知識の「量」をひけらかして「俺は頭が良いんだ」と称して 他人が知らないことをバカにするバカは多い
また 知識の「量」だけひけらかして池上彰のように識者を装うことも簡単である
自分の頭でちょっと考えれば真実か間違いや嘘なのかが見分けられるにも関わらず 考えない奴こそが本当のバカなのである
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「叡智界」には 論理客観的根拠がなにも示されていないにも関わらず それを指摘できなくても大学の「修士」はとれるものである
現状の哲学界というのは そういうデクノボウの集まりに過ぎないため 池上彰的に知識の「量」だけで偉そうにマウントをかけてくるバカしかいないのが原因である
「教わっていないことを知らない」だけなら それはバカではない それは「まだ知っていなかった」というだけのことであり 知るきっかけがなかったに過ぎず 知能のポテンシャルとは無関係である
だが 教わった内容が間違っているかどうか 論理客観的根拠を伴った論証であるのか それとも合理的根拠を伴わぬただの決め付けに過ぎないのかを判別できないからバカなのである
話を聞いてなを「わからない」なら それはそれで間違った判断ではないのだが 本当は何も論理的には理解していないのに気分的に安心満足したことで「わかったような感覚(錯覚)」に陥って嘘やデマを信じ込んでしまえばバカである
主観的感覚としての「印象」には 錯覚が伴う可能性が否定できない だから論理客観的根拠に基づいて真実かどうかを検証判断しなければならないのである
しかし ヒトという種の生物の主観的「印象」というものは 他の脳を持つ動物の情動と同じものであり 主観的「印象」を作り出す情動自体は大脳辺縁系は野獣のそれとほとんど一緒である
遺伝的進化の過程を鑑みれば その過程のほとんどはヒト以前の「祖先」の生息環境における収斂進化過程を経ているのであって 自然界における過酷な生存競争 他の種の生物を喰い 同種同士でも環境資源の奪い合いに勝ち残った生物の末裔が「ヒト」なのである
現代においてもミャンマー政府軍やアフガニスタンのタリバンのような野蛮行為が起きるのは 祖先から受け継いだ先天的本能習性によって促されている主観的情動や印象や気分を 意識の本質だと錯覚しているのが原因である
ヒトは誰一人として自らの意思で産まれてきた者はいない
自分の遺伝子は自分では選択不可能であり
自分が生まれ育ってきた社会や時代や親などの生育環境も選ぶことは出来ず その生育環境から刷り込み「学習」的に刷り込まれた価値観「常識」もまた選択不可能である
シエラレオネのゲリラの育てられれば残虐な行為が「常識」になるののも 太平洋戦争終結前の日本の「常識」に基づいた暴走も 本当はそうした「常識」には論理客観的根拠が何もなかったことにほとんど誰も気付かなかったという頭の悪さが根本原因である
ヒトという種の生物は 先天的にはバカである
だが 先天的(ハードウェア的)にバカであることを客観的に認識し 後天的(ソフトウェア的)にパッチを当てることは可能である
それが可能であることが ヒトとヒト以外との生物との最も大きな違いであり 優位性でもある
遺伝的進化というものは目的がない
だから進化の果てに絶滅しても何の不思議もない偶発的自然現象であって これを「賢い」と形容するのは遺伝的進化に対する「典型的な間違い」である
ヒトの個体 一人のヒトとして なぜ生き続ける必要性があるのかと言えば 生きていて楽しいからである
だから 楽しくないなら生きていても意味などない
それなら 全てを失ってなを生き続けている松永莉子パパが生き続ける意味はないかと言えば 逆に言えば「失った幸福な時間の記憶」があるからこその地獄でもある
松永利己パパにとっての「生き続ける意味」とは まだ残されている他の人達の「幸福な時間」を守ることであり そのささやかな「望み」だけである
地獄を感じるというのは 地獄ではない幸福状態を知っているからこそ地獄だと認識できるのであり 幸福状態を知らなければ地獄も感じることはない
「自分の方が不幸だ」などという他人との比較を基準にしているから「生きている意味がわからない」などと称して他人に方向性のない非合理な暴力によって報復感情を満たそうとするようになるのである
自分が生きている意味というのは自分で見つけるものであり 他人に生きている意味を求めたがるのは 他人からの評価でしか幸福を感じたことがないためである
他人から誉められることで何かを覚えたりできるようになるだけであれば 他人からそそのかされる事しかできなくなり 主体性を失うことで「生きている意味がわからない」不満を「他人の所為」にするため 方向性のない非合理な無差別殺人は行われるのである
「本当の目的」を見極められれば 松永莉子パパのように地獄であっても「生き続ける意味」も見出すことはできるのである
莉子パパが求めているのは「再発防止」である
「上級国民」の家にラクガキをしたり無言電話や抗議電話といった私刑(嫌がらせ)で満足しようとするのは再発防止にとって何の合理性もない「実証不能の観念の振り回し」にしかならない
「上級国民」が運転技能が衰えているにも関わらず 自分の運転能力を過信して運転を続けたことや 周囲の家族が忖度して止めなかったことが大きな要因である
このどちらも主観的気分によって客観性を後回しにしたためである
客観的に判断していれば 運転能力が低下していることを自覚することも 本人が自覚しなくても周囲の家族が止めることもできたはずである
原発事故の要因となった「組織の利益」として 上司からの「津波の影響を考慮に入れたら日本のどこにも原発は作れない」という非合理な観念を受け入れてしまったのも 上司の顔色を窺った「忖度」によるものである
怖い相手 ヒステリックに非合理な拒絶してくるパワハラ野郎に対して合理的で正当な批判をするのは気分(主観)的に嫌なものである
玉川徹がエスカレーターで「どかない」と言ったことに対して「冷静ではない」などと称して非合理で理不尽な行動を傍観放置したがるのも 「どけどけ」とばかりにエスカレーターで追い抜いてくる威圧的なバカに卑屈に阿(おもね)ることを正当化するためである
「怖い」という主観的感情を優先することで 衆愚は論理客観的に合理性のある行動選択を自律的にすることを放棄するようになるのである
ヒトという種の生物は 先天的行動バイアスとしては社会的責任を優先するようには出来ておらず あくまで主観的に安心満足ができる行動に流されがちなものなのである
そういう人間としての欠陥を ヒトは先天的に持っているものなのである
にも関わらず「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという論理的根拠のない山極寿一のデマをマスコミ衆愚は満足して鵜呑みにするのである
人間性というものはヒトでありさえすれば発揮できるわけではなく 後天的に自分から「何が本当の人間性なのか」を区別できてこそ発揮すること「も」可能となるのである
Ende;