書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

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2012年04月12日 14時38分39秒 | 意識論関連

○「外見上の主体性≠人間。」という観念。

 意欲というものが本質的な主体性を持たないのであれば、外見上の主体性として欲望の主張が強いことを「人間。」的だと称するのは間違いである。

 「人間。」としての主張をするのであれば、これは利己的欲望に基づく単なる主張の強度ではなく。あくまで持続可能性や安全性を優先した合理性のある選択でなければならない。合理性のある持続可能性や安全性の追求というものは個人の本能的欲望の強度とは関係がないので主張が自ずと弱くなるものである。

 どうも文系の観念上では、自己主張が強いことを人間的と形容する傾向があるが、これは合理的根拠がなく。単なる生物種として「ヒト。」的ではあっても、これは「人間。」的である論理的根拠にはなっていない。

 「人間」と「動物種としてのヒト」の区別自体に論理的分別が欠落して、文系の無意識的固定観念に基づいて何を論じても何ら合理性のある結論には到達することは不可能である。

 文系の観念上においては、「ヒト=人間。」という実証不能の観念に基づいた論証が平気で行われる。これがあらゆる議論における根本的な理論的間違いなのである。


 論理的思考に基づく判断というものは、自ずとその冷静さから感情的主張の強度は小さくなるものである。逆に本能的欲望だの無意識的固定観念に基づく主張というものは、その本能的感情によって主張が激しさを増す傾向がある。

 ヒトの多くは感情的な主張の大きさによって判断を奪われる傾向があり、これもまた本能的な社会形成習性による「観念。」であり。ヒトの行動判断の9割以上は、こうした無意識的な観念による判断しか行われないものである。

 理性的で統合的判断というものは、言うなれば「天使の声。」であり。これは「ケダモノの声。」や「悪魔の声。」に比べて意識の上では1割に満たないのと同じことである。

 ケダモノであっても概ねは平和的であろう。それならケダモノに原発の運転を任せておいても気分的には安心なのかも知れないが、それが安全である保障など全くない。

 「キチガイに刃物。」と言うが、「ケダモノに科学技術。」なら同じことである。




○自主的問題意識の欠如。

 「前例がない。」或は「とても困難を伴う。」というのは、論理的/原理的に絶対不可能であることの論証ではない。ところが自発的問題意識の欠落した者というのは、困難を伴う面倒臭いことは「不可能であると仮定して。」おいて、表面的な目先の効果効用だけを求め、これを「実務的。」と言い張る傾向がある。

 議論において論理的根拠のない仮定を持ち出すのは、議論を形而化させ無為無策に陥らせるだけである。

 難しいかどうかを選択の判断基準にするというのは手抜き以外の何物でもない。根本的な問題点を放置しておいて表面的な小手先技で取り繕ってしまうというのは、そいつに自主的問題解決の意欲自体が存在せず、その場限りの効果/業績によって多数他者や権威からの評価報酬が目的であるからだ。

 理想をすぐに実現することが困難であるからといって、目先の取り繕い手段を「目的。」にするというのは無責任である。あくまで「目的。」としては理想を掲げておいて、暫定的措置を選択するのであれば、これは「現場の判断。」であろうが。暫定的措置は「手段。」であって「目的。」ではなく、統合的な目的議論に持ち込むべきものではない。

 議論において理想という「目的。」を簡単に放棄したがるのは、そもそもが自発的問題意識がないからであり。こういう者の「目的。」というのは他人からの評価報酬という利己的欲望でしかないからだ。

 利己的欲望による選択判断の多数決では、理想というものは簡単に失われる。嫌われることは承知の上で言っているのだが制度だけ民主主義制度を導入しておいても、実際に議論する者の多数がバカであるならバカ主義制度にしかならないのである。

 理想というと夢物語か何かと勘違いするバカも多いが、理想というのは持続可能性や安全性を確立することであって、本能欲望の全てが叶うような「バカにとって都合の良い話。」ではない。

 地道で質素で、それぞれの人達が自分の欲望というものを自律的に制御できている平穏な社会こそが本当の「人間としての理想。」というものであり。目先の欲望の全てを満たそうとするのは、狭窄な目先の無意識による「豚小屋の理想。」に過ぎない。

 現在の教育制度における学力成績基準においては、本質的な自主性に基づく意欲/問題意識の有無とは無関係であり。目先の利己的欲望が「目的。」であっても区別はされない。だから東大からテロリストが出たり、天下り役人が減らないのである。学力向上という現場の判断だけが目的にされてしまえば、何が起きても誰も責任を負わないということでもある。

 認知科学界自体が「無意識こそが人間性/合理性を作り出す。」などという支離滅裂な主張を繰り返しを放置するというのは、大学/公的研究機関の役割として無責任であり公金の無駄遣いどころか詐欺行為である。

 ヒトというのは、手段と目的を簡単に混同してしまう性質があり。これこそが論理検証性の欠落による無分別によるものである。

 論理検証という本質的合理性の追求こそが、本質的な人間としての意識なのである。これを文系の観念者達は忌避したがる。文系の観念者達というのは既に刷り込まれた固定観念による目先の感情こそが意識の全てであることにしておきたいのであろう。

 自分達の感情の全てが人間としての「心。」であると錯覚しておけば安心であり、こうした気分的満足によって論理的思考を停止させてしまう。だからマスコミはSQだの脳トレなんぞを鵜呑みにして満足しているのである。

 それが無責任であることを彼等は全く認識していない。



 私はネガティブな指摘しかしない。なぜなら議論の根本的合理性の問題点について論じているからである。各論的な実務レベルの話であれば専門家に任せるしかないのであるが、どの専門家に任せるべきかの選択は各々の現場の責任であり、それぞれの「意識。」の問題である。

 理論的基礎が間違ったままどんなに議論を重ねても合理的帰結には到達不能である。多くのヒトは目先の表面的な解決法にばかり意識を奪われ、根本的な間違いを放置して同じ原因の過ちを何度も繰り返す。それをバカという以外には形容不能である。

 バカげた話を鵜呑みにしているから物事の本質を見失い無為無策に陥るのである。地道に嘘や誤りを正すことによって実効性のある対策が立てられるようになる、バカを放置しているから実効性のある策が潰されているのである。

 バカを放置しておくこともバカに加担しているのと同じである。誰がバカなのかが区別できないのは当人がバカだからであろう。

 バカがバカたる所以とは、自らのバカを自律的に認識「したがらない。」からである。

 「したがらない。」というのは気分感情の問題であり、気分感情とは無意識であり、「意識の9割以上は無意識である。」ことを論理的に理解すべきである。


 ポジティブ能動的な意見というのは、専門各論において自発的意欲のある人が導き出すものであり。自発的意欲のない奴が専門に就いていれば体制維持体質によって実効性のあるポジティブ意見が黙殺され、表面的な取り繕いによって本質的問題点が放置されることになるのである。従って丹念に本質的自発性の欠落した者を専門分野から排除しない限り、本当に有効なポジティブ意見というのは社会に反映されることはないのである。

 短絡的にポジティブ意見を追求するというのは、言うなれば「目先の効用。」の追求に過ぎない。その方が短絡的で大衆にはウケが良いであろうが、こうした大衆迎合こそが社会の無意識的な暴走性を放置する原因であることを認識すべきである。



○純粋行為が、なぜ純粋なのか。

 それを考えるためには、不純な行為とは何かを考えれば良い。

 不純な行為とは、他者から与えられる、或は与えられる可能性に基づき行われる行為である。これは欲望が自己完結していないので純粋とは言うことができない。

 平たく言えば、誰かから与えたもう評価報酬「エサ。」に対する機械的条件反射行動である。誰かという他者から与えられる「エサ。」を求める場合、与えられる相手が必要不可欠であり、自発性がない。

 こうした自発性のない、他発性による行動動機の場合幾つかの問題点が生ずる。

 まず評価を行う他者が常に必要である。これは非常に面倒臭いことで、評価が得られない或は得られそうにない場合には簡単に行為が放棄されてしまう。その上自己本人の純粋な好奇心は全く満たされることがないために他者からの評価報酬への欲望は常にエスカレート暴走する性質があり。ヒトの欲望に際限がなくなる原因でもある。

 次に評価を得るためであれば公益的な自律判断も簡単に放棄されてしまう。社会的にはこれが最も厄介な性質である。

 こうした他律的行動原理に基づく行動というのは、本能的な社会形成習性とも親和性が高く、自己責任の放棄になると勝手に錯覚する原因にもなる。

 そして本能的な社会形成習性によって既存の価値観に基づく体制に迎合し、気分的に安心することによって、実効性のある実質的対策というものが黙殺統制されてしまうのである。


 一方自発的純粋行為の場合、他者からの評価報酬には行為が左右されないため、簡単に行為が放棄されることがなく、凡庸な程度で「諦める。」という気分感情による行為放棄が原理的には起こらない。

 天才が天才足りうる原因というのは、こうした自発的行為によって凡庸な程度での行為放棄がなく。徹底的な追求が行われることによって凡庸ではない「天才的。」なまでの探求が結果的に行われるからである。

 また、自発的純粋行為によって自己自身の純粋な好奇心を満たすことが自律的に可能であるため、自己内部の欲望というものを自己自身によって自己完結的に満たすことが可能であり、結果的に外見上禁欲的でもある。

 こうした自発的純粋行為を「自慰的。」と形容する者がいるが、それなら自分の欲望を多数他人によって満たそうとするのは「他慰的。」行為であり。これはもはや単なるド変態という以外にない。自己の欲望というものは自己自身によって処理するというのは、人間として当然のことであり、何ら自慰的であることに問題などない。

 それを「恥ずかしい。」と「思う。」のは、多数他人との共通的価値観の迎合性による恐怖心であり。こうした「思い。」というものは論理的根拠による合理性のあるものではなく、正に「実証不能の観念。」に他ならない。

 むしろ他慰的欲望を満たさんがために自律的に社会的責任判断を放棄したり、際限なく欲望を暴走させる方が明らかに社会的に迷惑なのである。

 時代に左右されうる普遍性を持たない多数大衆による価値観は本質的には人間としての社会性ではなく、言うなれば世間的価値観に過ぎず。目先の世間に迎合することというのは人間としての社会性とは異なるものである。

 ところがヒトの多くはこれを根本から勘違い錯覚しており、多数権威に服従迎合しておくことこそが本能的に安心であるため。この気分的安心を安全性と錯覚するのである。

 ヒトという種の生物は、本能的な社会形成習性に従って無意識的/本能的に多数権威に服従迎合する「仕組み。」が組み込まれており。気分的安心という感情の強さこそが意識であると錯覚するのである。

 本質的意識や本質的知能というものは、論理的思考によって導き出されるものであり。固定観念に基づく感情の強度によって導き出されるものではない。むしろ無意識的な固定観念による感情によってこそ論理的思考は阻害されるのである。

 故に多くのヒト衆生は同じ過ちを繰り返し、愚かなままなのである。

 原因が理論的に解析できれば対策も立てられる。ヒトの多くが愚かなのは原因を認識「したがらない。」という気分感情が論理的思考を阻害しているからである。



 原発技術者のような特定の技術者だけが自律的に社会的責任判断を行わなければならないのではなく、社会に生きるあらゆる人には、その人なりの行動責任というものが存在するのである。これを無視して他人にばかり「想定外をなくせ。」などというのは余りに都合の良い社会的「甘え。」である。

 その場限りの気分感情だけ満足させておいて「心。」もすったくれもあったものではない。自律的に自己の感情が制御できないのは純粋な好奇心に基づく純粋行為に価値を持たないからである。

 養老孟司にも見られるように、自発的純粋行為を「知って。」いても。その純粋行為に価値を持たずに世間的評価や成功報酬に目が眩んでいれば自律的判断は失われる。

 ヒトの多くは、本能的に多数他人からの評価や報酬を求めてしまうために。自発的純粋行為への価値観を喪失する習性がある。養老が訴えるルサンチマンの全ては世間からの評価に対する条件反射的なものであり、そこには論理検証という「考え。」が全く伴わず、「悔しい。」だの「仕方ない。」といった気分による観念しか出てこない。

 ニーチェが論ずる「出来そうにないことを、自分に要求するな。」などというのも、「出来そう。」かどうかという基準自体がそもそも合理的根拠によるものではなく。これを基準に「諦める。」ための言い逃れによる気分的満足を得るための言い訳に文系大衆が利用している実証不能の観念に他ならない。

 実証不能の観念というものを、ヒトが振り回すことに陥るのは。それが無意識な気分的満足を意識であると錯覚しているからであり、こうした錯覚を錯覚と認識する論理検証性/自発的思考というものが欠落しているからである。

 無意識に行動していれば何が起きても誰も責任は負うことができないのは当たり前である。特定の誰か少数に意識があったとしても、多数という強大な力の前には少数は原理的に微力である。アインシュタインのような天才であってもナチスを止めることができないのはそのためである。



Ende;
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