2012.7.2
○暴走を止めるものとは。
アレフが以前のように暴力的に変質する可能性は充分にある。そもそもアレフになんぞ入信するような奴は論理的思考が出来ない文系観念的無意識に染まったバカであるから、無意識的に本能のままに以前のような異常集団になりかねない。
文系大衆観念によって暴走する集団に対して、文系大衆観念に基づいた対策を立てても何の効力も有り得ない。気分的にどんなに恐がっても、強迫観念的に干渉監視しても、むしろ論理的検証を誰もせずに観念的/感情的に集団を追い込むことになりかねない。それこそ政府レベルで強権的に監視するならまだしも、住民による合法的監視では教団の暴走を止めることは困難であろう。
教団の教義の論理的穴を合理的に反証して、観念的な洗脳状態や、本能的社会形成習性による集団心理に流されないように促すことで、個々の信者達に自律的に教団をやめるように促す必要性があるだろう。
同じ考え(実際には考えではなく気分的観念の気分的共鳴であっても)の集団に帰属することによる、本能的安心満足によって自発的論理検証を全くしなくなるために、無意識な集団は自閉症的に暴走に陥るのである。
ヒトというのは論理検証よりも観念に基づく気分的安心満足を優先しがちであり、集団内部において多数が認識できない論理的飛躍や穴といったものを自発的には認識できなくなってしまうのである。
その点においては周辺地域住民によるヒステリックな拒絶反応というものは、何ら信者達に自分達の観念の論理的穴を認識させることを促すことにはならず。むしろ合理性のない観念ばかりを強烈に植え付けてしまう可能性もある。
「疑い深い。」というのは観念的拒絶反応による好き嫌い的行動「学習。」によるものであり、「深さ。」に依存していること自体がそもそも論理検証による論理的理解が働いていないことの証明でもある。
論理的理解というものには「深さ。」に依存するようなものではない。
ヒトという種の生物に普遍的に見られる間違いそのものに言及しない限り、特定の集団に対して観念的拒絶反応をしているだけでは何ら合理的解決には至ることはない。
危険性というものは特定集団だけにあるのではなく、ナチス政権下のドイツでも、戦時中の日本でも、現在の北朝鮮においても、シエラレオネの少年ゲリラにおいても、更には個人においても無差別暴力というものは存在しうるものである。それを観念的拒絶反応をするだけでは、結局カルト信者達が社会全体を拒絶しているのとやっていることは同じであり。むしろ同じ観念によって助長を促しかねないのである。
その拒絶反応において多数決は合理的判断の論拠とは全くならない。
取締さえやっときゃ事故は減るだの、罰を下しておけば犯罪は減るだの、民主主義制度さえ導入しておけば民主的に政治が行われるだのといったイデオロギーというのは、結局は合理性のない宗教と同じものであり。単なる気分的満足だの精神的救済しかもたらすことはなく、何ら合理的解決策には至らないばかりか、それを阻害しうるものでもある。
まさに多数派によって文系大衆観念というものは合理的論理検証を駆逐することによって合理的問題解決策というものが無視され、非合理的観念ばかりが優先されてしまうのである。それこそが反社会的であることを認識すべきであろう。
文系大衆観念上では合理性の追求はあたかも絶対悪であるかのように論じられるが、一般的に言われる合理性追求というものは特定の本能欲望に基づいた理性的行動を指すのであって、カントの断片的な純粋理性批判といった観念は間違いなのである。理性が純粋な状態であれば、それは本能欲望を介さない純然たる論理検証を指すものであり、これは人畜無害な論理的事実しか導き出すことはない。
こういった論理的理解を全く行わず、気分的満足を優先した観念の殻に閉じこもってしまっている状態こそが、むしろカルト信者の心理状態と全く同じものなのである。
理論には「勝つ。」ことができない。そもそも理論というものは勝ち負けを目的としたものではなく、純然たる真理追求に過ぎないからである。勝ち負けを左右するのは理論ではなく多数や権威といった観念の「結果。」以上の何物でもない。
Ende;