○べき。
イヌは人為的に飼育すると突然変異によって非常にバリエーションが拡大する。
にも関わらず自然界においてイヌ科の動物の集団内部でバリエーションが少ないのは、そこに均一性を確保するための「排除。」や「差別。」の本能が働いているからである。
本能的な社会形成習性というものには、こうした排除や差別といった不平等性やヒエラルキー格差の機構が予め「仕組み。」として組み込まれているのである。
ヒトの子供だけで放置しておくと自動的にイジメが生ずるのは、ヒトという種の生物における本能的「仕組み。」による結果である。
結果を踏まえてどのような目的に基づき行動選択する「べき。」かは、本能習性によって導かれるような簡単短絡的なものではない。
「べき。」とは理想に基づいた目的意識による「選択。」である。イギリス人の混血タレントの略ではない。
Ende;
○救世主幻想
ヒトはその社会形成習性によって、特定の誰かに服従してさえおけば短絡的に全てがうまくゆくものであると錯覚したがる。
権威というものへの無意識本能的服従性や、多数他者という世間への迎合性というものも、こうした本能的感情が促す生物的本能行動である。
救世主というのも盲目的に服従することで気分的安心を得ることが可能な特定対象である。
ヒトである以上間違えない者などいない。間違いは誰にでもあり、相互に検証することによって小さな誤りは是正可能なものである。
多くの人が間違えなければ、総体としては間違いには陥らない。
ところが残念なことにヒトの多くは間違いには気付かず、総体として簡単に間違いに陥る傾向習性がある。
特定の誰かに服従してさえおけば、全ては間違いなくうまくゆくものであることを本能的に求める性質がヒトにはある。これは土居健朗が論じた「甘え。」の性質の本能的無意識暴走である。
本来救世主を求める「目的。」とは、安全で持続可能な社会の確立のためのものである。それを自分達では面倒臭くて気分的に「嫌。」だからといって、救世主という特定他者に丸投げすることで本能気分的に満足したいのである。
Ende;
○格差。
格差が社会需要の信号の役割を果たしているというのは嘘である。何ら生産性のないクソゲープログラマの年収が1500万円であることが、社会にとって本当の「需要。」であるとは言うことができない。それは単なる目先の「世間。」的需要に過ぎず、何ら社会的普遍性の論証にはならない。
そもそも本質的な「社会。」的需要というものは年収に比例するようなものではない。
格差とは「結果。」である。それ自体に何らかの役割を後からこじつける必要性自体がないものである。
アイヒマン実験における「Cyberneticsの観点。」同様、「結果。」に後から意味をこじつけるのは理論的に間違いである。どれ程偶発的に良い結果をもたらすとしても、結果というものは意識的に選択した「目的。」が伴わなず、絶対的に常に良い結果をもたらす論証にはならないのである。
「結果。」という現状に基づいて、これから「目的。」に向かってどのような選択を行うか。この選択が「意識。」の役割である。単なる現状という「結果。」に意味をこじつけても、「目的。」自体から意識撹乱されることはあっても、「目的。」自体は抽出されることはない。
ヒトの多くは現状のことを短絡的に「現実主義。」と錯覚するが、現状に迎合服従していること自体が現実逃避であり、どのような「目的。」意識を持つべきであるかという「理想。」を無視し、意識狭窄に陥っているのである。
本質的な「現実。」主義とは、現状という「結果。」を踏まえてどのように「理想。」に向かって近付けることが可能であるかを「考え。」ることであり。現状に迎合して気分的に満足して思考停止に陥ることは現実逃避でしかないのである。
虚無主義ニヒリズムというのは、あたかも現実主義であるかのように文系大衆観念では取り扱うが。実際にはこれからどのような選択を「すべき。」であるかを意識から外し、「結果。」という現状に迎合服従するだけの現実逃避であり、臆病者の言い逃れ/取り繕いに過ぎない。ニヒリズムというのは一種の自閉症に過ぎないのである。
だからこそニヒリストというのは感情的であり、同時に「考え。」が伴わない。ニヒリストがヒステリックにニヒリズムに固執するのは、それが図星であることの証明である。
他人の話に耳を貸さないというのは自閉症の症状そのものである。
虚無をいくら枚挙しても、それこそネガティブ性しか出てくることはなく。何ら社会安全性も持続可能性にも寄与することはない。
ヒトの多くは虚無を持ち出されると簡単に思考を停止し、反論不能に陥り結果的に迎合しがちである。「ヒトとは、そういうものだ。」とか、「今までずっとそうだった。」といった多数抽出結果の枚挙を、あたかも論理的不可能証明であるかのように錯覚するのである。
錯覚を錯覚と認識できないのは、そこに本質的意識による論理検証性が働いていないからに他ならない。
「なぜ、そういう結果になったのか。」を論理的に検証し、原因を究明、再発防止策につなげることができないのは。こうした本能的無意識錯覚による思考の停止が働いているからである。
こうした本能的な条件反射的思考停止こそが実証不能の観念に多くのヒトを誘うのである。経済学では断片的にこうした虚無主義が混入しており、同時に根拠のない目先の効用への幻想によって思考停止に陥っているのである。
文系大衆観念というものの多くは、論理的には全く検証がなされていない実証不能の観念であり。これを無為無策に放置することは「頭が悪い。」からである。
「社会性。」と称して本能的な社会形成習性こそが人間としての社会性であるかのように生物学は論じてきた。未だに生物学は「本能にこそ人間性が存在する。」と言い張る始末である。
「合理性追求。」という言葉においても、カントの純粋理性批判を鵜呑みにし、誰も論理検証をしてこなかった。
本質的な合理性なくして社会安全性も持続可能性も確立することは不可能である。決してその場限りの気分的「安心。」によって社会安全性が保障されるわけではなく、むしろ、気分的「安心。」という実証不能の観念こそが社会を危険に陥れることを認識すべきである。
「心。」というのは目先の気分的「安心。」の追求によって形成されるものではなく。統合的で本質的な合理性を伴った理性的選択によって作られるものである。決して目先の本能的利益や効用といったものに惑わされず、自己の社会における本質的な自己の存在意義(大衆観念上での世間的評価ではなく。)に基づいて自律的に選択することによって、本質的な人間としての「心。」の平穏を持つことが可能となるのである。
生物学/脳科学や哲学マスコミは、大衆が目先の利益効用に本能的に撹乱されることで論理的思考を失わせることが可能であることを利用し、あたかも科学的理論であるかのような体裁だけを用いて体制維持を謀る。
それが理解認識できなければ、ヒト社会におけるあらゆる過ちは放置されることになる。
私は神ではない。従って私一人で社会の安全性や持続可能性を構築できるわけではなく、単なる道筋を明らかにしているだけである。より多くの人がこの道筋の正当性を認識しなければ何も変わることはない。
無意識な行動というものは、機械的条件反射行動である。従って無意識でいるということは結果的には暴走に加担することにしかならない。
暴走を止めるのは意識であり、本質的合理性の追求である。それが目先の気分を害するとしても、利権の喪失になるとしても、「人間。」として自律的に社会的責任を負わなければ、本質的な「自己。」としての存在価値の論証にもならない。
目先の利害に意識を奪われていればサルと何ら違わないのである。
Ende;
○解体。
アイリーン:ペパーバーグのオウム(ヨウム)は生体解剖されていなかった。
確か言葉を話すオウムは解剖されたという話をどこかで聞いたことがあったのだが、Webでの調べものが苦手なのでよくわからない。多分英語論文なんだろう。最近ペパーバーグが飼っていたオウムが死んだそうである。
それはさておき。(どうでも良いことなので。)
「ヒトよりも知能の高い生物がいたとして、ヒトの話を聞かないはずはない。」などという話は何の根拠もない文系観念者の勝手な決め付けに過ぎず。知能というものの議論を撹乱するための言い逃れとして、あたかも科学的論証風味なことを述べて大衆を撹乱しているだけである。
むしろ理論的な話が通じない生物学者達やマスコミの頭の悪さこそが問題なのである。
ヒトでありさえすれば人間としての知能が必ず発揮されるという短絡的なものではなく、教えられていないことを発見したり、教えられたことの間違いに気付く能力、自律的に社会的責任判断を行うというのは、ヒトの中でもはむしろ非常に稀なものである。
以前にも述べたが、言葉を話すことが短絡的に知能の論証にはならない。振り込め詐欺や占い師は非常に言葉巧みに相手の論理的思考を撹乱するが、彼等が科学的発見や発明をすることはない。チンパンジーがエサ欲しさに高度な瞬間記憶能力を発揮しているのと何ら変わりはないのである。
詐欺ペテンであっても、ある種の知的能力の一種であるとは分類可能ではあろうが。本質的な人間としての知能とは無関係である。
言語を用いて相手の気分的満足を与えられると、多くのヒトはそれを知能であると簡単に錯覚する。逆に言えば気分的に嫌な話を持ち出し、自分の愚かさを立証されることによる気分的嫌悪感によって、話に耳を貸さなくなる性質がある。
生物学者達がカルト宗教の信者の如く、自分にとって都合の悪い話に耳を貸さないのは。彼等が論理的思考ではなく観念的気分によって行動判断を行っているからである。
ペパーバーグらがオウムに強い思い入れをしても、何ら論理的にはオウムの知能の論証にはならない。思い込みという「感情の強度/程度。」では科学的論証にはならないのである。
行動学習による無意識的認識能力の全てが意識的な論理思考を促すわけではなく、無意識的認識能力というものは錯覚や固定観念をも作り出す性質も持っている。従って、何が錯覚や論理的根拠のない固定観念であるかを認識するのは無意識ではなく、今現在における本質的意識/論理検証性である。
カルト宗教の信者の行動というものは、経験による無意識的行動学習が作り出した結果である。これを無視して「無意識こそが論理思考を作り出す。」などと言い張るのは、言っている認知科学者の頭が壊れているとしか考えられない。
ヒトは人生において必ずしも論理的思考において都合の良い行動学習しか体験しないわけではなく、むしろ論理的思考を阻害するような本能感情による行動バイアスを無意識的に学習することの方が圧倒的に多い。これを論じない認知科学者というのは、認知科学者としてポンコツとしか言いようがない。
Ende;
○論拠。
鍛練や習熟によって獲得可能な能力というものは、あくまで遺伝的に予め可能性が存在するから可能なのであって、普通は発現しない能力が特殊な環境や状況下において発現したからといって遺伝的能力を超越しているわけではない。
キリンの首が長いことを、「キリンは高い所の葉を食べるために進化した。」と生物学では「説明。」する。
キリンが高い所の葉を食べようと鍛練習熟することによって、あたかも遺伝要因自体にまで影響を及ぼしたかの如く言い張るのは大きな間違いである。遺伝による先天的能力というものは個体が選択不可能な要素であって、「結果。」以上の何物でもない。
「結果。」に後から「目的。」的な意味をこじつけても、これは「説明のための説明。」にしかなっていない。説明することだけが目的であり、全く真理の追求には構造原理的にならない。
現在のキリンの首が長いのは、首の短いキリンが環境によって淘汰された「結果。」であって、遺伝的に首が短い生物種がどんなに頑張っても首が長くなったりはしない。キリンの首が長いのは何らかの目的意識によってではなく、あくまで結果以上の何ものでもない。これがダーウィン進化論の本来の解釈である。
ヤギの多くは二本脚では歩かない。だからといってヤギが遺伝的に二本脚で歩くことが不可能であるわけではなく、前脚を奇形や事故で失った場合に二本脚で歩いても遺伝的能力の超越の論証にはならない。
ネコが二本脚で歩いたりヒトの発声に似た声を出すことはYouTubeの動画にも時折見られる。中国の古い文献にもネコの二本脚歩きやヒトの言葉を話したというものがある。
普段発現しない能力であっても、環境や状況によって発現したからといって、それは「珍しいこと。」ではあっても遺伝的能力を超越しているとは言うことができず、「多く。」の個体に発現しないとしても、あくまで能力の潜在に過ぎない。
生物生存において、遺伝的に可能な能力の全てを獲得する必要性はなく、潜在的な能力を保有していても何ら不思議はない。
キリンは首がとても長いため、高い場所にある脳にまで血液を送るために血圧が非常に高い。ところがこのまま頭を地面付近まで下げると血圧が高過ぎて脳溢血で死に至る、これを防ぐために脳動脈には血圧を調節する機構が備わっているのだが、この機構は首が長くないオカピにも存在する。
オカピにとって脳血圧の調節機構は必要ないのだが、潜在的にこうした機構を持っていても構わないのである。
生物の遺伝的な機構や能力というのは、全てが必要である必然性はなく。全て偶然結果的に生存に適していさえすれば何が組み込まれていてもおかしくはない。遺伝要素というのは自然淘汰によって洗練はされているが、全てが必然性によって組み込まれているわけではない。
何らかの「目的。」意識に基づいた必然性によって何者かが生物を作ったわけではなく。あくまで「結果。」的に生存していた存在を「生物。」と分類しているだけなのである。
ヒトのやイヌの身体の大きさは非常にバリエーションに富んでいる。これは自然淘汰によって「洗練。」されていないからであり、突然変異に任せておけば生物の姿というのは大きな違いを生ずることの論証である。
結果的に生存していた生物だけを抽出してきて、あたかも生物というものの全てが生存のために自己の遺伝的性質自体までをも意図的に変化させたかのように論ずるのは、生物学者特有の非論理的文系観念に過ぎない。
淘汰によって生存に適さなかった生物の全てを無視して、偶発的に生存していた生物だけを抽出しても。生物の目的が生存であることの論証にはならない。
突然変異が進化(変化)をもたらし、これが生存に適した種を生じさせることがあるとしても。実際には突然変異のほとんどは生存には適さず、むしろ突然変異のほとんどは統計的に生存には結びつかない。
生存とは偶発的な「結果。」以上の何物でもなく、生物自体に何ら目的など存在しない。
目的というものは意識的に選択されたものを言うのであって、これは意識を持った「人間。」にしか存在しないのである。これは同時に意識のない「ヒト。」の単なる欲望は本質的には目的と言うことができない。
本能に基づく行動選択であっても、これは一面的には行動「目的。」と形容するが。本能自体が自発的選択によるものではない以上、そこに一面的に合理性があっても意識的に選択された本質的な行動「目的。」とは言えない。
本能という無意識的シーケンスに基づいている限り、断片的に合理性が伴っても本質的には合理的でもなければ意識的行動選択でもない。統合的な目的意識に基づいた行動選択がなされない限り、本質的には合理性にはならない。
国家単位において普遍的に国益保守が見られるからといって、これを人類の普遍的価値観であるかのように論ずるのは間違いである。これは「ヒト。」における「結果。」的な普遍的性質の枚挙に過ぎず、何ら「人間。」としての意識的に選択された「目的。」意識に基づく普遍的価値観ではないからである。
「ヒトとは、こういうものである。」ことをどんなにたくさん枚挙抽出しても、それが短絡的に「人間として、かくあるべき。」であることの論証にはならないということである。
生物学に限らず、文系観念の放置というものはヒトの行動「結果。」の抽出枚挙を短絡的に人間としての「目的。」行動にすりかえる愚かさの放置でもある。それなら失敗が繰り返されるのは必然というものである。
失敗というものを工学的に検証し、どうしたら失敗を繰り返さないようにできるのかを考えるためには。先ず初めに文系観念による短絡的すりかえ(諦め)による論理撹乱を排除すべきであり、これによって本質的な合理的安全性の確立が可能となるのである。
ヒトの多くは、「今までずっとそうだった。」とか、「多くのヒトはこういうものだ。」といった文系観念による脅迫的強弁を、あたかも論理的な不可能証明であるかのごとく錯覚しがちである。
簡単であるかどうかは無関係である。難しいからやらなくて良いというような短絡的安易な結論は糞の役にも立たないからである。
生物学者達が大好きな文系観念の放置というものは、科学から論理的思考を奪い、実証不能の観念に基づく混沌と、論理的根拠のない不可知性のまどろみに多くのヒトを誘う。だから社会の安全性も持続可能性も確立できないのである。
Ende;
○文明。
「文明。」と呼ばれるコミュニティーの巨大化を「人間。」的と呼ぶのは論理的な根拠ではない。コミュニティーの規模と人間性に比例関係など存在しないからである。
ポジティブな一面だけを抽出枚挙することで、コミュニティーの巨大化を「文明。」と称して、あたかも絶対的価値であるかの如く論ずるのは大衆迎合的なまやかしに過ぎない。
一面的に医療の発達や経済学上の数値だけを抽出枚挙しても、「文明。」都市の巨大化の全てが合理的である論証にはならない。「都市対田舎。」という短絡的構図を鵜呑みにして論理検証を全くしないから養老孟司のような論理整合性のない支離滅裂な話が鵜呑みにされ、結果的に本質的合理性が失われることこそが無為無策に陥る原因である。
観念によって思考が停止していれば、原因究明も対策もされなくなるのは必然というものである。
Ende;