた成功体験という「外的に与えられる脳への報酬」に依らない、本質的な自発性/純粋な好奇心によって育まれるのであって。成功体験などというその場限りの気分に依る動物行動学習のような刷り込み学習で育まれるものではない。
「褒めて伸ばす。」というのは、言い換えれば「そそのかして、木に登らせている。」だけであって。そそのかしてくれる他人や環境に依存した一種の中毒症状に過ぎず、本質的な自発性を伴わないために、上手くゆかないと簡単に諦めてしまうようになる。これはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造原理的には全く同じものであって、本質的な知能すら発揮されることはない。
成功体験で能力を伸ばすだけなら、振り込め詐欺師が金をモチベーションに詐欺能力を伸ばすのも同じことであり。外的に与えられるエサ、「脳への報酬」に対してその場限りに条件反射反応しているだけに過ぎない。
純粋な好奇心に基づく、本質的主体性を持った個人的研究テーマというのは、成功体験の類で「そそのかされる」外見上の意欲とは全く別のものである。だからこそノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏は「ある程度実際に自分でやってみないとわからない。」と述べるのである。
何度失敗しても、他人からの評価や報酬が得られなくても続けられる行為こそが、本質的な自発性であり。それを見つけられるようにするには、親大人が子供に対して目先の偏差値や評価可能な能力を要求せず、子供自身が他人からの評価に関わらず熱中できることを主体的に探せるようにしておくことである。
ノーベル賞受賞者の中には、少なからず幼少期の学力成績が低い者がおり。むしろ本質的な主体的モチベーションもなしに幼少期に学力成績が高い子供というのは、目先の親大人に褒められることをモチベーションにしている可能性が高く、こういう不純なウケ狙いをモチベーションにしている限り純粋な好奇心も社会的自律判断も育まれることはない。
偏差値が高いだけで天才扱いしたがるのが大衆観念であるが、幼少期に偏差値が高いだけの子供は何年飛び級しても、大抵の場合大人になれば「普通の人」にしかならないのはそのためである。「普通の人」ならまだしも、「偏差値の高い無差別殺人犯」というのも、こうした本質的主体性の欠落によって作り出されるものであり。外的な「そそのかし」教育というのは、もはや犯罪とも言えるものなのである。
「はなまる学習会」に通わせておけば人間性が育まれ、如何なる逆境であろうと自律的に社会的責任判断を下し、世間的にも成功することが可能だと思ったら、あまりに短絡的で非合理な大衆観念である。
「学校が楽しい。」こと「学ぶことに熱中出来る。」ことは重要ではある。東北大学の川島隆太が言うような「強いて勉めるのが勉強だ。」などという虐待の連鎖みたいな学習を繰り返してきたからこそ、原発も含めてあらゆる社会危険性を日本人の誰も指摘批判しなくなったのである。
褒められて、そそのかされた環境依存的な「意欲」ではなく。褒められたり評価されなくても行う純粋な自発性こそが本質的な人間性や知能を育むことを忘れてはならない。評価報酬に関わらない本質的自発性こそが、自律的な社会的責任判断も可能とするのであり、それがないからあらゆる社会危険性が放置されているのである。
どんなに世間的に成功していても、天下り役人や東電幹部のようなバカなんぞ誰も求めてはいないし、そんなバカになるよう教育することは反社会的行為である。それを「生きるためには。」などと言い逃れるのが現在の生物学や哲学的な大衆観念というものである。こうした個人的生存価の追求ばかりに意識を奪われているからこそ、自律的な社会的責任判断を誰もしなくなり、結果的に社会は破滅に向かうことに陥るのである。
従順なだけならナチス絶滅収容所の所長と同じなのである。それを時代や社会という「多数他人のせい。」にして自分自身の自律の欠落を意識から外そうとするから、人類はいつまでも盲目でバカなままなのである。
多数に迎合的で権威に従順な者のことを、生物学的な大衆観念上では「社会性」と形容するであろう。それが本能的にも安心なのは当たり前である。その気分的安心こそがヒトという種の生物から自律的な社会的責任判断能力や論理検証性の重要性を見失わせる最も大きな原因なのである。
自律的に社会的責任判断を下すことが出来たとしても、それが世間的に評価報酬になるとは限らない。それは文系大衆にとっては気分的に「嫌な話」かも知れないが、社会安全性や持続可能性のためには最も優先されなければならないものであり。世間的評価や報酬といった個人的生存価よりも優先されなければならないのである。
世の中が世の中なら、地動説を提唱して火炙りにされるかも知れないし。ナチズムに反対して命を落とすことになるかも知れない。本当に正しいことを論じていれば必ず世間的評価やノーベル賞が貰えるとは限らないのである。
現在の学術権威が絶対的に正しく、常に厳密正確な判断を下すものであると勝手に思い込むのは文系大衆観念であり、単なる気分的安心満足に過ぎない。こうした気分的安心満足こそがヒトから論理検証性を喪失させる原因であることは何度も述べてきたはずである。にも関わらず誰も論理検証しないというのは、結局安心満足という気分感情でしか行動も思考も働かないことの結果である。それなら通り魔が繰り返されようとも、原発が暴走しようとも、人類が絶滅しようとも、誰にも文句を言う権利など最初から存在しないのである。
原発の暴走は東電だけが悪いと「思って」おけば、「そそのかし学習」も安心して続けることは無思考な大衆には簡単なことであろう。天下りが繰り返されるのも、犯罪が減らないどころか増える一方でも、「自分達の自律的な社会的責任判断には関係がなく、世間的に成功することや子供が従順に扱い易くなることだけ考えておけば安心満足。」であろう。それなら子供の教育を論ずる前に、教育を行っている親大人の意識改革をするのが先である。バカが育てる子供がバカにしかならないのは必然的結果である。
Ende;
高濱なんちゃらっていう人が経営している「はなまる学習会」っていう幼児教育塾に人気があって、先日TBSが取り上げていた。
「ノーベル賞がとれる子供に育てる。」なんていう、典型的な大衆迎合的キャッチフレーズを鵜呑みにしているバカはさすがにいないと思うが。TBSというマスコミが視聴率欲しさにテキトーなことを言うのは無責任極まりない。
主催者の高濱なんちゃらが言うには、「成功体験をさせることで、意欲を育てる。」んだそうだ。
しかし、残念なことに実際のノーベル賞受賞者の山中伸弥教授は「たくさん失敗してください。」と述べているので、高濱なんちゃらの言っていることは大嘘である。「なでしこジャパン」の監督佐々木則夫監督も「失敗を怖れず、挑戦することが大切。」と述べており、高濱なんちゃらの大嘘は大衆迎合的子供騙しに過ぎない。
環境依存的に植え付けられ、動物行動学習された「意欲」というのは本質的な自発性による「意欲」ではない。どんなに失敗を繰り返してでも諦めることのない確固たる意思、本質的「意欲」というのは、他人から環境依存的に植え付けられた成功体験という「外的に与えられる脳への報酬」に依らない、本質的な自発性/純粋な好奇心によって育まれるのであって。成功体験などというその場限りの気分に依る動物行動学習のような刷り込み学習で育まれるものではない。
「褒めて伸ばす。」というのは、言い換えれば「そそのかして、木に登らせている。」だけであって。そそのかしてくれる他人や環境に依存した一種の中毒症状に過ぎず、本質的な自発性を伴わないために、上手くゆかないと簡単に諦めてしまうようになる。これはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造原理的には全く同じものであって、本質的な知能すら発揮されることはない。
成功体験で能力を伸ばすだけなら、振り込め詐欺師が金をモチベーションに詐欺能力を伸ばすのも同じことであり。外的に与えられるエサ、「脳への報酬」に対してその場限りに条件反射反応しているだけに過ぎない。
純粋な好奇心に基づく、本質的主体性を持った個人的研究テーマというのは、成功体験の類で「そそのかされる」外見上の意欲とは全く別のものである。だからこそノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏は「ある程度実際に自分でやってみないとわからない。」と述べるのである。
何度失敗しても、他人からの評価や報酬が得られなくても続けられる行為こそが、本質的な自発性であり。それを見つけられるようにするには、親大人が子供に対して目先の偏差値や評価可能な能力を要求せず、子供自身が他人からの評価に関わらず熱中できることを主体的に探せるようにしておくことである。
ノーベル賞受賞者の中には、少なからず幼少期の学力成績が低い者がおり。むしろ本質的な主体的モチベーションもなしに幼少期に学力成績が高い子供というのは、目先の親大人に褒められることをモチベーションにしている可能性が高く、こういう不純なウケ狙いをモチベーションにしている限り純粋な好奇心も社会的自律判断も育まれることはない。
偏差値が高いだけで天才扱いしたがるのが大衆観念であるが、幼少期に偏差値が高いだけの子供は何年飛び級しても、大抵の場合大人になれば「普通の人」にしかならないのはそのためである。「普通の人」ならまだしも、「偏差値の高い無差別殺人犯」というのも、こうした本質的主体性の欠落によって作り出されるものであり。外的な「そそのかし」教育というのは、もはや犯罪とも言えるものなのである。
「はなまる学習会」に通わせておけば人間性が育まれ、如何なる逆境であろうと自律的に社会的責任判断を下し、世間的にも成功することが可能だと思ったら、あまりに短絡的で非合理な大衆観念である。
「学校が楽しい。」こと「学ぶことに熱中出来る。」ことは重要ではある。東北大学の川島隆太が言うような「強いて勉めるのが勉強だ。」などという虐待の連鎖みたいな学習を繰り返してきたからこそ、原発も含めてあらゆる社会危険性を日本人の誰も指摘批判しなくなったのである。
褒められて、そそのかされた環境依存的な「意欲」ではなく。褒められたり評価されなくても行う純粋な自発性こそが本質的な人間性や知能を育むことを忘れてはならない。評価報酬に関わらない本質的自発性こそが、自律的な社会的責任判断も可能とするのであり、それがないからあらゆる社会危険性が放置されているのである。
どんなに世間的に成功していても、天下り役人や東電幹部のようなバカなんぞ誰も求めてはいないし、そんなバカになるよう教育することは反社会的行為である。それを「生きるためには。」などと言い逃れるのが現在の生物学や哲学的な大衆観念というものである。こうした個人的生存価の追求ばかりに意識を奪われているからこそ、自律的な社会的責任判断を誰もしなくなり、結果的に社会は破滅に向かうことに陥るのである。
従順なだけならナチス絶滅収容所の所長と同じなのである。それを時代や社会という「多数他人のせい。」にして自分自身の自律の欠落を意識から外そうとするから、人類はいつまでも盲目でバカなままなのである。
多数に迎合的で権威に従順な者のことを、生物学的な大衆観念上では「社会性」と形容するであろう。それが本能的にも安心なのは当たり前である。その気分的安心こそがヒトという種の生物から自律的な社会的責任判断能力や論理検証性の重要性を見失わせる最も大きな原因なのである。
自律的に社会的責任判断を下すことが出来たとしても、それが世間的に評価報酬になるとは限らない。それは文系大衆にとっては気分的に「嫌な話」かも知れないが、社会安全性や持続可能性のためには最も優先されなければならないものであり。世間的評価や報酬といった個人的生存価よりも優先されなければならないのである。
世の中が世の中なら、地動説を提唱して火炙りにされるかも知れないし。ナチズムに反対して命を落とすことになるかも知れない。本当に正しいことを論じていれば必ず世間的評価やノーベル賞が貰えるとは限らないのである。
現在の学術権威が絶対的に正しく、常に厳密正確な判断を下すものであると勝手に思い込むのは文系大衆観念であり、単なる気分的安心満足に過ぎない。こうした気分的安心満足こそがヒトから論理検証性を喪失させる原因であることは何度も述べてきたはずである。にも関わらず誰も論理検証しないというのは、結局安心満足という気分感情でしか行動も思考も働かないことの結果である。それなら通り魔が繰り返されようとも、原発が暴走しようとも、人類が絶滅しようとも、誰にも文句を言う権利など最初から存在しないのである。
原発の暴走は東電だけが悪いと「思って」おけば、「そそのかし学習」も安心して続けることは無思考な大衆には簡単なことであろう。天下りが繰り返されるのも、犯罪が減らないどころか増える一方でも、「自分達の自律的な社会的責任判断には関係がなく、世間的に成功することや子供が従順に扱い易くなることだけ考えておけば安心満足。」であろう。それなら子供の教育を論ずる前に、教育を行っている親大人の意識改革をするのが先である。バカが育てる子供がバカにしかならないのは必然的結果である。
Ende;