書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

人格。

2012年11月01日 16時17分00秒 | 意識論関連
○人格。

 感情に依存した条件反射行動を「人格」とは言わない。

 こんな当たり前のことであっても、大衆凡民の多くは全く自律的には疑うことを知らず、論理的根拠のない大衆観念を短絡的に鵜呑みにするのである。

 人格とは、既に存在する自己である感情主体の固定観念的条件反射行動に抗い、自律的論理検証という本質的意識に基づく合理性主体の選択判断である。

 バカ生物学者達が論ずる「潜在知」のような、既に無意識下に刷り込み学習された感情主体の条件反射行動というのは、個性ですらなく生物的個体差でしかないのである。

 潜在的な価値観というものは、本質的な自己自身による意識的選択を介さず、自己自身によって選択不可能な社会や時代によって刷り込み学習された固定観念的価値観に過ぎないのである。これを個人の「意思」であるだとか、「個性」であるとか、ましてや「人格」だなどと言うのはとんでもない大嘘に過ぎないのである。

 感情主体の条件反射行動のことを「人格」や「個性」であると言われれば、自己の固定観念の事後正当化になるため。気分的に安心満足を促されることで、それが大嘘であることすら気付かなくなるのが「ヒト」という種の生物の普遍的傾向習性、無意識的な思考バイアスであり、これによってヒトの多くは論理検証性を失い、思考停止に陥り、社会持続可能性や安全性が何かを見失うのである。

 多数大衆に人気があるからといって、そいつの言うことが論理的に正しく、社会の持続可能性や安全性につながるものであると思い込むのは、あまりに短絡的で論理検証性が全く働いていない。

 気分的に「感動した。」だの、「安心出来る。」ような話をされると、ヒトの多くはほとんど無条件に気分的安心満足によって論理的思考を停止させ、盲目的に「信頼」するように陥る性質がある。これこそがマスコミによる無意識的プロパガンダを放任し、社会を危険にさらす大きな原因ともなるのである。振り込め詐欺類が減らないのも、気分的安心満足だけで行動が決定してしまう無意識性が原因であり、こうした思考停止性に言及しないマスコミというのは振り込め詐欺に加担助長しているのと同じことである。




 ヒトの多くは、自分の気分が良くなる話をする相手に気分的安心満足し。あたかも自分の気分感情こそが主体的人格であるかのように錯覚させておけば、多くの大衆から人気を得ることも簡単であろう。しかし、それこそが無意識的洗脳状態を作り出す最も大きな原因なのである。

 多くのヒトにとって気分が良い話というのは、基本的に社会や時代に迎合した文化系大衆観念であり。論理的根拠を無視した大衆迎合、ご機嫌取りに過ぎない。

 「感情による行動を否定することは、全人格否定だ。」などと言われれば、あたかも感情に由来する短絡的条件反射行動こそが個人の人格であり、個性であると思い込むのは。極めて短絡的で論理検証性が欠落している。

 人生相談で人気のあるラジオパーソナリティなどというのは、いうなれば占い師やペテン師が用いる意識誘導による気分的安心満足による思考停止を促しているだけであって、「感動」という気分感情を利用した人気取りに過ぎず、何ら論理的根拠を持たない身勝手な決め付けや思い込みを陳列することで大衆人気を得ているだけである。

 どんなに個人が気分的安心満足を促されたとしても、それが社会持続可能性や安全性の論証には全くならないことを。多くのヒトは簡単に意識から喪失する性質があるのだ。

 もう少し平たく述べよう。あんたが気分的に安心満足するようなことを言われたとして、その安心満足の素となるあんたの脳に刷り込まれた世間的固定観念自体はあんた自身の本質的主体性による選択を介していないのであり。意思でもなければ個性でも、ましてや「人格」でも何でもない。

 あんたは一体自分を何様だと思っているのか。自分の脳に刷り込まれたあらゆる固定観念的価値観が絶対であるとでも思っているからこそ、気分的安心満足によって論理検証性を簡単に喪失することが可能なのであり。全くもって傲慢としか言いようがない。こうした傲慢さこそがヒトを無意識に陥れ、あらゆる「人災」の根源的原因なのである。

 気分感情によって促される動物行動的な行動バイアスというものは、本質的な主体性を持った人間としての「意思」ではなく。あくまで論理的「考え」に基づいた主体的選択こそが、本質的な「人格」であると言うことが出来るのである。

 ヒトという種の生物において人間性の獲得と言えるのは、自律的に社会的責任判断を下すことである。これなくして社会持続可能性も安全性も確立されることは原理的にない。

 ヒトは誰も自分の意思でこの世に産まれて来た者はおらず、自分の遺伝子も自分では関与することも出来ず、その遺伝子から勝手に作り出された脳も、その脳に刷り込まれた自分では選択不可能な社会や時代によるあらゆる固定観念であっても自分の意識的選択を介してはいないのである。

 あんたが自分の行動を事後正当化され、それによって気分的安心満足をしても、自律的な社会的責任判断には全く結び付くことの論理的根拠など存在しない。

 それなら、なぜ個人的な気分的安心満足を「人格」であると言えようか。



 バカげた大衆観念上においては、気分的安心満足を与えない話は「品位に欠ける。」などと称して意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしたがる。それなら上司の命令に従順に服従し原発の危険性を放置した東電の社員達は「品位がある。」とでも言うのであろうか。

 バカな大衆というのは、内容の論理的整合性よりも、個人的な気分による安心満足ばかりを優先してしまう性質習性があるからこそ。論理検証性というものが簡単に失われることに陥るのである。

 「思考バイアス」というものは、そもそも「思考」そのものではなく。「思考停止に陥る気分的満足傾向性」のことを指すのである。

 大衆に迎合し、あたかも感情的行動バイアスを事後正当化するような話をしておけば、多数大衆から人気を得ることは簡単であろう。こうした大衆迎合こそがヒトの脳から論理検証性を喪失させ、自律的な社会的責任判断力をも失わせることに陥るのである。

 「元気が出る、勇気がわく。」ような話というのは気分的安心満足を与えているだけであって、そこに論理的合理性に基づく社会持続可能や安全性の保証など全く存在しないのである。

 元気だの勇気といった気分感情に基づいた短絡性こそが、人間としての人格の論証であるところの自律的な社会的責任判断力をヒトから喪失させるのである。



 残念ながら、ヒトの多くは自分の個人的な安心満足という気分ばかりを優先し。本質的な人間としての社会性、すなはち「人格」とは何かすら検証することはない。こうした無思考性、思考停止性こそが社会安全性を脅かす最も大きな原因なのである。

 自分自身が目先の個人的安心満足ばかりを追求しておいて、あらゆる他人に自律的な社会的責任判断力を要求する権利など有り得ないのである。

 サルが目先の欲求ばかりを追求するのは当然のことであろう。だからといってヒトが欲求の大きさだけで行動が決定しておいても構わない根拠になど全くならない。

 ヒト科ホモサピエンスという種の生物に産まれた以上、自律的に社会的責任判断を行わなければ「人間」性も「人格」もあったものではない。にも関わらず個人的な安心満足という気分感情ばかりを優先し、多数派に迎合し思考停止に陥っておいて良い訳がなかろう。あまりにバカげていて呆れるばかりだ。まぁ、「呆れる」のも「うんざりする」のもおいらの個人的気分であるからどうでも良いことではあるが。論理的理解が出来ないことによる社会的損失損害はおいらの個人的気分の問題の範疇ではない。

 そもそも「人生相談」の類というのは、気分的安心満足を与えているだけであって、何ら問題解決にも再発防止にも何にもならないものがほとんどであり。その場限りの大衆迎合に過ぎない。認知行動療法のように、心理的拘束の原因を論理的に認識させることによって、自己の感情的行動を抑制するようなものとは全く異なる、その場限りな事後正当化/ご機嫌取りに過ぎないのである。

 臨床心理的な「治療」というのは、ラジオなどのマスコミで公開するような多数共有可能なものではなく。あくまで患者個人におけるケースバイケースで対応するものであって、ラジオで全てが解決するようなものでは構造的にない。個人がどういった経験や記憶によって心理的拘束が生じているのかを丹念に調べなければ「治療」になどなるはずがないのである。

 臨床心理による「治療」というものは、決して気分感情的に安心満足を与えるようなものではなく。あくまで個人が主体的に自己の感情抑制を可能にするためのものであり。そこには「感動」などというご機嫌取りは存在しないのである。

 人生相談などというペテンを鵜呑みにしているからこそ、ヒトの多くはいつまでも論理検証判断力が身につかないのである。そりゃ振り込め詐欺にも引っ掛かるわな。ありていに言って「バカ」なんだもん。




 週刊アサヒなどの無責任な大衆観念の垂れ流し報道による金儲け主義も、テレビ各社による「脳トレ」類をネタにした視聴率稼ぎのための脳科学者達の無責任性の放置も含め、マスコミの社会的要請や社会的義務を全く果たしておらず。「組織の利益を優先し、社会安全性を蔑ろ」にしており、こいつらには東電による原発事故などのあらゆる「人災」に対して批判する権利はない。

 人気ラジオパーソナリティにバカ芸人が丸め込まれて感動だの満足したところで、何ら社会的問題の解決にも何にもならないのは明らかである。何でもかんでも垂れ流しにしておけば報道だと思ったら大間違いである。

 多数派に迎合して、気分的な安心満足に溺れて思考停止に陥っているというのは。いうなれば反日暴動で満足している中国人集団と同じ精神構造であり、極めて動物的な脳の働きによる論理崩壊である。

 物理的破壊同様、論理も破壊するのは簡単であり。地道に築き上げることは労力が要るのである。論理検証性を放棄して気分感情的な安心満足に溺れるというのは、社会安全性を脅かす破壊行為であることを認識すべきである。

 ヒトの多くは、その場限りに自分の気分が良くなりさえすれば相手を信頼し、満足することで論理検証性を簡単に放棄する習性がある。これは言うなれば、ヒトという種の生物における先天的欠陥である。神仏が実存しない以上、これは誰のせいにもすることは出来ず、あくまで自己自身の本質的意識、すなはち論理的思考によってのみ補うことしか出来ないものなのである。これを放棄しているからあらゆる社会的問題の論理的原因究明も再発防止対策も確立することが全く進まないのであって、どんなに偏差値が高くても論理的思考が成立しなければ本質的な知能もすったくれもあったものではない。

 ヒトの多くは目先の個人的気分感情さえ満たされれば安心満足によって論理的思考を停止させることが可能であろう。それこそが人類を「バカ」に陥れているのである。ヒトという種の生物というのは、こうした先天的欠陥が存在することを誰もが認識することを拒絶する性質があり。ヒトという種の生物というのは絶対的に正しくあらゆる生物より優れているものであると勝手に妄想することで気分的満足してしまうのである。

 だからこそ生物学はヒトという種の生物における一面的優位性ばかりを枚挙することで大衆に迎合するのである。

 「人間は素晴らしい。」だの、「人間は優れている。」などとそそのかされ、あたかも本能習性のままに行動しておけば全ての社会的問題が解決するものであると錯覚しておけば、バカな大衆凡民は満足するのであろう。

 そして、それこそが本質的人間性への反逆であることすら認識せず、安心して固定観念のまどろみに溺れて満足するのである。

 多数派同調バイアスや、正常性バイアスといった気分的安心満足に溺れてしまったからこそ、あらゆる「人災」は拡大助長されてしまうのである。これを「バカ」と言わずに何と形容すればよかろう。気分感情本能が促す思考バイアスに無意識に流されるばかりで、全く抗うことをしないから人類はいつまでもバカのままなのである。

 バカでいれば気分的には安心で満足であろう。振り込め詐欺に騙されている被害者と同様、振込みをしようとしていれば気分的には安心満足なように誘導されているだけであり。振り込んだ後になってから「騙された。」ことに気付いて後悔するのである。人生相談の類で気分的に安心満足しているというのは、その場限りのペテンに過ぎず、論理思考を崩壊させる社会的反逆行為なのである。当人にその「意識(無意識的意図)」があるかどうかは無関係である。「人類の救済だと信じ込んでテロをしている」のと同じで、論理思考が崩壊していれば社会的破壊に加担していようとも気分的には安心満足は得られるのである。

 個人的な安心満足という気分感情を満たしておくことで論理思考を停止させてしまうというのは、論理検証性による社会安全性への反逆なのである。自分の本能感情を事後正当化してしまえば、あらゆる自己の問題行動は正当化され、全く治ることはなく、漫然と無意識に問題行動を継続することになるのである。これを「バカの状態」と言うのである。

 ペテン師にそそのかされて気分的な安心満足をしている時、脳内ではドーパミンという安心物質が放出され、意欲だの勇気だのといった気分的満足によって論理思考を停止させられているのである。

 自分が気分的安心満足だの「感動」だのによって、論理検証性を喪失していることには、多くのヒトは自律的に気付くことはない。自己というものを冷静に客観視するという本質的意識なくして、あらゆる社会的問題、「人災」の類はなくならないのである。

 マスコミのバラエティー番組などでペテンを放任しているからといって、ペテンが社会的問題の解決につながる論理的根拠は全くない。彼らペテン師達の目的は世間的なウケ狙いによる多数大衆人気を得ることで金儲けをしたいだけであって、何ら社会的問題の解決など眼中にはない。

 資本主義制度下であるからといって、金儲けのためなら何でも許されると思ったら大間違いである。企業というのは本質的な社会的要請、すなはち社会持続可能性や安全性のための貢献でなければならず、これに適しているのかどうかを市民が論理的に検証しなければ、その場限りの金儲け主義が放置され、社会全体の利益に適うことはないのである。

 要するに人生相談などのペテンというのは、「目先の効用」を追求しているだけであって、これこそが社会を崩壊へと導く最も短絡的で安易な破壊行為なのである。



 子供への虐待がやめられないなら、ラジオの人生相談なんぞに頼らないで心療内科に行って下さい。そのくらい言われなくても気付きなさいよ。人生相談で虐待がやめられるわけないでしょ、バカなんすか。


Ende;
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« SKDだっけ?。 | トップ | はなからうどん。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

意識論関連」カテゴリの最新記事