幸福には二種類ある。
一つは動物的でその場限りの「快楽。」であり。もう一つは人間としての個人的楽しみである「熱中。」である。
どちらも大脳辺縁系の気分的な満足を得るものであるが、人間としての本質的幸福を持たなければ公益倫理的判断を伴うことはなく。その場限りのウケ狙いなどの利己的快楽しか求めることはない。
本質的な人間としての幸福とは、他人からの評価報酬とは無関係に、あくまで個人的に楽しいと思える研究などの純粋行為でなくてはならない。他人からの評価や報酬を期待している時点で、それは不純な行為であるからだ。
世間的評価や報酬といったものが動機である行為とは、そこに本質的な個人の幸福は存在せず。生物学的な社会形成習性として予め大脳辺縁系に組み込まれた本能的な強迫観念に基づいて行われる動物的行動習性の結果に過ぎず、これは不純な行為である。
動機が不純である場合。その行動がもし公益倫理的に害を成す可能性があるとしても、それをやめることはできず、あれこれと取り繕いの屁理屈を並べて保守と維持に邁進することになる。
不純な行動というのは、そもそもが環境依存的な行動であり。世間という環境、多数決的な大衆迎合さえできれば実質的には害を成すとしても、それを隠蔽してでも維持しなければ「やってられない。」気分に陥るからである。
本当に純粋な動機による行動であれば、世間的な評価報酬とは無関係に行われるものであり。その行動が社会の公益倫理に反する場合、自律的に抑制の可能性も含まれる。
しかし、不純な動機で行われる行動というのは。そもそもが自己自身の本質的行動選択に由来していないために。多数他人からの強制的抑止以外に「やめる理由。」を失うのである。
純粋な動機で行われる行動の全てが自律に結び付くとは限らない。しかし、不純な動機で行われる行動の場合の全ては構造原理的に自律判断が最初から伴わない。
脳トレを世間に広めて、一度多数他人からの評価を得てしまうと、脳トレが実質的には振り込め詐欺には効果がないことが立証されても、その事実を公表しないのはこのためである。
脳トレ類を行うと前頭葉の脳血流の増加が認められる。しかし、こうした脳血流増加が全く役に立たないことが立証されているにも関わらず、マスコミは無批判に「脳血流の増加=頭が良くなる。」という短絡的図式を盲信し続けなくてはいられないのである。
恐らく多くの大衆においても、こうしたバカげた話を鵜呑みにして満足するのであろう。
自律的な公益倫理判断や、教えられたこと以外の全く新しいことに「気付く。」という本質的な人間としての知能を伴わない限り、どんなに学力や学歴を得ているとしても無能なばかりか、その無能に与えられた権威性によって社会的損失を生んでいることも少なくない。
多くの大衆にとって、利己的な満足としての社会的成功や、盲目的な権威への服従こそが気分的満足「安心。」を伴う脳の快楽なのであろう。
予め組み込まれたシーケンシャルな「安心」という快楽に流されているだけであれば、そこには本質的な自己選択は存在することはなく、個人が個人であることの価値も存在しないのである。
予め組み込まれた先天的「個体差」や、後天的に刷り込まれた「潜在知。」といった個人的好き嫌いといったものの全ては既に存在しているだけの自己、「既存在。」に過ぎず。本質的自己としての今現在においてのみ可能である選択であっても、その選択に「潜在知。」としての個人的好き嫌いだけが選択基準であるならば、それは本質的には「選択。」ですらないのである。
純粋行為というものも、これもまた一種の「潜在知。」や先天的な好き嫌いに起因するものではある。だが、しかし、あくまで個人的な純粋行為というものに価値を持っていることによってこそ、公益倫理的な自律判断というものとの分別が可能となるのである。
欲望とか個人的好き嫌いのない者などいない。問題は個人的欲望というものを純粋に発揮することにより公益倫理判断との明確な区別ができるようになることである。
世間からのウケ狙いを動機とする不純な行為には構造原理的にこれが育まれない。
無思考で漫然とした愚かさというものは、こうして育まれることになるのである。
知識をどんなにたくさん「知って。」いても、自律的に判断できないのであれば、それは本質的には「知能。」であるとすら言えないのである。
そもそも「知能。」という言葉自体が間違いなのかも知れない。思考判断を伴わない単純な「知る。」能力をintelligenceと訳すこと自体間違いであると言える。
教えられたこと以外の新しいことに気付くこと、或は教えられたこと自体の間違いに気付くこと。これらが伴わない試験やクイズの成績は全く本質的知能とは無関係である。
大量の情報をただ漫然と「知って。」いることを、大衆凡民の多くは漫然と「頭が良い。」と錯覚する傾向があり。権威性に彩られたブランドを崇拝したがる。一流国立大学出身の天下り役人や原発研究者も少なくはないことは意識の上から外して満足するのである。その方が気分的に「安心。」だからである。
原発関連の問題に関しては独立した科学的思考の重要性が認識されつつあるが。これはあくまで気分的な「不安。」が促す環境依存的な「結果。」でしかない。
その一方で、振り込め詐欺に対する耐性といった、本質的知能、思考能力に関しては。大衆は独立した科学的思考の重要性は全く認識されることはない。
これは、いわば「泥縄。」的な反射的反応の「結果。」でしかあるまい。
振り込め詐欺本人の自律判断のみならず、騙される方の自律的思考判断というものが欠落しているから暴力団への資金提供に加担することに陥るのである。
脳トレ類というのは結局大脳辺縁系の気分を良くして、頭が良くなったような錯覚に陥れるだけのものであり。こうした気分が根本動機である以上、詐欺などの感情誘導に対する耐性が身につかないのは必然というものである。
自らの愚かさを認識することは、決して気分の良いものではない。騙されてから気付いたのでは遅いのである。それは原発の暴走でも同じことである。「絶対に安全。」などいう科学的嘘を鵜呑みにしていた過ちを教訓として知識にするためには、誰が嘘つきであるのかを予め認識しておかなければならない。
良く勘違いされるのだが、気分的に不安に陥ることを勧めているわけではなく。あくまで気分的な安心や不安だけに意識を奪われることなく、論理的に思考することが重要なのである。
ところがヒトという種の生物というものは、その大脳辺縁系が論理的思考を最優先するようにはできておらず、感情的に煽られることによって簡単に論理的思考を失い、意識狭窄に陥るように出来ているのである。
バカであれば「構造原理的に出来ているのであれば、他に選択肢などない。」と論理的根拠もなく決め付けて思考を停止させるであろう。
予め組み込まれた反応以外が一切出来ずに「自由」意思もすったくれもないのである。
ヒトは純粋行為を行うことによってのみ、自発的な思考が可能となるのである。行為の純粋さこそが自由な思考を促し、教わっていない全く新しい事柄や、教わったことの間違いに気付くことが可能となるのである。
ところがヒトという種の生物には、生物学的な社会形成習性というものがあり。どうしても他人からの評価や報酬に行動を左右されてしまう習性があり。これが本質的純粋行為とウケ狙いとの区別を撹乱する。
その結果、大衆マスコミの評価に流されウケ狙いにばかり意識を奪われ、意識の狭窄を招くことに陥るのである。
不純な行為というものは、そもそもが強迫観念が根底にあるため、一度陥ると異常な固執を発揮することになる。原発推進派や、北朝鮮労働党などの異常な体制維持体質というものは、こうして作り出されるのである。
こうした強迫観念に基づいた体制維持体質というものは、そもそもが感情という大脳辺縁系の反応が根本にあるため。生物本能的にヒステリックに正当性を強要するための屁理屈を並べたて。その感情的な屁理屈に多くの大衆は批判することに疲労困憊して「観念。」してしまうのである。
それが理性の惨敗を招き、予め防ぐことの可能であった惨事を野放しにすることになるのである。
惨事が起きてからでは遅いのである。それを悲観的であると述べるのは簡単であろう。それなら原発が暴走したことであっても楽観しておけば良かったとでも言うのであろうか。
振り込め詐欺類が100億円産業にまで「成長。」していながら、現在の脳科学は全く無関心である。その代わりにインスタントな快楽を与える脳トレ類をプロパガンダして詐欺に加担しているに過ぎない。
特定の能力だけを「鍛え。」ても、本質的な思考能力がつくわけではない。むしろ無益な能力をつけて気分的に満足しているという愚かさこそが、本質的思考能力を失わせているのである。
論理的思考と、それに伴う批判精神なくして「独立した科学。」もすったくれもあったものではない。その場限りに放射能を怖れて泥縄的に知識を貪っても、そこから科学的思考が養われるわけではないのである。
科学的、論理的思考を養うためには日頃からの純粋行為が重要である。それはインスタントに一夜漬けで出来るような受験勉強的短絡努力でどうなるようなものではない。
遠回りではあるが、近道など最初から存在しないのである。
目先の快楽に溺れて社会の安全性を蔑ろにしておいて、本質的には「幸福。」など有り得ないのである。
本当に個人的に好きなことに熱中しているのか、それとも本能的な感情だけに由来している行動なのか。その区別は、実際にある程度やってみた後に本当に気分的満足が得られているのかどうかが判断基準である。
どんなに熱中してみても、どうにも心理的にモヤモヤした感覚がなくならない場合、それは他人との比較、競争本能による強迫観念的な集中に過ぎない。
本当に個人的熱中ができることというのは、気分的にスッキリして、安らかな気持ちになるので、他人に迷惑をかけようとは「思わなく。」なるのである。
むしろ、自分自身の心理的満足というものによって、他人の心理的満足のことも受け入れられるようになり。結果的に公益倫理的自律判断というものもできるようになりやすいのである。
感情に余裕があれば意識の狭窄は起こりにくい。心理的余裕がないからこそ他人からの略奪搾取といった「他人との比較。」競争本能による強迫観念的行動にしか意識が働かなくなるのである。
ヒトである以上、感情があるのは当然である。その感情というものに、漫然と流され、強迫観念だけに行動が左右されていては本質的には「自由。」でもなんでもないのである。
自分の感情というものを客観的に分析し、論理的、理性的に「何に快楽を求めるのか。」が選択できて、初めて「自由。」であると言えるのである。
だから、個人的快楽の追求が多数他人からの評価や報酬にならなくても、個人的に気持ちが満足して、感情に余裕が生まれることによって。結果的に公益倫理的な自律判断にも意識が働くようになるのである。
大多数の他人、大衆から嫌われ者であっても、実質的に公益倫理判断ができることこそが本当の「人間。」としての所以である。
大衆に迎合して、実質的人間性とは何かという論理的追求を蔑ろにし。ただ漫然と大衆観念に迎合して気分的に「安心。」しているだけで「人間。」性は養われることはない。
気分的な「安心。」などというものは、要するに「慣れ。」の問題に過ぎず。無意識的刷り込み学習の「結果。」に過ぎない。それを「時代の空気。」だとか「民族性。」であるから変えることが絶対に不可能であるかのように論ずるのはバカの論理である。
バカというのはひたすらその場限りの気分的安心ばかりを追求するように脳が固定されてしまっているので、機械条件反射的に「できない。」だの「難しい。」だのといった取り繕いばかりに意識が働く。
要するに気分的に嫌なことは「考え。」たくないのである。「考え。」なければ大脳辺縁系が「安心。」であるため、感情的な取り繕いにばかり邁進することや、気分的な「悩み。」にさいなまされ、結局気分的な疲労によって、あたかも「自分が深く考えた。」ような錯覚に勝手に陥って満足するのである。
どんなに感情的「思い。」を枚挙しても、それは「考え。」たことにはならない。
自分の情動行動の根源を論理的に認識することによって、いわば認知行動療法的に自分の心理的拘束を解き。考えを広げることが必要なのである。
大抵の場合、自分自身の感情がコントロールできない者というのは論理的には全く説明のできない観念に到達せざるを得ない。だから養老孟司は「そこには意味があったんだ、そう思わなきゃ、やってられないじゃありませんか。」などと観念を共有したがるのである。
それは通り魔が自分の行動を事後正当化するための屁理屈と何ら構造的には変わりがないのである。
大抵の大衆凡民の多くは、養老のような気分主体の観念に共鳴するのであろう。それなら通り魔が発生しても、誰にも文句は言えないのである。
病理はヒトという種の生物に、予め組み込まれた本能の中にある。たとえ一面的に本能の優位性を挙げることが可能であるとしても、それは常に一面に過ぎず。取り繕い程度の意味しか持ち合わせることはない。
一面的に優位であったとしても、一面的に劣悪であるなら。優位性だけを抽出するのは本能ではなく理性的選択である。
そうした理性的選択というものを発揮するためにも、心理的余裕というものは重要なのである。強迫観念的に多数他人からの評価報酬にばかり意識が働いている者には、本当の自発的純粋行為の価値など認識することができないのかも知れない。
だが、それは自己自身とはどういうものであるかも知らず、暗闇を暴走しているのと同じことなのである。行き着く先が自分では選択できないのであるから、そう形容しても過言ではない。
社会制度だの時代の空気だのを論ずる前に、まず自己自身という「足元。」を知らなくはならない。誰もが泥沼に足を突っ込んだまま、他人の腕をいくら引っ張っても、誰も頼りになどならないのである。
まず、自分自身がしっかりと立つことである。より多くの人が自律できていれば、社会制度云々など論じる必要もなく、社会は安定するのである。
逆にいえば、どんなに優れた社会制度を導入しようとも、一人一人の民衆がバカしかいない社会は必ず破綻する。
人類が地球の癌細胞になるか、それとも自然環境と持続的に共存可能な存在になるか。それを「選択。」するのは目先の本能ではなく、あくまで理性であり本質的合理性である。
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