○悪質。
動物学という分野は、動物と人間との違いを研究するのだと言う。しかし、実際にはヒトとヒト以外の動物との差異を枚挙しているだけであり、これは理論的には「ヒトの特異性」の論証にしかならず、何ら「人間としての特異性」や「ヒトの人間性」の論証にはなっていない。
チンパンジーがやらずにヒトだけが行う行為を抽出しても、それはヒトの特異性の抽出でしかなく。それを短絡的に人間性と言い張るのは論理検証性が欠落している。
ヒトの無意識的な「自然な行動」の全てに人間性が伴うわけではなく、アイヒマン実験において権威に服従して他人に危害を加えてしまうことも、またヒトの「自然な行動」の結果なのである。そもそも「自然な行動」とは無意識な本能感情に則した行動を指すものであり、単なる「無意識行動」のことに過ぎない。
脳の扁桃核というものは、気分的安心満足か恐怖嫌悪かを本能的に作り出すものである。ヒトの扁桃核は相手の表情に敏感に反応し、たとえ視覚認知が出来なくとも表情だけは読み取ることが可能である場合もあるという。(「ブラインドサイト」というらしい。)
ヒトが本能的に相手の表情に敏感であるという「結果」は必ずしも自律的な社会的責任判断を促す訳ではなく、むしろ目先の集団組織に迎合することで社会的責任判断を喪失する原因でもある。
単に気分的に「良い人間関係」を構築するだけなら振り込め詐欺師集団でもシエラレオネの少年ゲリラでもナチスでもオウム教団などのカルト集団内部でも可能である。目先の集団内部で「良い人間関係」を構築するのはヒトの本能的社会形成習性の「結果」であって、「結果」の全てに後から意味をこじつけ「本能=人間性」という観念を正当化することは科学的論証ではなく。あくまで文系大衆観念への迎合であって、理論的な人間性の論証には全くならない。
集団内部だけで利益を分配し、他人の機嫌を窺い、封建的な集団を形成し、統率的協調行動を採りさえすれば人間性の論証になるわけではない。
組織の利益を優先し、社会全体の安全性を無視した東電幹部や社員達であっても、これらのヒト固有の動物本能的条件反射行動を採ることは可能であり。むしろこうしたヒト固有の動物本能的条件反射/無意識行動こそが組織内部の利益だけに意識を狭窄化させる原因なのである。
ヒトは無意識的な本能行動としては、目先の集団との迎合によって生存価に適してきた。その結果として目先の集団に迎合し自律的な判断を簡単に放棄する本能習性を獲得「してしまって。」いるのである。
オウム教団やナチズムなどのカルト集団が必ずしも淘汰の対象になるとは限らず、むしろ盲目的カルト集団の方が強大な力を発揮し、生存価に適した可能性は否定出来ない。実際古代の歴史書には公平性のない封建的社会や、統率集団暴力を用いた侵略による支配の話ばかりが遺され。また、暴力支配の首謀者を英雄扱いするのが文系大衆観念である。
暴力を用いた統率や、盲目的服従という忠誠忠実性を美徳とした観念による偏った正義、力の強大さによる結果的生存を事後正当化することによって得られる短絡的満足、暴力や権威に服従することによって得られる本能的安心、仲間同士での観念の共有による気分的な「絆」感覚。これらの本能無意識によるヒトの「自然な行動」の結果が常に人間としての社会的責任判断が伴うわけではなく、むしろ多くの場合短絡的で合理性のない感情的最終解決に導くものである。
ヒトはカルト集団に迎合した個体に淘汰された結果的に、自律的判断を簡単に放棄する本能的仕組みが組み込まれているために、ヒトの多くは簡単にアイヒマン実験や監獄実験での暴走を呈すると考えられる。
ヒトが持つ本能行動の結果的暴走性を無視すれば、あらゆるヒトの暴走性は意識から外され、無視され、「なかったこと。」として処理され、放置されることになる。文系大衆観念上、それこそが気分的満足を提供し、思考停止を促し論理検証性を放棄させるのである。
文系大衆観念というものは、本能に基づく気分的に安心満足を得るだけの非合理不条理な観念であり。これこそが論理的思考による検証性への拒絶反応を作り出すのである。
どのみち、本能習性による行動の結果は、常に無意識な「結果」以上の何も生み出さず、意識的に選択した目的とは無関係であり、意識的論理検証を伴う人間性の論証にはならない。
ヒトの本能的で無意識な行動結果から、人間性に適した行動習性だけを抽出枚挙しても、短絡的に「ヒト=人間」であることの論理的証明にはならない。
文系観念的には、ヒトの無意識行動の結果に対して事後正当化のこじつけをしておけば、あたかも「ヒトとは常に人間性を発揮出来るものである。」と勝手に思い込むことは簡単である。文系観念上ではそれこそが安心であり思考停止の満足を与える麻薬/本能的快楽であるからだ。
本能的無意識行動がヒトの危険性を含み、「ヒト=人間」という観念への反証は、文系観念よる本能的快楽をもたらさないため、観念的拒絶反応によって無視し、意識から外し、安心満足によって論理検証を放棄させるために、従来の生物学上の観念が無為に放置されるのである。
どんなにヒトという種の生物の本能的「結果」を抽出枚挙しても、実際に発生する差別排除や虐殺虐待、自律的な社会的責任を負わない無責任さの反証には全くならないばかりか、ヒトが引き起こすあらゆる問題が本能に由来することを撹乱するものであり、これは科学者として無責任であり悪質である。
イジメを行う子供が本能的なヒトの行動習性を持っていないわけではなく。むしろ本能的な社会形成習性によって封建的統率による協調性の結果としてイジメを行っているのである。
イジメなどの非人間的行動結果を「なかったこと」にしておけば、「ヒト=人間」という観念の反証を無視しておくことが出来るため。文系観念者は意図的に都合の良い「結果」だけを抽出しているのである。
本能的な無意識行動の結果を、何が何でも「ヒト=人間」の論証であることにしていれば、ヒトの残虐性は無視され、あらゆるヒトが引き起こす無意識由来の問題行動は「なかったこと。」に黙殺される。
これは言うなれば、生物学はヒトのイジメなどの残虐性を無視し、問題解決を撹乱しているということである。これを悪質と言わずに何と形容すべきであろう。
生物学者達は自分達の論理検証性の欠落を認めないことによって、組織の利益を優先し、現状体制を維持することしか考えていない。その結果イジメなどの残虐性の原因構造が解析されず、再発防止策が確立出来なくても構わないのである。
どうせ大衆はバカなので、科学的論証など理解出来ないとタカを括っているのであろう。
それを悪質であると認識できない大衆やマスコミの意識にも問題がある。
生物学における生存価とは、あくまで結果を事後正当化するためのこじつけであって、生存してさえいれば人間性の論証になるという短絡的な帰結が導き出せるわけではない。
シエラレオネの少年ゲリラ社会においては、残虐性の競争こそが生存価であり。これは学校における子供のイジメと同じ構造である。
イジメによって命を落とした個体が生存価に適さなかったとするのであれば、イジメは生物学上正当化されると言うことである。だからこそ「イジメられる方にも問題がある。」などという大衆観念がいつまでもなくならない。
それならナチズムによるユダヤ人虐殺の結果、命を落としたユダヤ人を優生学上の劣性個体と見なすのと同じことである。
本能気分による「自然な行動」の結果の全てに事後正当化のこじつけをしてしまえば、何が起きても全ては生物学の神の思し召しであり、これは完全にカルト宗教である。
現在の生物学は優生学というオカルトに明確な反論を持たない。それは現在の生物学自体がオカルトだからである。
大衆観念的な「ヒト=人間」という短絡的解釈に寄り添った、ご都合主義による一面的立証に基づいたこじつけというものは、大衆のご機嫌を損ねるような都合の悪い現象を無視し、客観性のない極めて「ヒト」にとって都合の良い言い逃れ/取り繕いでしかない。
「ヒト=人間」という短絡的決め付けをしておけば、気分的には安心であろう。しかし、それこそがヒトの残虐性や暴力性、組織集団における危険性の放置を作り出すのである。
大衆観念的には安心と安全はセットにしておきたいのであろうが、気分的な安心こそが合理的安全性を喪失させる本能習性的原因であり、思考停止による無為無策に陥れる無意識への誘惑である。
安全性の確立というのは、徹頭徹尾合理的根拠によって導き出されるものであり、気分的な安心とは無関係である。
気分的安心と理論的安全性の区別、分別がつかないからこそ、あらゆるヒトの危険性が放置されてしまうのである。
生物学はシエラレオネの少年ゲリラの行動を、ヒトの本能的行動習性としては取り扱わない。それは「ヒト=人間」という現在の生物学の観念や文系大衆観念にとって都合が悪いからである。このように偏った解釈に基づいた論証を繰り返している限り、ヒトの残虐性は「なかったこと。」にされ、一切原因究明も対策も行われることはない。
人文諸科学において歴史上の虐殺支配は英雄である。こうした身勝手な観念に基づいたものを「科学」として取り扱うこと自体がとんでもない大間違いであり、大嘘である。
結果的に生存していたことを無批判に事後正当化してしまえば、生きていさえすれば何をしても構わないということである。こうした生物学上の観念こそが「人間性とは何か。」への論理検証性を撹乱し、「ヒト=人間」という短絡的で安易な結論へのこじつけを放置するのである。
問題意識というものの本質は、気分的に恐怖を感じるかどうかではなく。理論的合理性が欠如している話を無批判に放置しない「考え」によって促されるものである。
ヒトの多くは感情気分による安心か恐怖かでしか行動が左右されない傾向がある。気分的に安心でさえあれば論理的に不条理であっても放置する習性があるのだ。
嫌な話を繰り返しておこう。
ヒトは誰も自分自身の意識的選択によって産まれて来たわけではない。自分の遺伝的性質や本能といったものも自分自身で意識的に選択したものではない。
遺伝的性質を自己自身で選択していない以上、自己の脳に組み込まれた本能は自分自身の選択は介在していない。
自分で選択していない本能ということは、本能というものは本質的には自己自身の意思や意識とは無関係であり、単なる結果でしかない。
自分で造った脳でない以上、その脳から出てくるあらゆる本能習性は自己自身の選択が介在していないのである。
本質的な自己自身の意思、意識的選択とは。目先の固定観念に基づいた気分感情に流されることなく合理性を徹底的に追究した結果に導き出される「目的。」である。
しかし、ヒトの多くは合理的「目的。」というものを、目先の利己的本能や固定観念によって思考停止された短絡的な動機に基づいた「目的。」だと錯覚し、カントの「純粋理性批判」を鵜呑みにして合理性追究への観念的拒絶反応によって、目先の気分的安心満足こそが人間性を伴った「心。」であると勝手に解釈する。
自分の気分にとって嫌な話を無視し、自分の愚かさを「なかったこと」にして満足し、権威に責任を丸投げして安心することによって、自己自身の自発的「考え」や、自律的な社会的責任判断を放棄するのである。
「自分が愚かだと思ったら、やってられないじゃありませんか。」などというのは、本能習性が促す気分の多数共有に過ぎないのである。
本能習性が促す気分をどんなに沢山抽出枚挙しても、それは結果の枚挙以上の何物でもなく。何ら意識的に選択する「目的。」の論証には全くならない。
ヒトの多くは気分的な「思い。」と、論理的「考え」の明確な区別をしていない。この明確な区別を行うのは論理検証という「考え」であって、気分的な「思い。」がどんなに強力であっても、それは「考え」にはならない。
ヒトの多くは感情的に強く「思った。」ことや「悩んだ。」ことを、あたかも深く「考え」たものであると錯覚する。気分感情をどんなに必死に働かせても、それは論理的な「考え」ではないことを、多くのヒトは認識できないのである。
こうした錯覚こそが、多くのヒトを凡人たらしめているヒトの習性的構造であり。特定の権威者を天才扱いすることによって自己の凡庸さを正当化出来ると、愚かさの免罪符にすりかえられると満足し、勘違いしているのである。
ヒトの多くは「気分的快楽=頭が良くなった。」と錯覚する。そのため大衆観念に寄り添ったオカルトに簡単に引っ掛かり、逆に気分の悪い嫌な話に観念的拒絶反応を示すのである。言うなれば、ヒトの脳というのはバカになることが快楽になるような仕組みが組み込まれているのである。
未だに脳科学は脳血流増加こそが絶対的効果であると言い張るが、脳トレ類における根拠とされた脳血流増加には何ら具体的な効果の論証など存在しておらず、単なる脳内の現象論を短絡的に効果であると決め付けているだけの実証不能の観念に過ぎない。
ヒトというのは本能習性的に、特定の個人や集団への盲目的信頼を持つことが気分的安心な心理構造を持っている。そのため疑うことを観念的に拒絶する性質があり、自律的論理検証に基づく批判精神を簡単に喪失する。
気分的安心ばかりを求めていれば、必然的に本能習性に従った「結果」にしか至ることはなく、自律的自発的に選択すべき「目的」を簡単に喪失する。
目的がなければ結果しか導き出されないのは必然である。選択の余地以前に、自己自身の意識的選択自体が介在していないのであるから、結果以外には何も導き出されることはない。
本能的に気分的安心ばかりを追究していれば、本能習性の「結果」以外何も出てこないのは当たり前なのである。
イジメが横行している教室において、イジメられる被害者にならない最も短絡的選択は加害者に回ることである。目先の多数集団に迎合し、共通の排除対象を共有することに専念すれば排除差別の強度を競争することに陥る。
統合的な合理性を多少なりとも考えていれば、イジメが世間に露見すればイジメを行っている方が排除差別の対象にされることは誰もがわかっているはずである。
シエラレオネの少年ゲリラの残虐性も、集団内部で残虐性を競争することで集団内部での評価を得ようとした結果であり。歯止めの効かない無意識による暴走の結末である。
競争とは原理であり構造である。シーケンシャルな機械的条件反射であり、無意識行動である。予め組み込まれた自己選択を一切介さない本能習性の結果に無為に流された結果が暴走を引き起こすのは当たり前である。
競争原理を利用して盲目的に学力競争に意識を整理狭窄化させるような教育をしているから誰も自律的に暴走を止める意思が働かなくなるのである。
子供自身の本質的な自発性を重んじる教育をせず、ただ均一な学力レベルの確保ばかり追究していれば、自律的に暴走を止める意思が働かなくなるのは当たり前である。それは教育者による短絡的ノルマ達成に過ぎず、文字通りの機械的「お役所仕事」でしかない。
機械手続き的制度に漫然と迎合しているだけなら問題が解決しないのは当たり前である。ヒトが引き起こす問題行動というものは極めて多様性があり、機械手続き的な社会制度では全ての問題に対応することは原理的に不可能なのである。機械的手続きに依存し、個人の自律的行動選択を全く行わなければ、そこには「人間」が存在しないのと同じである。
しかし、ヒトが引き起こす問題行動であれば、ヒトが予測し対処することは不可能ではない。所詮はヒトが引き起こしている問題であって人災であり、天災地災ではないからだ。
あらゆるヒトの引き起こす問題を解決するのは、ヒトの本能習性の結果や既存の制度法律ではなく。自律的な意思を持った人間による合理性のある対処対応である。
バカなガキと話を丸めて表面的に社会更生させることは簡単である。しかしそれは単なるご機嫌取りに過ぎず、何ら合理性のある対処対応ではない。バカガキが「マトモに向き合ってくれる大人がいなかった。」などと言っている時点で、自分の行動責任を他人になすりつけている根本的な観念は全く改善していないのである。
いちいち「マトモに向き合う大人。」という他人を必要とせず、自律的に自分の行動を抑制選択できるようにならなければ、本質的な人間性を獲得しているとは言えないのである。
制度、体制、法律に依存して自律的には何も改善しないことも、結局はバカガキと同じであり、無責任なのである。
「法律や制度が不十分だったから原発が暴走した。」などという戯言は、自律のないバカの言い逃れ/取り繕いに過ぎない。完全に当人達の自律的な社会的責任判断を無視し、社会制度に依存することを正当化しようとしているだけではないか。
こんなバカみたいな結論は要らない。
Ende;