書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

環境保護。

2011年05月25日 12時26分06秒 | 意識論関連
 シーシェパードとかの環境保護団体の活動というのは、どうもやっていることがトンチンカンな感じがしていたのだが。彼らの「目的。」というのは環境保護というよりも、誰かを悪者と決め付けて攻撃することによって、「正義の裁きを下した。」気分に陥って満足したいだけなのではないか。

 冷静に考えれば、環境保護に対して有効な策というものが他にあるはずなのだが。そっちは明確な「敵」が見えないので、気分的に満足できないからやらないらしい。

 単純に捕鯨の妨害であっても、鯨が捕鯨船に近付かないような策もあるはずなのだが、そういうことは一切せずに捕鯨船を攻撃する。いわば、捕鯨をさせておいて攻撃しているのである。

 彼らがやりたいのは自然保護ではなくて、誰かを誹謗中傷して「やっつける」ことによって、一面的正義を振り回して気分的に満足したいだけなのではないだろうか。

 ビンラディン容疑者を問答無用で殺害しておいて、「正義の裁きを下した。」とか言ってる奴が大統領なくらいだから、アメリカ人っていうのはとにかく暴力を用いて解決することによって、気分的にスッキリしたいだけなのであろう。

 今、アメリカ人と限定したけど、これはナチスがユダヤ人を敵と見なしたこととか。アルカイダがアメリカを敵と見なしたこととか、オウム真理教が政府を敵と見なしたことなどと同じ心理構造で。意識を特定の「敵。」に集中させることによる、意識狭窄を促すことによって、自分達の行動の短絡性を正当化するための典型的手法であろう。

 ルワンダの内戦とかもそうだった。

 ある、特定の「敵。」を規定し、決め付け、それを攻撃することによって自分達の行動の正当化をしたいのである。

 つまり、「悪いのは全てあいつらだ。」という、集団内部での共通の観念を振り回すことによって、自分達を正当化できるものであると、勝手に妄想しているのである。

 シーシェパードが行っている行動が自然保護とは思えない。変な格好の木造船を乗り回すというのは、要するに見た目にこだわっているのであり。暴走族のバイク装飾と同じ心理によるものであろう。目立つことが最大の目的であって、鯨を保護することはどうでも良いのであろう。


 私自身は捕鯨には反対でも賛成でもない。生物としてのヒトである以上、何らかの肉を採る必要性はあるわけで、それが牛でも馬でも鯨でも変わりがあるという根拠は特にない。

 ただ、鯨類を人の手で殺すことに対しての気分的な嫌悪感はわからないでもない。でもそれを言うなら犬とか猫でも同じことであり。これは単なる気分的な「慣れ。」の問題でしかないのではないか。

 私は「ニューコンミート」という馬肉主体の安物のコンビーフが好きなのだが、馬を見ながら食うのはやはり嫌である。豚を見ながらソーセージを食うのも同じであろう。鶏の頭を切り落とす場面を見ながらから揚げも食べられないだろう。少なくとも「美味しく」は戴けない。

 ストランディングを見ると、日本人の多くは何とかして助けようと試みる人は多い。まあ、中にはさばいて持ち帰る人もいるらしいが、大抵の場合は重機まで持ち出して助けようとするだろう。鯨類を見て「旨そう」と感じ、食料であるとは認識していない場合が多い。それはやはり豚でも牛でも馬でも、鶏でも同じなのではないか。

 江戸時代、日本では牛は食料ではなかったという。明治時代になってから牛を食うようになると、「何となく祟られるのではないか。」と嫌がったのだという。江戸時代における牛の存在というのは、農耕のために飼っていただけで、食肉としては扱っていなかったらしい。

 結局、何の肉を食うのかは好き嫌いの問題であって、理論的根拠というものがあるわけではない。


 とにかく、他の国にまで「侵攻」してきて暴力的解決を行うというのは手段が間違っている。中国で同じようなことをしたら、どうなるであろう。それを考えると、アメリカ人は日本のことをバカにしているから、こうした行動を採るのであろう。

 共存を妨げる原因というのは、自分達の集団だけが常に正しいという勝手な思い込みである。暴力的解決を行うための最も短絡的な思考とは、「悪いのは、あいつらだ。」という一面的正義である。水戸黄門とか暴れん坊将軍とか、アイアンマンとか、挙げるとキリがないのでやめておくが、とにかく問答無用で相手を懲らしめることだけに意識狭窄をすることによって、自分達の手段選択を短絡化させるのである。

 短絡的なのは大脳辺縁系が楽になる。大脳辺縁系というのは、その場限りの機械手続き的条件反射行動しか促すようにしかできていないからである。

 機械手続き的条件反射行動しかできなければ、ヒトという種の習性、傾向性として、戦争やテロなどの暴力的解決法を克服することはできない。


 シーシェパードの一人は、「なぜ、そんなことをするのか。」という問いに対して。「楽しいからだ。」と答えていた。少なくともコイツには問題意識など存在していないのは確かである。

 シェパードというのはイヌの種類である。イヌの行動というのは極めて条件反射的であり、その行動は成育環境への依存度が極めて高い。日本という環境において、いわば「シツケを間違えた小型犬が暴れる。」のと、さして変わらないのだろう。

 アルカイダがテロを正当化する時の根拠として、パレスチナの問題を挙げるのだが。テロを行うことによってパレスチナの問題に対する具体的な解決への影響はほとんど全くない。恐怖、力、人工的権威によって相手を押さえ付ける手段というのを、ヒトは短絡的に選択しがちである。力を振り回している方からすれば、その方が簡単である。物理的に簡単なのではなくて、手段選択自体が簡単なだけであり。むしろ物理的にはややこしくなっている場合が多い。

 暴力の応酬というのは感情が作り出すシーケンシャルな行動「結果」である。これをとめるためには、短絡的なシーケンスというものを客観視して、短絡的ではない行動選択を行わなくてはならない。

 感情論に基づく解決策というのは、実際には非常に効率が悪い。そこに論理的な解決法の選択がなされないからである。



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