書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

悪質。

2012年07月23日 16時25分20秒 | 意識論関連

○悪質。

 動物学という分野は、動物と人間との違いを研究するのだと言う。しかし、実際にはヒトとヒト以外の動物との差異を枚挙しているだけであり、これは理論的には「ヒトの特異性」の論証にしかならず、何ら「人間としての特異性」や「ヒトの人間性」の論証にはなっていない。

 チンパンジーがやらずにヒトだけが行う行為を抽出しても、それはヒトの特異性の抽出でしかなく。それを短絡的に人間性と言い張るのは論理検証性が欠落している。

 ヒトの無意識的な「自然な行動」の全てに人間性が伴うわけではなく、アイヒマン実験において権威に服従して他人に危害を加えてしまうことも、またヒトの「自然な行動」の結果なのである。そもそも「自然な行動」とは無意識な本能感情に則した行動を指すものであり、単なる「無意識行動」のことに過ぎない。



 脳の扁桃核というものは、気分的安心満足か恐怖嫌悪かを本能的に作り出すものである。ヒトの扁桃核は相手の表情に敏感に反応し、たとえ視覚認知が出来なくとも表情だけは読み取ることが可能である場合もあるという。(「ブラインドサイト」というらしい。)

 ヒトが本能的に相手の表情に敏感であるという「結果」は必ずしも自律的な社会的責任判断を促す訳ではなく、むしろ目先の集団組織に迎合することで社会的責任判断を喪失する原因でもある。

 単に気分的に「良い人間関係」を構築するだけなら振り込め詐欺師集団でもシエラレオネの少年ゲリラでもナチスでもオウム教団などのカルト集団内部でも可能である。目先の集団内部で「良い人間関係」を構築するのはヒトの本能的社会形成習性の「結果」であって、「結果」の全てに後から意味をこじつけ「本能=人間性」という観念を正当化することは科学的論証ではなく。あくまで文系大衆観念への迎合であって、理論的な人間性の論証には全くならない。

 集団内部だけで利益を分配し、他人の機嫌を窺い、封建的な集団を形成し、統率的協調行動を採りさえすれば人間性の論証になるわけではない。

 組織の利益を優先し、社会全体の安全性を無視した東電幹部や社員達であっても、これらのヒト固有の動物本能的条件反射行動を採ることは可能であり。むしろこうしたヒト固有の動物本能的条件反射/無意識行動こそが組織内部の利益だけに意識を狭窄化させる原因なのである。

 ヒトは無意識的な本能行動としては、目先の集団との迎合によって生存価に適してきた。その結果として目先の集団に迎合し自律的な判断を簡単に放棄する本能習性を獲得「してしまって。」いるのである。

 オウム教団やナチズムなどのカルト集団が必ずしも淘汰の対象になるとは限らず、むしろ盲目的カルト集団の方が強大な力を発揮し、生存価に適した可能性は否定出来ない。実際古代の歴史書には公平性のない封建的社会や、統率集団暴力を用いた侵略による支配の話ばかりが遺され。また、暴力支配の首謀者を英雄扱いするのが文系大衆観念である。

 暴力を用いた統率や、盲目的服従という忠誠忠実性を美徳とした観念による偏った正義、力の強大さによる結果的生存を事後正当化することによって得られる短絡的満足、暴力や権威に服従することによって得られる本能的安心、仲間同士での観念の共有による気分的な「絆」感覚。これらの本能無意識によるヒトの「自然な行動」の結果が常に人間としての社会的責任判断が伴うわけではなく、むしろ多くの場合短絡的で合理性のない感情的最終解決に導くものである。

 ヒトはカルト集団に迎合した個体に淘汰された結果的に、自律的判断を簡単に放棄する本能的仕組みが組み込まれているために、ヒトの多くは簡単にアイヒマン実験や監獄実験での暴走を呈すると考えられる。

 ヒトが持つ本能行動の結果的暴走性を無視すれば、あらゆるヒトの暴走性は意識から外され、無視され、「なかったこと。」として処理され、放置されることになる。文系大衆観念上、それこそが気分的満足を提供し、思考停止を促し論理検証性を放棄させるのである。

 文系大衆観念というものは、本能に基づく気分的に安心満足を得るだけの非合理不条理な観念であり。これこそが論理的思考による検証性への拒絶反応を作り出すのである。

 どのみち、本能習性による行動の結果は、常に無意識な「結果」以上の何も生み出さず、意識的に選択した目的とは無関係であり、意識的論理検証を伴う人間性の論証にはならない。

 ヒトの本能的で無意識な行動結果から、人間性に適した行動習性だけを抽出枚挙しても、短絡的に「ヒト=人間」であることの論理的証明にはならない。

 文系観念的には、ヒトの無意識行動の結果に対して事後正当化のこじつけをしておけば、あたかも「ヒトとは常に人間性を発揮出来るものである。」と勝手に思い込むことは簡単である。文系観念上ではそれこそが安心であり思考停止の満足を与える麻薬/本能的快楽であるからだ。

 本能的無意識行動がヒトの危険性を含み、「ヒト=人間」という観念への反証は、文系観念よる本能的快楽をもたらさないため、観念的拒絶反応によって無視し、意識から外し、安心満足によって論理検証を放棄させるために、従来の生物学上の観念が無為に放置されるのである。

 どんなにヒトという種の生物の本能的「結果」を抽出枚挙しても、実際に発生する差別排除や虐殺虐待、自律的な社会的責任を負わない無責任さの反証には全くならないばかりか、ヒトが引き起こすあらゆる問題が本能に由来することを撹乱するものであり、これは科学者として無責任であり悪質である。

 イジメを行う子供が本能的なヒトの行動習性を持っていないわけではなく。むしろ本能的な社会形成習性によって封建的統率による協調性の結果としてイジメを行っているのである。

 イジメなどの非人間的行動結果を「なかったこと」にしておけば、「ヒト=人間」という観念の反証を無視しておくことが出来るため。文系観念者は意図的に都合の良い「結果」だけを抽出しているのである。

 本能的な無意識行動の結果を、何が何でも「ヒト=人間」の論証であることにしていれば、ヒトの残虐性は無視され、あらゆるヒトが引き起こす無意識由来の問題行動は「なかったこと。」に黙殺される。

 これは言うなれば、生物学はヒトのイジメなどの残虐性を無視し、問題解決を撹乱しているということである。これを悪質と言わずに何と形容すべきであろう。

 生物学者達は自分達の論理検証性の欠落を認めないことによって、組織の利益を優先し、現状体制を維持することしか考えていない。その結果イジメなどの残虐性の原因構造が解析されず、再発防止策が確立出来なくても構わないのである。

 どうせ大衆はバカなので、科学的論証など理解出来ないとタカを括っているのであろう。

 それを悪質であると認識できない大衆やマスコミの意識にも問題がある。


 生物学における生存価とは、あくまで結果を事後正当化するためのこじつけであって、生存してさえいれば人間性の論証になるという短絡的な帰結が導き出せるわけではない。

 シエラレオネの少年ゲリラ社会においては、残虐性の競争こそが生存価であり。これは学校における子供のイジメと同じ構造である。

 イジメによって命を落とした個体が生存価に適さなかったとするのであれば、イジメは生物学上正当化されると言うことである。だからこそ「イジメられる方にも問題がある。」などという大衆観念がいつまでもなくならない。

 それならナチズムによるユダヤ人虐殺の結果、命を落としたユダヤ人を優生学上の劣性個体と見なすのと同じことである。

 本能気分による「自然な行動」の結果の全てに事後正当化のこじつけをしてしまえば、何が起きても全ては生物学の神の思し召しであり、これは完全にカルト宗教である。

 現在の生物学は優生学というオカルトに明確な反論を持たない。それは現在の生物学自体がオカルトだからである。

 大衆観念的な「ヒト=人間」という短絡的解釈に寄り添った、ご都合主義による一面的立証に基づいたこじつけというものは、大衆のご機嫌を損ねるような都合の悪い現象を無視し、客観性のない極めて「ヒト」にとって都合の良い言い逃れ/取り繕いでしかない。

 「ヒト=人間」という短絡的決め付けをしておけば、気分的には安心であろう。しかし、それこそがヒトの残虐性や暴力性、組織集団における危険性の放置を作り出すのである。

 大衆観念的には安心と安全はセットにしておきたいのであろうが、気分的な安心こそが合理的安全性を喪失させる本能習性的原因であり、思考停止による無為無策に陥れる無意識への誘惑である。

 安全性の確立というのは、徹頭徹尾合理的根拠によって導き出されるものであり、気分的な安心とは無関係である。

 気分的安心と理論的安全性の区別、分別がつかないからこそ、あらゆるヒトの危険性が放置されてしまうのである。

 生物学はシエラレオネの少年ゲリラの行動を、ヒトの本能的行動習性としては取り扱わない。それは「ヒト=人間」という現在の生物学の観念や文系大衆観念にとって都合が悪いからである。このように偏った解釈に基づいた論証を繰り返している限り、ヒトの残虐性は「なかったこと。」にされ、一切原因究明も対策も行われることはない。

 人文諸科学において歴史上の虐殺支配は英雄である。こうした身勝手な観念に基づいたものを「科学」として取り扱うこと自体がとんでもない大間違いであり、大嘘である。

 結果的に生存していたことを無批判に事後正当化してしまえば、生きていさえすれば何をしても構わないということである。こうした生物学上の観念こそが「人間性とは何か。」への論理検証性を撹乱し、「ヒト=人間」という短絡的で安易な結論へのこじつけを放置するのである。

 問題意識というものの本質は、気分的に恐怖を感じるかどうかではなく。理論的合理性が欠如している話を無批判に放置しない「考え」によって促されるものである。

 ヒトの多くは感情気分による安心か恐怖かでしか行動が左右されない傾向がある。気分的に安心でさえあれば論理的に不条理であっても放置する習性があるのだ。


 嫌な話を繰り返しておこう。

 ヒトは誰も自分自身の意識的選択によって産まれて来たわけではない。自分の遺伝的性質や本能といったものも自分自身で意識的に選択したものではない。

 遺伝的性質を自己自身で選択していない以上、自己の脳に組み込まれた本能は自分自身の選択は介在していない。

 自分で選択していない本能ということは、本能というものは本質的には自己自身の意思や意識とは無関係であり、単なる結果でしかない。

 自分で造った脳でない以上、その脳から出てくるあらゆる本能習性は自己自身の選択が介在していないのである。

 本質的な自己自身の意思、意識的選択とは。目先の固定観念に基づいた気分感情に流されることなく合理性を徹底的に追究した結果に導き出される「目的。」である。

 しかし、ヒトの多くは合理的「目的。」というものを、目先の利己的本能や固定観念によって思考停止された短絡的な動機に基づいた「目的。」だと錯覚し、カントの「純粋理性批判」を鵜呑みにして合理性追究への観念的拒絶反応によって、目先の気分的安心満足こそが人間性を伴った「心。」であると勝手に解釈する。

 自分の気分にとって嫌な話を無視し、自分の愚かさを「なかったこと」にして満足し、権威に責任を丸投げして安心することによって、自己自身の自発的「考え」や、自律的な社会的責任判断を放棄するのである。

 「自分が愚かだと思ったら、やってられないじゃありませんか。」などというのは、本能習性が促す気分の多数共有に過ぎないのである。

 本能習性が促す気分をどんなに沢山抽出枚挙しても、それは結果の枚挙以上の何物でもなく。何ら意識的に選択する「目的。」の論証には全くならない。

 ヒトの多くは気分的な「思い。」と、論理的「考え」の明確な区別をしていない。この明確な区別を行うのは論理検証という「考え」であって、気分的な「思い。」がどんなに強力であっても、それは「考え」にはならない。

 ヒトの多くは感情的に強く「思った。」ことや「悩んだ。」ことを、あたかも深く「考え」たものであると錯覚する。気分感情をどんなに必死に働かせても、それは論理的な「考え」ではないことを、多くのヒトは認識できないのである。

 こうした錯覚こそが、多くのヒトを凡人たらしめているヒトの習性的構造であり。特定の権威者を天才扱いすることによって自己の凡庸さを正当化出来ると、愚かさの免罪符にすりかえられると満足し、勘違いしているのである。

 ヒトの多くは「気分的快楽=頭が良くなった。」と錯覚する。そのため大衆観念に寄り添ったオカルトに簡単に引っ掛かり、逆に気分の悪い嫌な話に観念的拒絶反応を示すのである。言うなれば、ヒトの脳というのはバカになることが快楽になるような仕組みが組み込まれているのである。

 未だに脳科学は脳血流増加こそが絶対的効果であると言い張るが、脳トレ類における根拠とされた脳血流増加には何ら具体的な効果の論証など存在しておらず、単なる脳内の現象論を短絡的に効果であると決め付けているだけの実証不能の観念に過ぎない。

 ヒトというのは本能習性的に、特定の個人や集団への盲目的信頼を持つことが気分的安心な心理構造を持っている。そのため疑うことを観念的に拒絶する性質があり、自律的論理検証に基づく批判精神を簡単に喪失する。

 気分的安心ばかりを求めていれば、必然的に本能習性に従った「結果」にしか至ることはなく、自律的自発的に選択すべき「目的」を簡単に喪失する。

 目的がなければ結果しか導き出されないのは必然である。選択の余地以前に、自己自身の意識的選択自体が介在していないのであるから、結果以外には何も導き出されることはない。

 本能的に気分的安心ばかりを追究していれば、本能習性の「結果」以外何も出てこないのは当たり前なのである。

 イジメが横行している教室において、イジメられる被害者にならない最も短絡的選択は加害者に回ることである。目先の多数集団に迎合し、共通の排除対象を共有することに専念すれば排除差別の強度を競争することに陥る。

 統合的な合理性を多少なりとも考えていれば、イジメが世間に露見すればイジメを行っている方が排除差別の対象にされることは誰もがわかっているはずである。

 シエラレオネの少年ゲリラの残虐性も、集団内部で残虐性を競争することで集団内部での評価を得ようとした結果であり。歯止めの効かない無意識による暴走の結末である。

 競争とは原理であり構造である。シーケンシャルな機械的条件反射であり、無意識行動である。予め組み込まれた自己選択を一切介さない本能習性の結果に無為に流された結果が暴走を引き起こすのは当たり前である。



 競争原理を利用して盲目的に学力競争に意識を整理狭窄化させるような教育をしているから誰も自律的に暴走を止める意思が働かなくなるのである。

 子供自身の本質的な自発性を重んじる教育をせず、ただ均一な学力レベルの確保ばかり追究していれば、自律的に暴走を止める意思が働かなくなるのは当たり前である。それは教育者による短絡的ノルマ達成に過ぎず、文字通りの機械的「お役所仕事」でしかない。

 機械手続き的制度に漫然と迎合しているだけなら問題が解決しないのは当たり前である。ヒトが引き起こす問題行動というものは極めて多様性があり、機械手続き的な社会制度では全ての問題に対応することは原理的に不可能なのである。機械的手続きに依存し、個人の自律的行動選択を全く行わなければ、そこには「人間」が存在しないのと同じである。

 しかし、ヒトが引き起こす問題行動であれば、ヒトが予測し対処することは不可能ではない。所詮はヒトが引き起こしている問題であって人災であり、天災地災ではないからだ。

 あらゆるヒトの引き起こす問題を解決するのは、ヒトの本能習性の結果や既存の制度法律ではなく。自律的な意思を持った人間による合理性のある対処対応である。

 バカなガキと話を丸めて表面的に社会更生させることは簡単である。しかしそれは単なるご機嫌取りに過ぎず、何ら合理性のある対処対応ではない。バカガキが「マトモに向き合ってくれる大人がいなかった。」などと言っている時点で、自分の行動責任を他人になすりつけている根本的な観念は全く改善していないのである。

 いちいち「マトモに向き合う大人。」という他人を必要とせず、自律的に自分の行動を抑制選択できるようにならなければ、本質的な人間性を獲得しているとは言えないのである。

 制度、体制、法律に依存して自律的には何も改善しないことも、結局はバカガキと同じであり、無責任なのである。

 「法律や制度が不十分だったから原発が暴走した。」などという戯言は、自律のないバカの言い逃れ/取り繕いに過ぎない。完全に当人達の自律的な社会的責任判断を無視し、社会制度に依存することを正当化しようとしているだけではないか。

 こんなバカみたいな結論は要らない。


Ende;
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手抜き2。

2012年07月23日 16時24分34秒 | 意識論関連

○手抜き。

 排気量が250㏄以下だと車検がないから取り締まらず違法改造車を放置するのは警察の手抜き。

 警察というのは社会安全性とか公平性よりも、取り締まり点数しか眼中にないので、点数にならない違法改造車の取り締まりはしないのである。

 これでは「エサ」に対する反射的行動しかしない「公権の犬」と言われても仕方ない。

 どう見ても違法改造の車両であるなら容赦なく取り締まるべきであるが、その自律は警察にはない。


 刑罰や警告による抑圧では、根本的な個人の自律判断能力を持たせることにはならないが、自律的に社会的責任判断をしないバカの場合はイヌと同じで、力ずくで抑圧しないといくらでも頭に乗ってしまう。

 バカというのは気分的に安心なら、いくらでも頭に乗るからバカなのである。

 バカの判断基準は「恐くない」とか「カッコイイ」だけであり、これは明らかに子供じみた価値観に基づいた判断基準である。

 とりあえずの暫定的措置として力による恐怖心を用いた観念的抑圧によって、法令遵守を強制するのは決して根本的問題の解決にはならないが、バカを制御するにはバカげた手段も暫定的には必要ではある。

 まあ、要するにうるさいバカ車には「うるさい、迷惑だろ。」と文句を言え。

 「法律がないから。」だとか言い出すなら、正に法手続きや社会制度というものの無効性の証明に他ならないではないか。

 既存の社会制度や法手続きさえ実行しておけば、全ての問題が解決するものであると安心満足し勘違いしているから、誰も言われたこと以外に何ら問題意識が働かないのである。

 問題意識のない者というのは、与えられた仕事以外は「エサ」評価報酬に結びつかないので、可能な限り手抜きをしようとする。手抜きを「得」だと思っているのである。

 利己的な「得」という目先の「効用」ばかり個人が追究しているから、社会全体の公的利益が蔑ろにされることになるのである。


 そもそも他人の迷惑を考えたがらない者というのは、他人の迷惑を考えない者への迎合であり。カッコイイだとか勝手に思い込んでいるからである。

 迷惑な者に対して自分が文句を言う勇気がないために、世の中の全てのヒトは迷惑な者に対して誰も文句を言えないものであると勝手に決め付け、迷惑な者こそが自由だと勘違いしているのである。

 それは極めて子供じみた観念である。

 暴走族を検挙すると以外と従順だったりするが、これを警察は「素直」と勘違いする。暴走族というのはそもそも服従相手に服従することで本能的安心が欲しいだけであり、警察に検挙されて急に警察官に従順になるのは服従対象がその場限りに転移しているに過ぎない。

 その場限りに従順さを発揮することを「素直」だと勘違いするのは文系大衆観念特有の錯覚である。

 行き当たり場当たりに従順になることは、極めてその場限りの無責任な行動であり。これは単なる「卑屈」さに過ぎない。

 自律的に社会的責任判断を伴ってこそ、「素直」と形容することも可能だが、その場限りに迎合するのはシツケの悪いペットの行動と全く同じものである。

 生物本能的社会形成習性を持つイヌにとって、服従対象は麻薬と同じである。

 カルト宗教一本に従順な信者は刷り込み学習が激しい鳥類の脳と同じであり、その場限りにコロコロと服従対象を転移させるのはイヌの行動習性と同じものである。

 自律的に社会的責任判断を常におこなう「考え」なくして「ヒト」ではあっても「人間」ではない。

 現状の日本の教育システムでは、子供に自発的好奇心による思考や検証性といったものを持たせず、ただ恐怖や力を用いて強迫観念的に学力競争しか植え付けていない。これでは自発的な「考え」を放棄するようになるのも必然というものである。

 教育の目的とは、社会にとって有用な、自発的に問題解決が出来る人材を育てることであって、「言われたこと以外何も出来ないバカ。」を大量生産することではない。

 従来の教育システム制度の中で育ってきたバカが教育機関を構成しているから、何らイジメなどの問題を自発的には解決することが全く出来ないのである。

 子供がバカなのは大人の責任であるが、大人でありながら従来の制度システムの問題を解決できないというのは怠惰怠慢でしかなかろう。

 バカというのは連鎖するものである。

 そもそも連鎖しか出来ない状態そのものが「脳がバカになっている。」状態と言うのである。



Ende;
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組織的手抜き。

2012年07月23日 16時23分15秒 | 意識論関連

○集団組織的手抜き。

 簡単にぶちギレるような動物的でヒステリックな者に対して、ヒトの多くは気分的に面倒臭いために観念して服従する習性がある。

 ヒトという種の生物というのは、服従する相手を必ずしも論理的に検証して選択する訳ではなく、目先の感情気分に基づき、目先の多数集団に迎合してしまう習性がある。

 ヒトの多くは意識的目的として、合理的判断に基づく目的のための統率的協調行動のための服従ではなく。単なる目先の感情気分を満たすだけの結果的統率協調行動に流される傾向習性がある。

 イジメを扇動するような相手に対し、多くのヒトは迎合し、結果的に組織的イジメを統率的協調行動「してしまう。」のである。当然「してしまう。」というのは個人の自律的意思は介在しておらず無意識の「結果」でしかない。

 こうした無意識こそがあらゆる集団組織腐敗の原因であり、個人の自律的判断を放棄させるのである。

 イジメによる自殺や傷害事件という「結果」や、原発の暴走という「結果」に至るまで集団組織の腐敗性を放置してしまうのは、集団組織を構成する一人一人の個人の意識的自律判断が全く働いておらず、無意識的に本能によって促される動物的服従迎合性に流された結果として、暴走破綻に至って「しまう。」のである。

 制度や法律といったシステムというものは、あくまで機械的条件反射行動を促すだけであって、個人の自律的な社会的責任判断を促すようなものではない。

 ヒトには自律的な社会的責任判断可能性があり、これを阻害するのは本能的な世間への迎合服従性による無意識な判断撹乱、思考停止が働くからである。

 目先の多数世間に迎合したり、力を持った相手の命令に盲目的に服従してしまえば、個人が自律的に社会的責任判断を行わなくてはなるのは必然的結果である。

 通り魔などの単独犯罪においても、その動機には世間への復讐という現状世間に対する無為無策な迎合性が根源にあり、当然行動自体はには何の合理性もなく、単なる気分的満足のための行動に過ぎない。

 現状世間における価値観を鵜呑みにしているからこそ、自己自身の本質的満足が一切出来ず、その不満を全て自分以外になすりつける形で通り魔は実行されるのである。

 「他人に認めてもらいたい。」という、他者からの評価報酬を目的にしていることこそが、本質的自発性の欠如、自己自身の価値観を持たない証明である。どんなに外見上「自発的」に見えるとしても、現状世間からの評価を求めることは本質的な自発性ではない。 

 当然自発性がなければ自律判断も行われることはない。これは定理である。

 感情的でヒステリック暴力的な者に対する無為で盲目的服従を多数で共有迎合していれば、暴力こそが世間的価値観として刷り込み学習されてしまうことになる。バスジャックを「カッコイイ」などと思い込むのは、そこに自律的論理検証性が全く働いていないからこその結果である。

 「合理性追究」という言葉への観念的拒絶反応によって、論理検証性の重要性を無視するというのは、意識狭窄であり精神的怠慢である。論理的反論が全くないにも関わらず観念的気分的拒絶反応に流されているのも、そこに本質的な自己自身による自律的論理検証性が働いていないからである。

 論理的に何が正しいのかを自律的に判断できなければ、何も「考え」が成立しないのは当たり前であり、自律的に論理検証することこそが「考え」なのである。

 ところがヒトの多くは自律的論理検証を放棄し、多数他人の意見に論理的根拠が欠落しているとしても看過し、問題の根源がどこにあるのかを自発的には認識せず、気分的に安心して諸問題を放置する傾向習性がある。

 特定個人を天才と称して特別扱いしたがるのも、多数の凡庸さを正当化するための免罪符にすりかえようとする言い逃れ/取り繕いに過ぎない。バカであることを多数で共有すればバカであることが正当化されるわけではない。



 制度や法律といったものは、いわば抗生物質のような対処療法であり。犯罪や危険性放置というものはウイルスのように次々と進化変化する多様性を持っているために、最終的には効力を失うものである。

 脱法麻薬類などはその典型である。

 刃物を何に用いるか、その選択こそが通り魔と調理の違いであり、法律手続きによる機械的抑圧によって通り魔を抑制することは原理的に不可能なのである。

 機械手続き的な抑圧という、実質的有効性を持たない手段だけしか行わないというのは、単なる手抜き怠慢である。

 ヒトの多くは気分的に面倒臭いことを観念的に拒絶し、社会の危険性を放置しがちである。子供のイジメを些細であると程度問題やバランス問題という観念的解釈にすりかえることによって、結果的にあらゆるヒトの問題は放置されることになり。小さな事象を放置した結果として大きな事象が発生するまで放置することになるのである。

 原発を暴走にまで放置した東電幹部や社員達の無能さを作り出したのは、ことなかれ主義的で自律的には何も「考え」ることのない者を大量生産した教育機関にも問題の一端は免れない。

 ハインリッヒの法則というものを、重大事象に発展する前の予防的対策の必要性として認識していないから、あらゆる危険性は放置されるのである。

 どんなに学力が高くても、人間として出来損ないでは意味がない。優先すべきは自律的思考であって、「教えたことを鵜呑みにする。」ことではない。どんなに沢山の知識を詰め込んでも、自律的思考がなければ教えたこと以上の何も気付くことは出来ず、何ら本質的な知能は発揮されることはないのである。間違いを教えても自律的に気付くことができない高学力なエリートが毒ガステロを実行したことを忘れるべきではない。

 何が論理根拠のない観念的解釈であるか、何が合理的根拠のある理論的理解であるか。その区別は論理検証による「考え」でしか導き出すことは出来ない。これは決して観念的なバランス問題や程度問題によって区別されるべきものではない。



 個人が自律的に論理検証をしないから、あらゆる諸問題や危険性が放置されるのである。

 「想定外」などというのは、はじめから想定すること自体を誰も行わないという自発性の欠落の結果であり。何ら言い訳にはならない。

 危険性というものを程度問題にすりかえ放置した怠慢の言い逃れとして「想定外」という言葉が用いられることがあまりに多すぎる。想定可能なものを意識から外し無視しただけのことを「想定外」と言い逃れしているに過ぎない。

 教育機関が学力を優先するのは、教育機関の組織の利益を優先して社会的責任を放棄しているからである。教育機関における本質的社会的役割とは、自律的に社会的責任判断を行える人材を社会に輩出することであって、単なる学力バカを大量生産することなどではない。

 養老孟司のようなキチガイを名誉教授扱いしている東大に合格しても、キチガイをキチガイと認識出来ないバカしか生産されることはない。バカというのはキチガイが誘導する実証不能の観念に迎合し満足する者のことを指すのである。それなら地下鉄に毒ガスを撒いて「人類の救済。」だと勘違いするのも必然である。




 他人の迷惑を気遣うのと、多数に服従迎合することの違いは、そこに自発的自律的判断が伴うかどうかである。本質的な自発的「考え」がなければ、それが区別出来ないのは当然である。




Ende;
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責任。

2012年07月23日 16時22分00秒 | 意識論関連

○責任。

 暴力を用いた報復を正義として正当化してしまうと、暴力性自体を正当化してしまうことになる。

 権力による暴力を用いた報復を正当であるとしていれば、力に依存した集団的暴力性に対する不当性の論理的反証も失うことになる。

 暴力を用いた抑圧というものは、恐怖という気分的な強制であり。個人の自律判断を無視した環境依存的他律である。

 環境依存的な他律強制性というものには自律判断を必要としないものであり、個人から自律的社会的責任判断能力を喪失させる大きな要因となっている。

 大人が刑罰/報復という気分的満足を追究しておいて、子供達が自律的に合理性ある社会持続可能性や安全性を追究するようになる訳もなく、あたかも世代間連鎖の如く漫然と合理性のない他律強制性が慣習的に継続保守されてしまうのである。

 力、権力による強制性を多数決的に正当化しているからこそ、イジメのような強制力の行使にも誰も疑問を持たなくなるのである。

 権力による強制性に対して、その合理的正当性の欠落に誰も言及しないからこそ、力による他人への強制性にも誰も疑問を持つことをしなくなるのである。

 刑法による強制的抑圧というものが作り出す恐怖心とは、自律的に社会の持続可能性や安全性を基準にした個人の思考選択を促さず、あくまで気分精神という無意識的抑制しか促さない。

 気分精神による無意識的抑制というものは、あくまで気分的実感を伴わなければ実効性が働かないものであり。仲間集団などの内部で身勝手な気分的安心を共有してしまえば、全く抑止効力を持ち得ない極めて限定的なものである。また、無意識による安心感というものは原理的に自律的思考判断が伴わず、固定観念的に危険行為も迷惑行為も無為無策に放置されてしまう要因ともなっている。


 他人の迷惑を考えることを、「他人からの抑圧に負けた。」ような錯覚することにより、外見上の「勝ち。」を顕示するために、わざと他人に迷惑をかけようとする性質があるが。こうした自律も意識も働いていないバカな者というのは、暴力的に「強い。」相手に対して簡単に観念し、服従迎合してしまう傾向がある。

 暴力的「強さ」というものに対する「格好良さ。」という感情は、本能的な服従迎合性を満足させ、その結果、より暴力的な者に対する統率的な協調行動を発露させる習性傾向がヒトにはあり。これがシエラレオネの少年ゲリラや暴力団などの残虐性を暴走させる原因である。

 無思考なヒトの多くは「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという論理的根拠のない観念に何ら疑問を持たず、無為無策に国家権力に服従することによって気分的に安心満足することを優先しがちである。そのため、国家制度や法律といった機械的システムにヒトの過ちの原因の全てが存在すると勘違いする。

 制度や法律というシステムには、問題点の根源的原因究明や再発防止策を確立するための思考が介在する余地はない。制度法律システムというものは、それに従うことしか決定されておらず、対策自体を確立し、制度法律自体の間違いを訂正するものではないからだ。

 省庁役人に限らず、ヒトというのは一度決定した制度計画といったものを変更することを観念的に拒絶する性質があり。既存のシステムに依存し脱構築可能性の喪失の原因となっているのである。

 観念的拒絶反応による構築性を脱するのは意識であり、既存のシステムに無批判に依存することは無意識である。

 根本的な問題の原因から目を逸らし、枝葉の対処療法的バッチ処理でごまかされるのは論理検証する「考え」が成立していないからである。



 司法に所属したがるような者の多くは、強権力への「格好良さ。」への憧れを動機としている者が多いため、自律的には問題解決能力がなく、ただ無為無策に服従する以外に何も合理性を追究することはない。そもそも司法は立法機関が制定する法律に基づいた判断しか制度的に行うことはなく、司法や法律自体の問題は立法機関によって改善しなければならないものである。

 司法権力にお任せしておいても問題の根本的解決や対策には構造原理的に一切ならないのだが、無思考な大衆の多くは司法が問題の根源的原因究明や再発防止策の確立をしてくれるものであると勘違い錯覚している。

 東電に原発運営をお任せしておいても安全性が保たれなかったように、現在の司法権力に再発防止策の確立をお任せしておいても無駄なのである。日本は制度上議会制民主主義を採用しているため、議院や選挙民が率先して問題の根源について検証し改善策を立てなければならない。

 しかし、ヒトの依頼心というのは権力にお任せしておくことに気分的安心満足を与え、自発的な問題解決能力を奪い無為無策へと陥れるのである。



 他人への迷惑や危険が及ぶ可能性に意識が働かなくなるという意識狭窄性は、自発的に自己自身の行動や思考というものへの論理検証性が欠落しているからである。

 自分がなぜ他人への迷惑行為を行わなくてはならないのか、なぜ危険行為をやめる自律判断をしたがらないのか。そういった自己自身への論理検証に伴う自己批判(気分的に凹むだけの卑屈な自己嫌悪ではなく。)によって自律的に自己の行動選択の間違いを改善する、本質的な自己自律判断こそが本質的な意識なのである。

 「恐くない。」だとか「格好良い。」といった気分感情だけで行動が左右されているのであれば、これは論理検証性を伴った自発的「考え」が介在していない。

 他人に対して異常に迷惑をかけたがるのは、他人からの観念的抑圧でしか自己の行動抑制が出来ないために、抑圧してくれる他者他人を求めているためである。

 他人に迷惑をかけたがる者を力で捩じ伏せると、翌日からうれしそうに挨拶をしてくることが少なくない。これは服従対象への卑屈な観念的迎合であり、自律的な自己判断能力や自己検証性の欠如の結果である。

 外見上更正した暴走族の多くが「マトモに向き合ってくれる大人がいなかった。」などと言い出すのも、結局「マトモに向き合ってくれる大人。」という服従対象「他人」を求めていたからこそ迷惑行為を繰り返していたからである。

 誰もが他人に依存することばかりを求めていれば、これは責任のタライ回しにしかならず、永遠に誰も責任を取らない無責任社会に陥るのは必然である。

 他人に社会的責任判断を求めるのであれば、先ず自分自身の社会的責任判断を自律的に行うことである。それが自己の権益や気分的満足に関わるとしてもである。

 一人一人の民衆が自分の責任を持ち、社会の一員として、社会を構成する本質的な「社会性」を持たなければ、社会のあらゆる問題は解決することはない。

 社会制度や法律というシステムは、既に発生した問題に対する対処療法的バッチ処理でしかなく、これから発生しうる問題や、旧来から放置されてきた危険性への対処には結びつかない。

 社会制度や法律という機械手続き的条件反射は無意識であり、問題の根源的原因究明や対策自体には原理的にならない。警察がどんなに取り締まりを行っても、犯罪や違反といったものの根源的原因は一切究明されず、当然具体的で有効な対策も立てることは出来ないのは、このためである。

 イジメを実行した子供を処罰しても、露見しないイジメの全ての原因究明にも対策にも全くならないし。通り魔の実行犯を死刑にしても、通り魔自体が発生するメカニズム構造の究明にも対策にもならず、通り魔事件の根絶には全く結びつかない。

 社会制度や法律に頼り切って、実質的な原因究明や対策を怠ることは、そこに本質的な「考え」が全く伴わないからである。「考え」ていないのであればバカとしか他に言いようはない。






Ende;
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迷惑さん。

2012年07月21日 13時33分19秒 | 日記
 nene777neさんって方からコメント頂いたんだけど、ググてみたら「迷惑メールしか来ないから返事しないように。」っていう話が載っている。

 ううむ、ややこしい。(゜д゜;)

 相当悪質なんだそうなので、ブログ書いている方は絶対返信しないようご注意。
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司法権力による撹乱。

2012年07月21日 13時18分59秒 | 意識論関連




 出所後の再犯防止策を行うことによって、懲役刑自体の有効性の欠如を無視するのは、司法による体制維持に本質的な問題点を撹乱されている。

 司法改革と称して地方裁判にのみ民間人から裁判員を入れることによって、現状の裁判制度自体の問題点を撹乱されたとすら誰も認識してはいない。

 司法は実質的により有効な犯罪抑止策の確立には興味はなく、適度に犯罪が現状維持されている方が権力拡大になるため、むしろ司法は犯罪抑止にならないように努めているのである。

 裁判員制度や出所後の再犯防止対策といった枝葉の対処的対策を行うだけで、刑法というものの原理的無効性自体には触れさせないようにしているのである。

 犯罪解析委員会のような内閣直属の再犯防止対策を実効されることは、司法権力にとって権益の縮小につながりかねないために、目先の対処療法だけでごまかそうとしていることに誰も気付かない。

 刑罰というものは観念的で気分的な抑止効果しか存在せず、本質的意識がなく自律的に社会的責任判断の意欲を持たない者に対しては論理的には実質的抑止効果が原理的になく。また、合理的な再犯防止効果も存在しない。

 根本的問題点を保守維持しながら、枝葉の改善だけで済まそうとする司法役人達の提言を鵜呑みにすべきではない。

 司法役人達による体制維持体質、目先の取り繕い的対策というのは、カルト教団や東電、北朝鮮のそれと全く同じものであり。こうした組織の利益を優先し、本質的原因追究や実効性ある対策を撹乱しようとすることこそが本能的な社会形成習性による利己的行動選択であり、社会全体の利益を無視している。








 ただ、実際の厳罰化を要求している遺族方は、現在の司法における無免許運転への危険運転致死傷罪適用を要求しているのであって、これはむしろ現在の司法の判断には妥当性すらないと言えるであろう。

 しかし、所詮は厳罰化が危険行為に対する実質的効果を持った抑制手法であるとは言うことは出来ず。集団内部における身勝手な観念の共有によって危険行為を気分的に安心して行うヒトの行動習性に対しての構造原理解明や、それによって構築可能性がある対策にも言及することが出来ない。

 実際に事故を起こした者だけに厳罰を与えても、集団心理によって安心して危険行為に暴走するヒトの無意識性自体には全く言及されることはない。

 ヒトは生物本能的な社会形成習性を持っており、統率的に協調行動を採ることに気分的安心を抱き、集団や組織以外への社会全体への影響を意識から外し無視することによって、自律的な社会的責任判断能力を喪失するのである。

 気分的安心や精神的満足を得ることによって、本質的な合理性の追究を放棄し、目先の安心満足によって思考停止に陥る本能的仕組みというものの存在を認識しなければ、あらゆるヒトの無責任性の発現を食い止めることは不可能である。

 ヒトは嫌いな者に罰を与えると気分的安心や精神的満足を得ることが出来る性質があるため、それだけが目的となってしまって根源的原因にまで論理的検証を行わなくなってしまうのである。

 本質的なヒトの危険行為の原因を究明するためには、なぜ個人が自律的に社会的責任を負わなくなってしまうのかという構造的原因にまで言及する必要がある。その原因のほとんどは目先の多数他人との気分精神的安心満足の共有によって思考が停止してしまうからである。

 本能とは麻薬である。ヒトであっても本能に流されることは快楽で満足感を得ることが出来るため、本能的には未熟な論理的思考能力が行動バイアス的に劣っているため、ヒトの多くは論理検証性を簡単に放棄してしまう性質がある。

 麻薬はやめることが困難なものなのである。

 社会安全性とか持続可能性というものは、目先の本能的安心満足によって導き出されるようなものではなく、あくまで意識的に合理性を追究する「考え」によってのみ導き出されるものであり。「考え」を失わないためには本能的安心満足自体をも客観視する冷静さが不可欠である。



Ende;
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実質的効果。

2012年07月21日 13時16分40秒 | 意識論関連

○実質的効果。

 厳罰化というものは力による恐怖を利用した他律的な抑圧であり、気分による無意識的な行動抑圧にしかならない。

 そもそも危険運転などの行為というのは、当人が気分的に安心で「恐くない」からやらかすのであって、無意識な者というのは「自分だけは捕まらないから、恐くない。」という気分でしか行動が決定されないために行われるものである。

 「恐くない」というのは気分である。気分によってのみ行動が選択されていれば、「今まで事故を起こしたことがない。」だとか「捕まったことがない。」という精神的な安心によって行動が決定すると言うことであるから、厳罰化による精神的恐怖を用いた抑圧では実質的効果は薄い。あくまで厳罰化というものは被害者や遺族の気分的/精神的報復処罰感情を満たすだけのものであって、無意識で無責任な者に対して意識そのものを喚起することにはほとんどならない。

 故に危険運転というものは減らないのである。

 実質的効果を持った対策を行うためには、気分/精神的抑圧に依らず自律的に社会的責任行動選択を行えるようにしなければならない。

 懲役刑が再犯抑止効果をほとんど持たないのと同様、厳罰化というものでは危険行為を減らす実質的効果はない。

 本当に危険行為を撲滅するためには、個人に自律的な社会的責任判断能力を持たせることであって、これこそが本質的な意識喚起につながるのである。

 自律的に社会的責任判断を行う者と、そうでない者との違いというものを科学的に解析し、精神論的抑圧に依らない自律能力の獲得方法を確立しないことには、あらゆるヒトが引き起こす無責任な危険行為の抑制にはならないのである。

 その意味において、処罰報復感情に流され、厳罰化しか求めない被害者や遺族もまた、社会全体から見て無責任な判断であるとも言えるのである。

 実質的効果を持たない気分的満足に流されていることは、結局危険行為をやめようとしない者の精神と何ら違いはないのである。

 ヒトの多くは気分的満足安心によって目先の個人的感情を満足させることにしか意識は働かないが、こうした目先の感情を満たすことを多数で共有したところで、合理性のある実質的効果を持った社会安全性にはつながらないばかりか、むしろ実質的効果を持った対策を阻害してしまうのである。

 そりゃ司法は自分達の体制維持のために厳罰化の無効性を認めたりはしないだろう。厳罰化というものは司法の権力拡大になるので、実質的効果が無くても「知ったことではない。」のである。

 「厳罰化=社会安全性」という観念による実質的効果の希薄な手段だけしか行われない司法という体制を、根本的に変えないことには実質的効果を持った対策は一切行われることはないのである。

 三権分立というもの自体には合理的根拠などなく、単なる経験則的な「安全の傾向性」しか存在しないのである。

 権力というのは既に存在する自分達の権益を保守するという利己的目的しか意識は働かず、実質的な社会安全性などどうでも良いと思っているのである。

 警察や検察であれば、適度に犯罪があった方が自分達の手柄評価が増えるので、実質的効果を持った社会安全性などどうでも良いのである。冤罪などというのは、その典型であり、法手続き上手柄評価になりさえすれば、真犯人が捕まらなくてもどうでも良いから冤罪というものが発生するのである。


 本当に社会安全性を高めようと「考え」るのであれば、従来の機械手続き的制度に堅持固執することではなく、合理性を持った科学的検証に基づく手段を再構築/脱構築することが必要である。

 どんなに強く「思った」としても、それは「考え」ではなく。むしろ観念的「思い込み」による気分的満足によって合理的で実質的な「考え」を停止させてしまっているのである。

 無意識な観念に則った大衆迎合の方が世間的にはウケが良いことはわかっている。しかし、こうした大衆迎合による集団依存のマインドセットこそがあらゆる人為的危険性放置の最も根源的原因なのである。

 自分達のマインドセットを無視しておいて、東電幹部のマインドセットを批判するのは支離滅裂というものである。

 司法は再犯率の全く下がらない懲罰科料の決定しか法手続き的には目的としていない。この根源的構造の間違いを認識しないことには、何ら社会安全性の向上にはならない。

 危険学などの工学は、実際に取り返しのつかない失敗を経験しても制度法律だけの問題にしか関心はないようである。本来であるなら法哲学などの領域であるが、哲学はドストエフスキーだのニーチェで気分的満足をするばかりで、何ら社会安全性になど意識は働らかない。

 他人の頭の悪さの原因を知るためには、先ず自分自身の頭の悪さというものが一体何なのかを認識することである。

 ヒトの多くは他人を制御することにしか意識が働かず、自分自身の何が感情という無意識で、何が思考という意識であるのかすら認識していない。むしろ、強い感情こそが意識だと錯覚しているのである。

 こうした根源的錯覚を、錯覚であると認識しないことには何も世の中の問題は解決することはない。どんなにテクノロジーが発達しようとも、それを使う意識や意思がなければ暴走破綻しかもたらさないからである。


Ende;
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凄い。

2012年07月21日 13時15分29秒 | 意識論関連



 司法警察の目的は加害者特定と科料の妥当性を決定することだけであって、被害者遺族が求める「原因究明と有効な対策。」には原理的にならない。

 司法というのは原因究明に伴う再発防止策を確立する組織ではないからだ。

 以前から提言していたが、事故同様に犯罪においても原因究明と再発防止策の確立を目的とした内閣直属の組織委員会を設置しなければ、服役者の再犯すら防ぐことにはならないし、何人被害者が出ても犯罪者が社会持続可能性や安全性を求めなくなる構造についての研究は一切行われることはない。


 そもそも犯罪とは何か。犯罪とは社会持続可能性や安全性を自律的に求めず、本質的な人間としての社会性が失われることの結果である。また、本能的な社会形成習性は振り込め詐欺師集団やテロ集団、暴力団などの統率的封建社会形成の原因となることもあり、これを短絡的に「社会性」と呼ぶことによって本質的な人間としての社会性と混同する生物学の無責任性の放置も問題である。

 マインドセット(思い込み、偏った常識)というものによって、ヒトは物事を「考え」ずに機械条件反射的行動に「整理」することによって感情的安定を得ることが可能になる。「慣れた」ことは安心で、「慣れない」ことは観念的恐怖を条件反射的に「感じ」るため、慣習的に慣れた行動思考という無意識に「整理」される性質が脳にはある。脳というのは無意識でいる方が安心なのである。

 行動学習的に思考を停止させ、無意識に本能の促す感情のままに行動しておくことが快楽で安心で満足する仕組みがヒトの脳にはある。この本能的仕組みによって思考が停止し、短絡的情動行動に「整理」されてしまうと社会全体の持続可能性や安全性に意識が働かなくなり、結果的に犯罪者ともなるのである。

 いうなれば、一つの犯罪という事象の裏には幾つもの犯罪の素となる無責任で無意識なヒトの存在があり。これらの無意識性の結果として、いわば必然的に犯罪という表象が現れるのである。

 あらゆる犯罪には、犯罪を正当化するための身勝手な固定観念/マインドセットが存在しており、これによって社会全体の持続可能性や安全性への論理検証性が失われるのである。


 バスジャックを行った学生も、「バスジャックをやったら凄い。」などという集団内部におけるマインドセットによる思考停止が働いており、単独犯行であっても目先の集団依存のマインドセットによって自律的思考の喪失が生じているのである。たまたま一人のバスジャックが発生したといっても、実際には多数の無責任な者達の中から偶発的に発生しただけであって、無責任な観念を共有している集団自体にこそ根本的原因が潜んでいるのである。

 秋葉原の通り魔においても、SNSにおける多数他人からの評価への執着が大きな要因となっている。SNSへの書き込みというものは極めて限定的な人物しか行うことはなく、SNS利用者の殆どは単なるROM(ReadOnlyMember:読むだけで書き込まない人)であって、決して統計的な多数意見にもならず。また、多数意見であったとしても社会持続可能性や安全性を基準としたものであるとは限らない。単なる主張したがりの多数決でしかないのである。

 普段実世界で数十人程度の意見であれば、それは偏った意見である可能性にも意識が働くが、顔の見えない匿名書き込みの場合には、あたかも普遍性を持った意見の集約であるかのように錯覚する性質があるらしく。偏った意見による思い込みを植え付けられやすいようである。

 しかし、自律的な論理検証性(本質的意識)が働いていれば錯覚に惑わされることはない。しかしヒトの多くは自律的論理検証性というものを本能的な多数からの強迫観念によって簡単に喪失し、偏った思い込みに陥るのである。

 「バスジャックが凄い。」などという観念に基づいた犯罪行為というものは、構造的には振り込め詐欺に引っ掛かるのと同じようなものであり、目先の多数意見が作り出した錯覚に無意識に流された結果に過ぎない。

 論理的合理性のない文系観念的「勝ち」を盲目的に信頼してしまえば虐殺は英雄だと勘違いすることは簡単である。

 シエラレオネの少年ゲリラの暴走性も、生物学的生存やそれに迎合した文系観念上の「勝ち」を究極まで追究した結果なのである。

 イジメなどの組織集団による差別排除行動というものは、ヒト全般に普遍的行動習性「結果」である。特定の事件における加害者特定や懲罰を繰り返すだけではバカとしか言いようがない。司法警察という懲罰を目的とした組織に再発防止策の確立を望むこと自体が根本的に間違いなのである。

 なぜヒトが組織集団によって差別排除を行うようになるのかについての構造原理を分析しなければ、差別排除の根本的再発防止策を確立することは理論的に不可能である。文系大衆観念上では特定事案における「悪者探し。」をして、懲罰を与えることによる抑止効果だけが唯一絶対的対策であると錯覚しがちであるが、こうした大衆観念的マインドセット(思い込み、固定観念的常識)こそが、より有効な合理的再発防止策の確立を喪失させているのである。

 大衆観念的には行動習性の断片的抽出による「ヒト=人間」という方程式に基づく非科学的立証に、気分的満足を得ることによって論理検証性を失い安心することが出来るらしいが、こうした思考停止こそが組織集団的な差別排除のメカニズムの存在を無視し、意識から外す心理的構造である。

 心理的構造に無意識に流されているだけであれば、これは単なる精神的怠慢に過ぎない。

 大衆が精神的怠慢をしておいて、原発を暴走させた東電の体質を批判するのはふざけているとしか思えない。


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内容説明。

2012年07月21日 13時14分22秒 | 意識論関連


*/---NHK「ScienceZERO」の内容説明。

 思いやり、友情、笑顔など、私たち人間の「心の動き」。今、その成り立ちを解明する研究が急ピッチで進んでいます。カギは、先祖が歩んだ「進化の足跡」に隠れていました。

---/*

 「感情=心」ではない。

 本能的感情というものは、思いやりや友情、笑顔といった文系観念上都合の良い感情だけではなく、差別排除や嗜虐性も促すものであって、感情の全てが人間としての「心」になるわけではない。

 振り込め詐欺師や少年ゲリラの内部における限定的思いやりや友情/仲間意識こそが彼らの暴走を促すのである。

 笑うという行為においても、集団でイジメを行う時であっても笑うことは珍しくはない。笑いというのはむしろ邪悪な感情によって促されるケースの方が多い。

 ヒトの反射的感情の全てを人間の「心」と言い張ることは、イジメを容認することと同義であり悪質である。

 生存に適した行動の全てに人間性が伴っている証拠はない。あくまで「生き残った」結果として生存しているだけであり、ましてや本能的情動行動であれば大脳が肥大する以前における生物的祖先の行動習性が組み込まれているのであって、本能が常に人間性を伴った社会性を発揮することを証明することは原理的に不可能である。

 生存してさえいれば強姦だろうが虐殺だろうが生物学的にはどうでも良いことなのである。強姦や虐殺に快楽を感じるとしても何ら不思議はなく、それらは全て生存の「結果」以上の意味は存在しない。



 社会心理学における監獄実験や服従実験の結果を無視し、人間性にとって都合の良い実験結果だけを基にヒトの行動習性を規定することは、文系大衆観念のゴリ押し/強弁であって、科学的論証として成立していない。

 ヒトには他人を思いやる感情も、他人を排除する感情も、優しい感情も、暴力的感情もそれぞれ存在し、本能のままに無意識に流されていれば、環境によって無為に左右されてしまうだけであり。様々な感情から統合的な観点から本質的合理性を持った「選択」を介することで、はじめて「人間」としての行動となるのである。

 従って無意識的な本能習性や、その場限りの感情に流されているだけなら本質的な人間性を常に発揮することは出来ないのである。

 単にその場限りの気分で行動が選択されていても、断片的に人間性を発揮することはある。しかし、環境や状況が変化した場合に気分が悪くなるからといって凶悪性を発揮してしまうことを自律的に抑制出来ないからといって、自分にとって都合の悪い気分の悪い話を無視し、論理検証を放棄することこそが人間性を喪失する原因である。

 無意識な習性に無為に流されているだけであれば、そこには自律的「目的」選択を介在しておらず、全ては「結果」しか導き出さず。断片的「結果」の抽出だけではヒトの人間性を証明したことにはならない。

 断片的に人間性にとって都合の良い実験結果を抽出しても、監獄実験や服従実験の反証には全くならないからである。

 ヒトとは人間性と非人間性の両面を持ち合わせており、人間性に値する選択判断を行う本質的「意識」によってはじめて人間性を発揮するのであり。無意識的な本能習性の枚挙からヒトの人間性を証明することは原理的に不可能である。

 習性とは傾向性であって、断片的傾向性の枚挙をあたかも普遍的行動選択であると錯覚し、習性以外の行動が選択不可能であるかのように言い張るのは科学的検証とは言えない。



Ende;
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決断と判断。

2012年07月21日 13時12分58秒 | 意識論関連



 直接利益にならないことを無駄なことと「思う」限り、当然間接的利益の可能性は意識から外していることでもある。

 社会安全性や持続可能性というものへの「意識」とは、全て間接的利益の優先から導き出されるものである。

 本質的合理性の追究とは、こうしたこうした間接的利益を優先した結果として、利己性が放棄されるのであって。利己性を放棄出来ないのは間接的利益に意識が働いていないからである。

 「情けは他人の為ならず。」とは、そういうことである。他人を思いやる「心」とは、自分自身がどのような社会を望んでいるのかを「考え」ることによって導き出されるものなのである。

 「どうせ誰も他人のことを思いやったりはしない。」というのは、現状社会への服従迎合的諦めに過ぎず、本質的自己の負けを意味するものである。

 ヒトは短絡的に何かを決め付けておいた方が気分的に楽なのである。そのため目先の多数現状に服従迎合しておいた方が何も「考え」ずに済む。

 「考え」とは「悩み」ではない。悩みというのは気分的な問題に過ぎず、何ら合理性選択を伴わない煩悩に過ぎない。イジメに加わるか反対するか、そこに選択の余地など最初から存在しないのである。

 こうした個人の自律的選択を全く行っていないから、原発の危険性も放置されたのである。

 人間が作り出す危険放置、怠慢、無為無策の全ては自律的な社会的責任判断の放棄が作り出すものであり。目先の気分的安心満足に溺れて何も「考え」ないことの結果である。

 集団で少数を攻撃をしておけば集団仲間意識による団結的統率によって目先の気分的安心満足を得ることは簡単であろう。しかし、こうした社会形成習性による本能的行動の結果には目的が存在しないため、結果的に破綻に至るまで暴走することに陥るのである。

 仲間ではない相手を思いやることに直接的利益はない、イジメを行っている集団内部において、イジメをやめさせる判断をすれば仲間からは気分的に嫌がられ、逆にイジメを助長する判断をしておけば目先の嗜虐性を共有させることで満足することが出来るために、残虐性は常にエスカレート暴走する構造になっているのである。

 シエラレオネの少年ゲリラの残虐性というものは、そこに歯止めとなる世間的抑圧すら存在しないことによる暴走という結果である。

 しかし、誰も意識的目的として残虐行為を行おうとする者などおらず。あくまで無意識による本能の暴走に流された結果としてヒトは残虐性を発揮「してしまう」のである。

 東大学長が言う「全てを疑え。」というのは、他人を疑うだけではなく、むしろ自分自身の行動選択に合理検証性が伴っているのかどうかこそを疑えという意味であって、観念的猜疑心を奨励しているわけではない。

 言われたこと、教えられたことを固定観念によって勝手に誤解することは簡単である。簡単なことしか出来ないというのは頭が悪いということであり、バカということである。

 バカなら問題解決能力がないのも必然というものである。

 どんなに偏差値が高くても、バカには問題解決能力はない。だから「天下り」であり「毒ガステロ」なのである。

 自分の頭の悪さを認識することは気分が悪く、拒絶反応が生ずるのは当然である。

 自分の頭の悪さを認識することというのは、既存の自己を否定することであるから今までの自分の行動選択を正当化出来なくなることでもある。

 ドーパミンが促す常習性によって、慣習的に行動学習した選択だけを無意識に行っていれば安心だが、そうでない選択を行うことというのは気分的に不安に陥るのは必然である。

 意識を持つことというのは不安に陥るものである、しかし不安に陥ることは目的ではなく、あくまで不安に流されないようにすることこそが、意識を持つということである。

 誰もやってこなかった事というのは恥ずかしさを感じるであろうが、「恥ずかしい。」などというのは多数からの外見的恐怖心であって、それが短絡的に人間として悪い選択であるわけではない。

 イジメを止めようとすれば「カッコつけるな。」と言われるであろう、しかし、大抵の場合イジメを行っている者の方が外見に対する執着が激しいものである。短絡的拒絶というものには合理性がなく、固定観念的マインドセットによるその場限りのヒステリーに過ぎない。無意識な者の言うことというのは支離滅裂で論理整合性がないのである。論理整合性がなくとも観念的強迫に多くのヒトは負けてしまい、徹底追究する意欲を失いがちなため、集団ヒステリーに迎合してしまいがちな習性がある。

 「そんなに言うなら。」とは、観念したことの表明であり、気分的諦めである。「そんなに。」とは程度問題であって合理的根拠に基づく判断ではない。

 無意識な者程思考は短絡的で即答することが出来るものである。固定観念に基づく機械反射的回答の時間的応答速度が早いのは当たり前である、だからコンピュータの計算速度というのは早いのである。

 応答速度が早いことを「決断力」と勘違いするのは簡単である。短絡的無責任判断であろうと、即決した方が多くの大衆凡民の脳を酔わせることが出来るからである。

 観念的強弁に論理根拠が存在すると錯覚するのも簡単である。何ら疑問を持たずに盲目的に信用しておける相手の方が気分的に安心できる本能習性がヒトにはあるからだ。

 簡単に本能習性に無意識に流されていればバカとしか形容不能である。

 バカのままではいたくない、そう選択することこそが自由「意思」なのである。

 イジメを止めれば多数からは「バカだ。」と言われるであろう。しかしイジメを止めることは社会全体から見ても「バカ。」な選択であると言えるであろうか。より広い視野における意識の広さを持たないことは「集団組織依存のマインドセット」であり意識狭窄性なのである。

 集団内部の偏った常識、思い込みに無意識に流されてしまうのは、そこに意識的論理検証性が伴わないからである。

 「人間として、どうあるべきか。」を徹底的に議論していれば差別排除など起こるはずはないし。危険性放置もされることはない。それを観念的拒絶反応によって拒否してしまうから人間ではなく、単なる「ヒト」にしかならないのである。

 観念的拒絶反応を多数で共有しても、それは気分的安心を得るだけであって、むしろ合理的安全性の放棄にしか陥らない。




 嗜虐や破壊は本能的快楽である。生殖能力の高い幼い少女との生殖行為を求める本能があっても、本能の全ては結果であるから何ら不思議でも何でもないのである。こうした本能というものには目的がなく、常に「結果」しか導き出さず、何の保証もされてはおらず、何でもかんでも自然の「結果」を正当化する生物学上の正義は間違いであり、間違いを堅持するというのは悪質である。

 生物学的な自然界の安定性というものは、あくまで偶発性の結果でしかなく、論理的安定性の論証とはならない。無為無策に傾向に流されることしか選択不可能と決め付けているから、NHKの室山哲二みたいなオカルト観念に陥るのである。

 

Ende;
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依存。

2012年07月21日 13時11分24秒 | 意識論関連

○依存。

 原発温存派の理由っていうのは、「他の国は原発をやめない。」からだそうだ。

 こうした環境依存的な理由に流され、自律的に社会的安全性を優先選択をしないというのは。東電が犯した「組織依存のマインドセット」と同じものである。原発暴走の原因とされた「東電内部における組織の利益優先」が国家単位に拡大しただけに過ぎない。

 国益という組織の利益追究を優先するというのは、東電内部における組織の利益優先による暴走無責任性を国家単位に拡大しただけのものである。

 将来原発をやめなかったリスクが生じた時に、「他の国がやめなかったから。」などと言えば、これは言い逃れ/取り繕いと言う他なかろう。子供がイジメをやめられない理由「だって、みんながやめないから。」と言っているのと何が違うのだろうか。社会安全性を蔑ろにしてまでなぜ国際競争に「勝つ」必要性があろうか、「他の国が」云々というのであれば、もはやチキンレースであろう。

 国際競争で優位になることが国民の本質的利益/幸福である論証はない。

 核兵器が減らないのも「他の国が放棄しないから。」であり、これらは国家としての自律的判断の欠落による多数他国への責任転嫁の屁理屈である。

 原発における安全性というものは、絶対でなければならないものである。絶対以外に有り得ない。絶対安全性が実証的に反証された以上、原発を存続させる理由など存在しない。

 放射性廃棄物の処理方法が決まらない現時点において、廃棄費用は未知数であり発電コスト云々を論ずることは出来ない。処理自体が国内で出来ないことが判明してしまえば、それこそ圧倒的国際的劣勢に立たされる。

 原発同様に核廃棄物最終処分場立地においても地層の不安定な日本にとって原発というのは最初から適していなかったのである。

 国土を核廃棄物だらけにしてまで数値上の国際競争に「勝つ」ことを、将来の国民が求めた社会であると言えるであろうか。実際数値上GDP上位になったからといって何ら日本人は幸福ではなかったではないか。

 「今までずっとそうだった。」とか、「みんなが悪い。」などという環境依存的で無意識な選択こそが集団マインドセットを作り出し、集団を破綻に至る暴走へと導くのである。

 そういえば、オウム教団も「社会が悪い。」と称して、且つ「人類の救済。」と称して破壊活動に邁進した。

 「他の国がやめなかった。」とか「国際競争から日本経済を守る。」ことを論拠に破綻暴走へと無為無策に流されるのは集団洗脳と同じ構造である。

 原発の優位性というのは発電コストである、従って原発を維持するためには安全性よりもコストが優先されなければ意味がなくなる。従って電力各社は益々原発の安全性を蔑ろにするであろうことは明白である。



 夏のエアコンが電力ピークの原因であるが、エアコンの原理というのはコンプレッサでフロンガスを圧縮すれば良いのであって、それを電気モーターで回さなければならない理由はない。それこそコジェネで発電しながらモーター駆動するというのは変換損失を生み出すだけであって意味がない。

 エアコンのコンプレッサを回すだけなら動力なら何でも良いはずである。

 果たして人力ではコンプレッサを回せないのだろうか。スポーツジムでエアロバイクこいでいるくらいならコンプレッサを直接回せば良かろう。人力なら風力と違って圧力計を見ながら出力調節可能であろう。

 たとえエアコンが無理でも冷蔵庫なら充分賄えるはずである。

 あと室外機は室内機に対して、より高い位置に設置した方が効率が良いはずなのだが、大抵の場合室外機は地面付近に設置されることが多い。どの程度違うのかは知らないが、小さな工夫の積み重ねをしなければ効率を下げることはあっても上げることにはならない。


 ヒトの多くは「今までやったことがない。」ことに対して観念的拒絶反応を示し試行することすらしない傾向がある。気分的に安心なことが論理的安全性の論証になるわけではない。

 数値上における経済性によって国際競争に「勝つ」という既存の価値観よりも、全く新しい価値観自体を創造することを「考え」るべきである。それは「負けたくない。」という強迫観念に囚われていれば見失うのは当然である。

 国際競争に「勝つ」ことが持続可能な安全な社会を築くことには必ずしもならない。それは単なる目先の「効用」に過ぎない。もし処理不能の使用済み核燃料まみれになってまで国際競争に「勝つ」ことが出来たとして、それに一体何の意味があろう。

 放射性物質が健康被害を及ぼした証拠はない。しかし、これから健康被害が絶対に存在しない証拠もまた存在しないのである。一面的立証から絶対健康被害が生じないと言い張るのはオカルトであろう。

 たとえ放射性物質による健康被害があったとしても、それを立証すること自体が困難であり、証拠は残らない。

 そもそも健康被害が生ずるような農水産物の出荷「自粛」によって健康被害が食い止められているのであって、その「自粛」によって既に大量の犠牲は生じているのである。

 国が定めた放射性物質含有量を下回っている農水産物の多くは風評によって事実上全く市場に出回っていない。もし健康被害がないと言い張るのであれば、電力会社社員が購入していなければおかしいのである。

 「絶対健康被害は起こらない。」と言い張った電力会社社員は、これからは福島原発避難地域の農水産物以外を摂取する権利はない。自分の身をもって安全性を立証すべきである。

 まあ、絶対にやらないだろうな。ただの嘘だからな。

 こんな嘘を自信たっぷりに披露しているのは、「組織の利益を優先した組織依存のマインドセット。」が全く解けていない証拠である。こいつらに原発の運転を任せておくこと自体が既に間違いなのである。




Ende;
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微力の行使。

2012年07月21日 13時09分26秒 | 意識論関連



 イジメというのは基本的に集団組織的に行われるものであり、個人の目的意図によって作り出されるものではない。

 特定の誰かを標的することによって、それ以外の個体同士での統率的協調性を発揮し集団仲間意識による本能的安心満足を得ることが出来るため。無意識なヒトというのはイジメという排除差別に簡単に陥る習性傾向がある。

 こうした気分的安心満足というものは、本能的に組み込まれた結果的行動であり。普遍的にヒトの行動に見ることができるものである。

 社会を形成する習性というものは、社会を形成することを目的としているのではなく。あくまで無意識感情的な結果として社会を形成「してしまう。」だけのものであって、これは無意識な行動の結果である。

 生物学者達は本能的行動の結果の全てに事後正当化的に意味をこじつけを実証であるとする生物学上のマインドセット(思い込み、集団内部だけの偏った常識)によって、結果と目的の区別を論理的に区別することを観念的に拒絶するのである。

 ヒトの子供のイジメ(排除、差別)行動というものは本能的社会形成性の無意識的行動「結果」以上の意味はないのだが、脳科学も含めた生物学系学界はこれにどのような「目的」をこじつけるつもりであろう。

 イジメに生物学的意味のこじつけを行っている限りは意識的目的行動と無意識的行動結果の区別が出来ないのは当然であり、理論的根拠のない観念にマインドセットされたまま合理的検証判断を行わない生物学系学界は、いうなればイジメを放置許容しているのと同じことであり、極めて悪質である。

 統率的な集団協調性というものは必ずしも人間性を伴うものではなく、環境によってはシエラレオネの少年ゲリラのような凶暴残虐性の発揮の原因とも成りうるものであって。同時に多数に迎合することというのは本能的/気分的に安心満足による思考停止によって、あたかも「協調性=人間性」であるかのような錯覚を促すために、論理検証が苦手な文系大衆観念上では、こうした錯覚自体を認識することを拒絶する。

 多数に迎合したり、権威に服従することは本能的安心を促すのだが。こうした気分的安心をあたかも論理的な安全性の論証であるかのように錯覚する傾向がヒトにはある。

 協調性というものは世間的な成功にとって必要不可欠な能力でもあるが、世間的成功とはあくまで利己的欲望に基づいた価値観に過ぎず、これ自体は自律的な社会的責任判断能力とは無関係なものであって、本質的な人間性の論証にもならない。

 シエラレオネでは残虐なゲリラに迎合服従しておいた方が権力を獲得したり生存に適したりすることは可能であろうが、こうした「協調性」こそが残虐なゲリラ組織を助長する習性でもあるのだ。

 学校におけるイジメにおいても、統率協調的にイジメに加担し、率先してイジメを促す側に迎合しておいた方が、仲間意識(無意識)による気分的安心満足を獲得することが出来るために、生物学的生存には適することにはなる。そこに文系観念による事後正当化的こじつけを行っても、それは言い逃れや取り繕い以上の意味は存在しえない。

 イジメの結果に何らかの意味を後からこじつけても、そこから合理性のある理論的社会安全性や持続可能性を導き出すことは原理的に不可能であり。「イジメられて強くなる。」などという話は文系観念的大衆特有な無能さを正当化するための短絡的言い逃れに過ぎない。イジメを止めることの出来ない自発的意思の弱さ/精神的虚弱こそがイジメを助長するのであって、こうした精神的弱さ/自律の欠落こそが東電幹部などにおける組織的マインドセットをも作り出す原因でもある。

 組織依存のマインドセットというものは、その組織を構成する個人のマインドセットであって、組織腐敗の原因とはあくまで組織を構成する個人の意識の欠落によって作り出されるものなのである。それを組織制度システムや法的規制だけに原因と規定することは、根源的な原因であるヒトに普遍的に見られる行動習性の「結果」の無意識性を無視した身勝手な決め付けに過ぎない。

 問題の原因究明や再発防止策の確立というものは、人間としての社会的責任としての社会持続可能性や安全性を「目的。」としたものである。「航空機や原発だけ安全なら工学として満足。」というのであれば、これは工学者の傲慢な思考停止である。社会安全性に関わることというのは社会的要請として最も優先されるものであり、かつ徹底的な原因究明を行わなければならない。航空機事故や原発事故によって組織的な腐敗のプロセス構造は抽出することも可能なはずであって、それを「工学の範疇ではない。」と称して黙殺することは学者として傲慢である。

 人間性を持たない学者が、どんなに特定の能力の優秀さを立証しても、人間としては出来損ないと言わざるを得ない。

 気分的満足による思考停止こそが、ヒトから論理検証性を奪う根源的原因であり。あらゆるヒトの危険性を放置する原因でもある。

 考えが成立してなきゃ、ただのバカだからな。

 大抵の場合感情的怠慢によってバカを正当化する屁理屈だけしか頭が働かない。

 むしろ考えを停止させることを正当化するための言い訳なら異常に頭が働く癖に、肝心な論理検証は拒絶するのである。

 バカ相手に説明していると吐き気がする。おいらはサルトルではない。

 自分が思い描いている事柄が、従来の固定観念的マインドセットの事後正当化のための言い逃れであるかどうか自体に論理検証が及ばないと、本質的には「考え」たことにはならないのである。

 本論を読んでいると洗脳されるような気分に陥るらしいのだが、本当の洗脳状態では洗脳されている自覚は生じないのである。だからヒトは簡単に洗脳に陥るが、脱洗脳は拒絶するのである。

 本意識論というのは脱洗脳、脱構築可能性を論じているのであって、洗脳だのマインドセットといった構築「された」無意識からの脱出「する」ための思考として論じているのである。


 イジメなどと言うのは、集団依存のマインドセットの結果以外の何物でもない。「どうせ自分一人では何も変えられない。」という思考停止の満足を促す論理的根拠のない観念によって、ヒトは無為無策に簡単に陥ることが出来る。

 イジメという洗脳状態による学校荒廃は、子供個人による意図的目的によって作り出されるものではなく。多数の子供達個人に自発的目的意識が存在しない「結果」である。子供個人自身に意識的で論理検証的な目的意識による行動選択が行われていれば、イジメなどというバカげた集団洗脳状態から脱することは、実は簡単なのである。

 子供は環境に左右されやすいものでもある。シンガポールにはイジメはないというし、オランダの場合はイジメをどうしたら抑止できるか子供自身にディスカッションさせるそうである。

 合理的に考えればイジメなどというものは意味がない動物的行動習性の結果に無意識に流されているだけのバカが行う行為であると認識することは、理論的には簡単である。

 しかし、無意識的観念を事後正当化するヒステリックな拒絶反応によって、ヒトの多くは簡単に思考停止に陥るために、無意識な行動習性の「結果」にしか至ることが出来なくなっているのである。

 もし、イジメを率先して行った首謀者が警察の査察によって特定されれば、その子供は世間的バッシングによって、いうなれば世間的排除差別というイジメを受けることに陥るであろう。それでイジメ自体が社会からなくなると思ったら大間違いである。

 イジメられる方が不特定であるのと同様、実はイジメを率先した首謀者自身も、教室という環境下における結果に過ぎず、当人には何の意図意識も存在しないのである。

 当人に意図意識が存在しないことこそが問題の根源なのであるが、子供の場合は大人が子供の自発的思考意欲を奪っていることが、一種の「連鎖」として行われているのである。

 クソゲーだのイジメだのといった無意味なことに執着するというのは、要するに脳がヒマなのである。自発的に物事を考える能力を失ったバカが、シーケンシャルに無意識に陥るのがクソゲーだのイジメなのである。

 イジメによる仲間意識の共感性、言い換えれば強迫観念的「絆。」というものは。そのまま振り込め詐欺集団の組織的統率性や協調性の原因にも成り得るものでもある。

 あらゆる能力、力といったものを、一体何に用いるのかを選択するのが意識であり、本質的自発性を持った意思である。

 他人を思いやることも、集団の利益だけしか追究しないことも、ヒトの行動の全ては感情によって促されるものであって。理性自体は人畜無害なただの論理性でしかないのである。

 しかし、論理性に基づいて自分の情動行動を選択しなければ、それはヒトの大脳新皮質の容量の大きさが持つ優位性を全く使っていないということでもあり。単なる下等動物と同じなのである。

 憐れなサルの集団に迎合して満足か、それとも自律的に人間としての選択をするか、それは個人の意識次第である。

 多数が意識的に行動選択していれば、無意識的暴走というものに陥る可能性は下がる。だが、多数が無意識的に行動習性に流されていれば、何ら目的のない暴走に陥る以外に、そもそも選択自体が伴わない。

 イジメはなくならないかも知れないが、それを言うなら重大事故だろうが組織腐敗だろうがなくならないことに変わりはない。必要なのは「減らそう。」という個人の意思である。

 誰が言ったか忘れたが、「一人の力は微力だが、無力ではない。」のである。むしろ微力を結集することによって大きな力は発揮されるのである。

 「大きな力。」を一体何に用いるか、その意識的選択を介さないから暴走に陥るのである。無意識な行動であっても個人の力に違いはないのである。感情的ヒステリックな強弁に対して、ヒトの多くは気分的に面倒臭いので諦めて「観念」してしまう性質がある。その「諦め。」こそが組織依存のマインドセット、思い込みの根源なのである。

 本当の無力とは、自己の微力を行使する意思を忘れることである。

 自己の微力を忘れ、多数や権威の力に依存するから自律が失われるのである。それを「甘え」と言う。

 ヒトは哺乳類であるから「甘え」ていた方が気分的に安心であり、こうした本能的社会形成習性に流されているから社会から安全性が失われることに陥るのである。

 組織依存のマインドセットというものは、ヒトの習性的「甘え」によって作り出されるものなのである。


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心。

2012年07月21日 13時07分57秒 | 意識論関連

○心。

 他人を気遣う「心。」とは、単なる本能的情動を指すものではない。

 他人を気遣う「心。」が失われるのは、多数世間における外見的な評価に意識を奪われ、他人を気遣うだけの精神的余裕が失われているためである。

 ヒトには他人を気遣う本能的性質/習性も組み込まれてはいる。しかし、同時に他人を蔑ろにしてまで多数他人からの外見的評価を求めようとする本能的性質/習性も組み込まれており、これらの本能を単なる感情のバイアスだけで無意識に選択している限りは環境や先天的傾向に左右され、本質的には「自己自身の意識的選択。」にはならない。

 日本の学校では、「個人の能力向上ばかりが要求され、他人を気遣うことが求められていないからイジメが発生する。」という説があるが、そうではない。

 同じ教育を受けていても他人を気遣う人と、そうでないヒトに分かれるからである。

 多数他人からの外見的評価ばかりを求めるヒトは他人を気遣う精神的余裕がなく、自発的に社会的責任判断も行わない。多数他人からの外見的評価自体が本質的には主体的で自発的行動動機ではなく、あくまで多数他人という環境依存的な「結果。」的基準でしかない。

 それを無意識に鵜呑みにするか、そうでないかによってヒトは単なる動物的ヒトか人間かに分かれる。

 他人を気遣う行動も本能である、従って「大人から求められていない。」からやらないというのは本質的な自発的行動選択を無視した話である。

 「教えられていないことは、出来ない。」「教えられたことしか出来ない。」というのは、本質的な知能自体が存在していないことの論証である。

 どうするべきか、それを自発的主体的に選択することによって、目先の利己的欲望に流されることなく自律的に社会的責任選択をおこなうようになるのである。それが出来ないのは本質的な「意思。」自体が最初から欠落しているためである。

 世界全体を見渡し、統合的な「目的。」意識に基づいた徹底した合理性追究を行えば、自ずと社会的責任判断は可能となる。

 カントが糾弾しようとしていた「純粋理性。」とは実際には理性そのものではなく、利己的本能欲望が根源の理性的行動選択のことであって。本質的合理性の追究こそが人間性を持った「心。」を作り出すのである。

 これを文系観念者達は理論的理解も検証もせずに、観念的拒絶反応によって漫然と疑い続けるのである。理論的検証による批判精神を持つことは重要であるが、観念的拒絶反応による漫然とした疑念というものはマインドセット(思い込み、偏った常識)に過ぎない。



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勝ち。

2012年07月21日 13時06分39秒 | 意識論関連

○勝ち。

 ヒトが勝ち負けにこだわるのは、結局「勝ち」を誰かに評価して欲しいからである。

 世間的な勝ちに固執する者というのは、外見に異常な執着があり。他人からの見た目に執着するのは主体的価値観に依る自発性の欠落の顕れであり、自己自身内部に価値基準が存在しないために他人から外見しか評価基準がないためである。

 「自分は世間的に成功した、他人との比較で優位に立った。」ことを、他人から評価羨望されることによって優越感に浸ることが出来る。これはすなはち、評価や羨望をされる他人からの外見でしか精神的満足を得る基準が存在しないからである。

 「自己中心的な者に、自己はない。」とは、「勝ち負け」という他人との比較でしか精神的満足を得ることが出来ない者には、自律的に社会的責任判断をする本質的自己が存在しないという意味である。

 「勝ち負け」という他人との外見上の比較しか価値基準が存在しない者の場合、あくまで現状世間という普遍性を持たない暫定的流行という環境依存的勝敗基準でしか物事を判断することが出来ないため。自律的には社会的責任判断をすることが原理的に出来ないのである。

 暫定的流行や現状世間だけが判断の基準でしかないということは、本質的な自発的意思選択が介在していないことでもある。

 たとえどんなに「勝つ」ことが出来たとしても、結局は時代や世間に流されているだけの自発的選択を介さない環境依存的条件反射に過ぎない。環境依存的で条件反射ということは本質的意識が介在しておらず、無意識である。

 勝ち負けの基準とは常に多数他人によって無意識的結果として作り出されたものに過ぎず、勝ち負けに執着している時点で既に現状世間の多数に迎合しているだけなのである。

 現状世間の価値観に迎合している時点で、既に本質的な自己自身は「負けて。」いることには大抵のヒトは意識が働くことはない。

 権力欲というものは現状世間というものへの迎合服従性の無意識的「結果」なのである。


 その場限りの強弁で相手を「負かした」ような錯覚で自己正当化が出来るわけではないし。本能的な順位欲が促す差別で「勝った」ような錯覚しても、自己の人間としての価値が上がるわけでもない。

 本能気分が促す大衆観念的錯覚によって安心満足しても、それは極めて個人的なものに過ぎず、目先の「効用」でしかない。そんなものに意識を奪われているから社会全体の持続可能性や安全性というものへの配慮を誰もしなくなるのである。

 自分自身が配慮していないものを他人に要求するのは傲慢という他ない。

 人間にとって最も重要なものは勝ち負けなどという目先の他人との比較ではない。勝ち負けなどというのは本能的に欲求「してしまう」ものに過ぎず、何ら本質的には自己自身の意識的選択を介していない無意識で動物的行動習性に過ぎない。

 本能のままに行動しておけば気分的に満足するのは当たり前である、しかし本能のままに無意識に行動が支配されていれば、これは本質的には自己自身による行動選択を介しておらず、事実上「自由」ではない。

 自己の本能からも自由でなければ、本質的な自由とは言えず、欲望の奴隷でしかない。欲望に「負けて」いながら勝ち負けに執着するというのは根本的な勘違い(錯覚)である。





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査察。

2012年07月21日 13時05分15秒 | 意識論関連

○査察。

 イジメで自殺したとされる滋賀県大津市の市教育委員会と中学校に警察の捜査が入った。

 警察が捜査に入っても悪者探しになるだけで、イジメ問題の解決には原理的にならないんだけどな。

 司法裁判というのは「疑わしきは罰せず。」が基本なので、イジメのような組織的差別排除の証拠を立証することは困難であり、具体的にイジメ行動の首謀者を特定できたとしても、それでは「その」イジメにおける偶発的結果しか特定することにはならず、動物習性的なイジメ排除行動の根源的な問題解決には反って撹乱されるだけである。

 学校の対応に不備があるとしても、「その」学校の不備を指摘することは出来てもイジメ自体の普遍的根本原因を究明することは警察や司法の目的ではない。

 なので、できれば専門の調査委員会とかを組織して事故調査と同様に聞き取り調査をして普遍的対策を確立した方が良いと思う。



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