斎藤幸平は 啓蒙よりも信仰の方が優れている点として「信頼するとは しかし信じるということである」とヘーゲルを引用し「信頼なくしてエビデンスは意味を為さない」というが 「ヒトは信じたい話だけを信じようとする」以上は信頼とは主観であって論理客観的エビデンスを主観的に信じたいかどうかで判断することは原理的に不可能である
盲目的信頼は主観的安心満足感であって 論理客観的エビデンス(証拠・証明)に主観は意味を持たない
啓蒙思想の帰結がテロル(暴力破壊)に至ってしまうのは 独裁政権化において民主化運動が暴動になってしまうのと同じメカニズムであり 暴力破壊による一面的懲罰を解決だと倒錯している信仰が根源にある
啓蒙だからテロルに陥るわけではなく あらゆる対立において懲罰正義による暴力破壊は見られるものであり むしろ盲目的信仰こそが暴力破壊を解決だとみなして陥るのである
法手続きによる刑法懲罰判決を「解決」だと錯覚しているのは ヒトの先天的な認知上の重大な欠陥によるものであり 「暴力破壊=解決」という方程式には論理客観的根拠や証拠は存在しないのである
テロルに合理性などないのは自明であり テロルに至った時点で啓蒙思想からの逸脱である
大衆の多くが科学や啓蒙思想だと「思って」信じ込んでいる内容に非科学的誤謬やデマが混入しているのが根源的な間違いである
不適切保育や虐待の連鎖がなくならないのも ヒトという種の生物が暴力威圧や規範への服従を正義だと先天的に倒錯しているからである
高校での理不尽な「校則」への服従を強要し続けるのも 合理的根拠や証拠よりも因習的に規範に服従することだけが正義だと主観的に「思って」いるからであり
司法裁判による刑法判決を短絡的に「解決」だと倒錯し 懲役刑の再犯率が50%に達する客観的事実を無視して無効な法制度が漫然と放置されているのも盲目的「信仰」によるものである
自分の頭で物事を「考え」ないバカ相手に啓蒙主義は全く役に立たない
斎藤幸平は福島原発事故による風評被害が起きてしまったことを挙げ 科学的エビデンスだけでは多くのヒトが風評に流されることを「信仰の優位性」だとこじつけて風評被害を正当化しているにも関わらず 番組制作陣も聞き手の伊集院光も誰も気づかないのである
「信じる」ことは主観的安心満足ではあっても 論理客観的真理や安全性の証拠には一切ならない
ヘーゲルは「信じる」ことを盲目的に正義のように倒錯しているのであり 「信じたい」かどうかは主観的感想であって論理客観的真理の証明とは全く無関係である
現代人の多くが「科学を信じている」つもりでいるのだが 実際には「遺伝的進化で月経の痛みがなくならないものか」などという荒唐無稽な進化万能妄想を誰も疑わず 進化生物学上の「生存戦略」などという概念が科学的に根拠がないことには誰も気づかずに 「進化さえすればあらゆる問題が解決する」かのような「信仰」を誰も疑わないからこそ フランシス:ゴルトンによる優生学に対する論理反証も誰も理解しようともしないのである
科学啓蒙とは 学術権威者の多数決を盲目的に信頼して主観的に安心することでもなければ 非合理な宗教に懲罰的暴力を振るうことでもない
何が真実なのかを論理客観的に判別することが啓蒙思想の根幹であり 斎藤幸平ら「東京大学哲学教授」の主張を鵜呑みにすることが「哲学」でもない
東京大学というのは脳科学において「自由意志など存在しない」などという荒唐無稽なトンデモ理論を言い出す無責任なバカの集団であり 哲学界においては古典であるというだけで盲目的に内容の全てが正しいものであると倒錯し 何の批判精神も働かないデクノボウである
こうした科学哲学界の誤謬にも 進化生物学界の誤謬にも気づかず 理解もできずに垂れ流しをしているNHKなどのマスコミも「同罪」である
Ende;