書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

人災。

2012年07月21日 13時03分17秒 | 意識論関連

○人災。

事故調査報告書(ダイジェスト版)より抜粋。
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 本事故の根源的原因は「人災」であるが、この「人災」を特定個人の過ちとして処理してしまう限り、問題の本質の解決策とはならず、失った国民の信頼回復は実現できない。これらの背後にあるのは、自らの行動を正当化責任回避を最優先に記録を残さない不透明な組織、制度、さらにはそれらを許容する法的な枠組みであった。また関係者に共通していたのは、およそ原子力を扱う者に許されない無知と慢心であり、世界の潮流を無視し、国民の安全を優先せず、組織の利益を最優先とする組織依存のマインドセット(思い込み、常識)であった。

 当委員会は、事故原因を個々人の資質、能力の問題に帰結させるのではなく、規制される側とする側の「逆転関係」を形成した直因である「組織的、制度的問題」がこのような「人災」を引き起こしたと考える。この根本原因の解決なくして、単に人を入れ替え、或は組織の名称を変えるだけでは、再発防止は不可能である。

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 事故調査報告書には考え方の誤りが幾つか見られる。「組織的、制度的問題」が人災を引き起こしたとするということは、人災というものは組織を構成する個々人が作り出したものではないという考えに至ってしまう。

 組織にせよ、制度にせよ、これらもまた責任者などの個人が作り出したものであって、組織や制度の構築の際に問題意識が働かなかった「個人の資質、能力の問題」を無視して良いものではない。

 また、腐敗した組織制度といったものを放置した圧倒的多数の服従迎合者の存在においても、これもまた「個人の資質、能力の問題」に関わるものである。

 組織制度の構築の際に責任放棄や組織の利益ばかりを追究するような人格や、そうした組織の命令に無為無策に服従迎合してしまうヒトの動物的「社会性。」習性にこそ問題の本質根源があるのであって、結局は個々人の自律的な社会的責任意識の欠落にこそ、本質的な原因の根源が存在するのである。

 重大事象が発生した場合に限ってその都度組織制度の改善をしていたのでは、「その」組織集団における再発防止のシステム構築にはなっても、他の組織集団における予防的/想定的な危険防止策に応用性/汎用性を持ち得ない。

 法的整備に関しても、従来から述べているように機械手続き的条件反射しか行われることはなく、本質的な問題解決にはならない。脱法麻薬だのWebで誰でも知ることが可能な爆発物製造法については個人の自律的責任判断能力、すなはち「個人の資質、能力の問題」に依存するものであるからだ。

 危険学は航空機事故の再発防止策についても、組織的制度的な問題点は取り扱っていたはずである。にも関わらずそれらが原発の運営に生かされることなく重大事象に陥るまで放置されたのは、ひとえに予防的/想定的な危険防止策に応用性/汎用性がなかったからである。


 個々人に自律的な社会的責任判断が伴わなくなるのは、その行動選択に合理的論理検証性が働かず、利己本能や保身感情が優先してしまうという、極めて動物本能的な行動選択しか行われないからである。

 組織だの制度といった、自律的責任意識を必要としない他律的環境だけに全ての問題があるとするべきではない。

 組織的暴走によって取り返しのつかない破綻が生ずるまで放置されたのは、組織集団を構成する全ての個々人の無責任な迎合服従習性が関与していると考えなくてはならない。

 「組織依存のマインドセット」そのものの原因にまで言及しなければ、本当の意味における根源的原因を究明したことにはならない。社会心理学的原因であるとしても工学が扱ってはいけない理由など存在しないのである。

 一体どれだけの「取り返しのつかない破綻」を繰り返せば危険学はヒトに普遍的に見られる動物的な服従迎合習性の問題を取り扱うようになるのであろう。

 東電に対しては「想定外で済まされない。」と論じておきながら、事故調査委員会は「検証範囲外。」と称してヒトの動物的な行動習性の問題点については無視するつもりであろうか。

 このまま本能的な社会形成習性の危険性を放置しておいて危険学としての社会的責任を果たしていると思われたら話にならない。

 何度も同じ過ちを繰り返すから「バカ」なのである。応用性/汎用性/可搬性のある、あらゆるヒトに対する危険防止対策にまで言及しなければ、何度でも「取り返しのつかない破綻」は繰り返される。この事実を意識から外し、無視し、「検証範囲外。」などと称して放置することは工学上での責任は果たしたことにはなるとしても、人間としての社会的責任を果たしたことにはならないぞ。

 東電社員が命令に服従することであっても「東電の社員としての責任。」は果たしたことにはなる。それはすなはちオウム教団の幹部が教祖の命令に服従しても「教団幹部としての責任。」は果たしたという理屈になってしまうのである。

 「想定範囲」や「検証範囲」といった検証の限定性というものは、責任回避の意識狭窄性に他ならず、理論的には許されるべきことではないのである。

 学校におけるイジメの問題も、断片的な個々の嫌がらせだけを取り上げれば「些細な出来事。」で済まされるようなものである。しかし、閉じられた教室内での同級生という組織的な統率的協調行動の結果としてのイジメというものは、大人になってからの差別排除や体制組織への服従迎合性の醸成にまで発展しうるものであり、あらゆるヒトの本能的行動習性にまで言及しなければ、本当の危険学の社会的意義は失われる。

 過ちが起きてから文句をたれるだけならバカでも出来る、畑村洋太郎がバカなのかどうかは、これからの危険学の発展次第であろう。

 「例外や想定外なく検証することが必要。」と述べておきながら、「工学としての検証範囲。」を根拠に個人の意識の重要性を無視するというのは支離滅裂で無責任である。勿論単なる悪者探し的な「処理手続き」を目的とするのではなく、あくまでヒトが陥りやすい傾向性を抽出し、意識的に陥らないように意識喚起に用いることが出来るようにすることが大切である。

 組織依存的な服従迎合性というものは、ヒト全般に普遍的に見られる本能的な習性傾向性であり。ヒトである以上誰であろうと傾向性を認識し、錯覚に起因する誤りに陥らないように努める義務について、基本的に例外は認めるわけにはいかない。

 「工学」というシバリを根拠に例外を認めろというのであれば、公的機関ではどこも研究は進まないであろう。脳科学も認知科学も社会心理学も哲学もクソの役にも立たず、危険学以外にはどこにも期待出来ないからである。

 工学系の研究者というのは、生物学的傾向性や習性というものについて「複雑過ぎて面倒臭い。」などと論理検証を放棄する傾向がある。故に本来理系に分類される生物学系研究者達の誰も無意識的な「結果。」と意識的選択としての「目的。」の明確な区別も一切されてこなかった。哲学に至っては完全に文系観念に染まった大衆人気取りしかしていない。これではヒトという種の生物に普遍的に見られる習性の危険性は放置されたままに、普遍的応用性を獲得することが出来ずに何度でも同じ過ちは繰り返されてしまうのである。

 学術研究というものは、楽観的であることも時には必要であるかも知れないが、何に楽観するかの選択には合理的判断が必要なはずである。いつ起こるか原理的に予測不能な超新星爆発だの恒星バーストを心配してもどうにもならないが、こと人災に関わる予測可能性を持った事柄については常に悲観主義を貫くべきである。意識的に回避可能性を持った災害であるからこそ「人災。」と分類されるからである。

 危険学というのは義務教育レベルから学ばせるべき人間としての基本的な社会的責任判断の重要性を認識させるための教材として有効なはずである。分数の割り算よか人間として重要じゃないのかよっ。

 イジメという統率的協調行動によって、ヒトは無意識的に差別排除に陥るものであることを認識することによって、自律的にイジメを抑制できるようにしておくべきである。オランダの義務教育では普通に出来ているのに何で日本の教育機関が出来ない理由があろう。

 力のある「上」の者に逆らうことによる差別排除を避ける保身のために、既存の組織体制といったものに対して無為無策に服従迎合してしまう動物本能的習性がイジメなどの組織的暴走をも助長するのである。このことを個人が意識的に認識していればあらゆる無意識的暴走は予防可能なものであり、あらゆる「人災」に対する抵抗力となりうる。

 学校でのイジメも、シエラレオネの少年ゲリラの残虐行為も、ナチズムによる大量虐殺も、原発暴走と同様「人災」なのである。

 無意識的なヒトの多くが、他人を上下関係でしか測ることが出来ない習性があり。これこそが本能的に組み込まれた動物的な「社会性」、社会形成習性の無意識的「結果。」であり。子供じみた観念を放置しておけば野良犬よろしく狂暴化するのはヒトの習性として必然である。

 生物学系学界は従来無意識的な「結果」に観念的な事後正当化のこじつけしかしてこなかった。それこそが気分的満足によって論理検証を喪失していた原因である。

 社会心理学的実験室による「実証」を必要とするのは、それを業績と認めてもらうための姑息な動機によるものであり。学術上における「常識」もまた一種のマインドセットに過ぎず、根本的な問題意識自体が欠落しているからである。

 現実社会における現象であるなら、既に山程存在する。オリンパス取締役達による粉飾や、大王製紙会長の横領、西武グループ会長のインサイダー取引、ナチスやポルポトやソマリアの虐殺、シエラレオネの少年ゲリラの残虐行為、これらは全て組織依存的なマインドセットが関わっており、全て「人災。」の一種なのである。「本能的習性=天災」というのであれば、これは自律的には何も行動選択することの出来ない単なるケダモノの戯言でしかなかろう。

 シエラレオネの少年ゲリラや子供のイジメに対して組織体制だの法的整備が何の役に立つであろう。ましてや単独犯罪である通り魔の行動選択には全く意味を成さない。通り魔が主張する「バスジャックをやったら凄い。」「重大犯罪を犯せば認めて貰える。」などという身勝手な決めつけも、あくまで集団内部における合理性のない固定観念によるマインドセットの関与なしには有り得ない。あらゆる無意識的な固定観念というものは意識的論理検証性の欠落が招くものであり、単なる個人的好き嫌いを普遍的価値観と錯覚することで生ずるものである。

 何が錯覚で何が錯覚でないのかを認識するのは、観念的バランス問題などではなく、あくまで意識の問題である。

 錯覚を錯覚と認識していないから子供じみた過ちが減らないのである。

 東電による組織の利益優先というものも、要するに「お菓子を独り占めしたかった。」という子供じみた欲望が優先しただけのことである。どんなに巧妙な組織的隠蔽や協調行動を行ったとしても、それはイヌでも行うことが可能な本能的協調行動の「結果」に過ぎない。そんなものを知能として取り扱う生物学系学界には何も期待することは出来ないのである。

 本質的知能とは第一に社会全体の安全性や持続可能性を優先する個人の統合的な自律判断にある。たとえそれ以外の一面的能力がどんなに高度であろうと、自律が欠落していれば単なるバカに過ぎず、人間としての価値は存在しない。


 以前にも書いた記憶があるが、大抵の場合「私はこう考える。」と述べている場合、単なる固定観念による思考停止を正当化している場合がほとんどである。「組織制度に問題の根源があると考える。」と事故調査委員会は述べているが、それは実際には「考え」ではなく、これもまた思考停止のための一種のマインドセットに過ぎない。

 言っている本人がマインドセットにかかっていながら、他人のマインドセットを指摘する権利はなかろうて。

 組織制度自体の問題点を放置したのは、組織を構成する個人の無責任性である。そこにはあらゆる組織や集団に共通する「ヒト」の統率的協調行動習性/社会形成習性による錯覚や意識撹乱が関わっていることは明らかである。故にバカみたいな組織依存のマインドセットに起因する暴走が繰り返されるのである。

 事故調査検証委員会自体に作り出された「常識」に囚われ、原因究明を途中放棄して良い理由はない。最後まで徹底的に究明したくないというのであれば、それは最初から自発的意欲興味が無かったと言われても仕方ないことである。

 「要求されたから、やっただけ。」であるからこそ、中途半端なことしか出来ないのであり。組織を構成する個人が全員中途半端な判断しかしないから、組織依存性が生ずるのである。

 過ちを犯した組織団体を糾弾して正義を振り回したフリをしておけば、大衆観念的には安心満足によって思考停止に陥ることも簡単であろう。それで本質的な社会的責任を果たしたつもりになっても、単なる自己満足のまどろみに溺れているだけであり。本質的には責任の途中放棄なのである。


Ende;
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削ってみた2。

2012年07月10日 17時42分13秒 | 日記
何も見ないでベキちゃんを削ってみたつもり。

似てないかな。微妙だな。
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低温発電。

2012年07月10日 17時40分55秒 | 日記

○低温発電。

 2012年7月8日放送のTBS「夢の扉。」で低温発電という新しい技術を紹介していた。

 通常100℃以下では水は沸騰しないために水を用いたタービンでは発電することが出来ないのだけど、沸点の低いフロンを用いて、更にタービンではなくロータリーコンプレッサーを用いることで100℃以下でも発電することが出来るのだそうです。

 構造的にはエアコンの室外機を逆さまに利用したことになるのかな。

 100℃以下でも発電可能ならば、軽水炉の使用済核燃料の熱も利用できるようになるかも知れないし、従来温度が低くて捨てられていた熱源のほとんど全ては利用可能になる。

 ヒッグス粒子よか凄い発明なんじゃないかね。ノーベル賞ものなのでは。


 低温発電って言うけど、低温から動力を得る技術なので、エアコン回すなら一度電気に変換せずに取り出した動力で直接エアコンのコンプレッサーを回した方が効率が良さそうな気もする。


 話は違うけど、エアコンのコンプレッサって人力では回らないのかね。意外と人力エアコンって涼しいんじゃないだろうか。少なくともスポーツジムでエアロバイク漕ぐならエアコンのコンプレッサも回したら良かろうと思うのだけれど。


Ende;
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原発事故調査報告書。

2012年07月10日 17時35分53秒 | 意識論関連
 pdf形式で一般公開されていました。

委員会による事故調査報告書 http://naiic.go.jp/report/

 600ページを超えるボリュームですが、テキストベースなので意外とデータ量は少なめです。
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対策。

2012年07月10日 17時33分47秒 | 意識論関連


○対策。

 原発にせよイジメにせよ、重大な被害が出ないと誰も対策をしない傾向がある。

 重大な事象が発生する前から多数の事象が発生しているはずであり、これを見落としたり、些細なことであるとして無視しているから事象が重症化するのである。

 ヒトには先天的に多数派同調バイアスや正常性バイアスという無意識的行動バイアスが存在し、これによって論理的危険性認識を阻害することが少なくない。

 っつか、構造的に認識可能な危険性認識を阻害するのはこれしか存在しない。

 文系者であれば本能と理性をバランス問題にすりかえることで思考を停止し安心満足することが出来るであろうが。バランス問題というのは個人的な程度問題に過ぎず、全く論理的根拠を持たない実証不能の観念に過ぎないのである。

 文系哲学者達はドストエフスキーを読んで、気分的に共感すること、感動することによって、あたかも精神的な救済を得られることが社会的に意味があると思い込むらしいが。どんなに感情気分本能を満足させても社会的意味の論証には全くならないのである。感情気分本能を満足させるだけなら単なる無意識的行動バイアスに過ぎない。

 イジメによる自殺にせよ、原発の暴走にせよ、こうした重大事象の発生の陰には必ず多数の予兆というものが存在する。重大事象の予兆というものを、それと認識せずに観念的基準によって「些細なことである。」と勝手に見積もり無視するのは無意識が促す正常性バイアスによって重大事象への進展の可能性を無視する性質があるからだ。

 些細であるかどうかというバランス問題にすりかえれば、個人的な程度問題にすりかえられてしまうのである。事象が重症化した後になって「問題だと思わなかった。」と下らない言い逃れするのは簡単である、それは無能者の取り繕いに過ぎない。

 物事の優先度というものを、ヒトの多くは気分的安心によって選択しがちである。実際に原発が暴走したり毒ガステロが実行されるまで、多くの関係者達は気分的に安心することによって危険性を無視してきたのである。

 東電社員もテロ実行犯も認知症と診断されることはないであろう。それなら認知症よりも無意識な組織的暴走の方が社会的危険優先度が高いのは明らかである。「認知症になるぞ。」という強迫観念を利用した脳トレ類による世間的人気取りばかりに血道を上げる脳科学者やマスコミというのは、明らかに社会的問題意識を不具にする悪質なペテンである。


 事象の重症化の過程において、組織を構成する個人の問題意識の欠落が組織全体の無意識的な「体質。」というものを生み出すのである。

 イジメというものも教室の「空気。」などという雰囲気に多数の生徒が無意識的に迎合してしまう本能的な社会形成習性による行動バイアスが促す「結果。」である。

 東電の無責任体質というものも、企業組織を構成する個人の問題意識の欠落が無意識に作り出して「しまう。」ものであり。組織的暴走というものは特定の誰かによって作り出すことが出来るようなものではない。

 オウム教団による一連のテロにおいても、教祖自身には具体的目的はなく、教祖自身は単に権威性を維持することや信者達からの盲目的信頼を得ることによる気分的満足を追究しているだけであって。何ら具体的目的など存在しなかったのである。

 また、幹部達も「人類の救済。」などというキャッチーな謳い文句につられ、結局は自分達の気分的満足を満たすことしか求めていなかったからこそ、誰も教団の組織的暴走を抑えることをしなかったのである。

 問題意識がなければ問題は解決しない。当たり前の話であるが多くのヒト達には問題意識が欠落していることすら認識したがらない。

 ヒトの多くは物事の優先度を気分的基準で選択しがちである。個人的好き嫌いの範疇なら構わないが、社会的危険性に関わる判断を個人的気分で行えば、本能的な社会形成習性によって集団組織に迎合し暴走に無意識に加担することに陥るのである。

 現状の世間という組織集団の空気や体質に迎合し、現状体制を盲目的に信頼しているのであれば、これは洗脳状態と同じであり、組織的暴走や無為無策な怠慢を誰も止めることは出来ない。

 ヒトの多くは「自分だけは大丈夫。」と合理的根拠もなく観念的に自分には何の問題も存在しないものであると思い込む性質がある。自分の行動に問題がある可能性を認識することが気分的に嫌であるために意識の上から外し満足したいという本能的で反射的な思考停止シーケンスが脳にはある。

 本能的に論理検証思考を停止する習性傾向性があるからといって、思考停止する以外に一切の選択不可能が存在するかのように言い張ることは許されない。それは単なる社会的無責任であるからだ。


 教育機関においてイジメに対する具体的対策が一向に進まないのは、組織を構成する個人が組織の体制維持や責任逃れにばかり意識を奪われているからであり。隠蔽体質というのは個人の問題意識よりも責任逃れが優先していることの顕れである。



 イジメの場合は大人が関与することによって子供達集団によって無意識に作り出される差別意識というものの社会的害を考えさせ、認識させることが可能であり。こうした社会的害というものを個人が自発的に考えるようになることによって無意識的な組織腐敗や暴走への抑制力を育み、大人になって企業団体に所属した場合にも組織的暴走の抑制も可能になるのである。

 イジメというものは単なる自殺だけの問題ではなく、ヒトの自律的責任意識の崩壊も促す重大事象の根源にもなりうるのである。

 イジメられないようにするには周囲に迎合することで個人的には回避可能なものである。差別排除という本能的な行動習性に抗うことなく、事後正当化として「イジメられる方も悪い。」などと言い逃れすることによって自分だけは正常であると言い張ることも簡単であろう。

 実際にはイジメというものは、イジメられる対象自体は誰でも良く、教室内部で特定の個人を攻撃差別排除するという集団の協調性/本能的社会形成習性の暴走の結果に過ぎない。

 特定個人を攻撃することによって、集団の結束力を信頼出来るような錯覚に陥って満足しているだけなのである。それ故シエラレオネの少年ゲリラ達の残虐行為のエスカレートを招いたのである。暴走を抑制し、自発的に無意味な差別排除を論理的に認識させることをしなければ、ヒトの子供というものの残虐性はいくらでも暴走するものなのである。


 先日司法裁判で「イジメがあったとは認められない。」という判決が下ったが。司法というものは悪者探しをして賠償だの刑罰の妥当性を決定するだけの機関であって、イジメの科学的検証による根本的原因究明や再発防止策の確立には全く結びつくことは構造原理的にない。民事裁判というものは全てを金額に換算することだけが目的であるために、論理的検証も再発防止にも一切ならないのである。

 むしろ危険学のような工学的原因究明においては、司法裁判というものは「悪者探し。」にしかならない障害扱いなのである。そもそも刑罰が再犯低減に全くならないことは永く言われてきたものなのである。

 重大事象の根源的原因究明や再発防止策の確立のためには独立した検証研究組織が必要であり、司法裁判よりも優先されるためにも内閣直轄でなければならない。

 原因究明や再発防止というものは司法ではないので、法手続き的にも問題はないはずである。そもそも法手続き上の問題を優先して実社会の問題を蔑ろにするというのは役人特有の責任逃れに過ぎない。

 法手続き自体は「目的。」ではない。法律に従わせることによって司法や警察というものは気分的安心満足を求めているだけであり、何ら実質的な問題解決には結び付かない観念だけが司法の存在の根拠になっているのである。

 「やられたら、やりかえす。」というのは子供の論理である。司法における刑法とは子供じみた報復主義を根源とした合理性のない観念によって維持されているだけなのである。

 法治統制というものは、あくまで立法機関が制定した法律に基づいた決定しか出来ないものであり、立法機関に判断責任を丸投げした機械手続きしか行わないものなのである。

 これは一種の統制された暴走であり、故に実質的な問題解決能力が全く機能しないのである。

 軍隊の文民統制と同様、司法もまた立法機関による統制によってのみ暴走を抑制されているだけなのである。

 民主主義制度を採用している日本においては、民衆がバカなら何も問題解決には至らない。共産主義なら論外であろう。


Ende;
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組織的暴走。

2012年07月10日 17時32分56秒 | 意識論関連

2012.7.9 1:43
○組織的暴走。

 文系大衆観念的にはヒトラーやポルポトのような特定独裁者さえいなければ虐殺は起こらないと「思う。」ようだが、これは大きな間違いである。

 虐殺などの組織的協調暴走というものは、むしろ特定独裁者に対して疑問を持たなくなる圧倒的多数の服従性や、その多数の行動への迎合性によって生ずる無意識の結果であって、偶発的に特定個人が独裁者として無意識に祭り上げられただけである。

 特定独裁者だけが悪いことにしておくことによって、多数の文系大衆観念者達は自分達の免罪符にすりかえようと無意識にしているだけであって。こうした自分達の愚かさを認識せずに無視しているからこそ組織的協調暴走行動というものは原因を認識することが出来ず、結果的に対策も立てられないからこそ再発防止対策も全く出来ないのである。

 文系大衆観念的なヒトの多くは「自分達だけは常に正常で安全である。」と思い込む性質があり、故に自分達の行動の全てを全く疑わないために、意識の9割以上を占める無意識的行動習性の結果であっても「意味。」があるという事後正当化によって気分感情的に安心満足してしまうために、無意識な本能習性に原因があることを認識したがらないのである。


 こうした文系大衆観念というものは、物事の正誤を論理的検証を行わずに、既に無意識的に刷り込み学習された固定観念に基づいた気分感情的な安心満足によってのみ判断するために、ヒトの多くは実証不能の観念を振り回すことの原因を認識することが出来ないのである。

 生物学者や哲学者の多くは物事を論理検証出来ない文系観念に囚われているために、無意識的な行動の「結果。」と、意識的に選択された「目的。」の区別を観念的に拒絶するのである。

 生物学者や哲学者達は、自分達の論理検証性の欠落を世間的に認知されることによって、自分達のバカさが露顕することを拒絶し、組織的に体制維持のために極めて感情的に本論を拒絶するのである。

 彼らにとっては論理的事実認識の拡大よりも、保身のための体制維持が優先されるのである。

 組織体制の腐敗というものは、その内部に本質的合理性を追究する論理検証性が欠落しているために発生するのであり。論理整合性もないカントの純粋理性批判を論拠に、カントの権威性を用いて合理性追究の正当性を否定し続けるのはペテンに過ぎない。


 文系大衆観念上において論じられる合理性追究とは、習性本能や利己的欲望が主体の合理的判断に過ぎず。合理性自体を主体とした理性的判断のことを論じていない。

 習性本能や利己的欲望による行動選択が主体であれば、これはあくまで本能主体の断片的合理性に過ぎず、合理性自体は追究していない。

 論理的には合理性追究ではない話を合理性追究であると錯覚し、合理性追究を批判し続けるというのは、単なるバカに過ぎない。



 組織集団の暴走というものは、その組織を統率する特定独裁者の暴走を、多数が支持することによって引き起こされるものであり。支持する多数なしに組織的暴走は生ずることはない。頭のおかしいオッサンが「ユダヤ人を絶滅させるのだー。」といくら一人で喚いても、服従する多数なしに組織的実行は有り得ない。

 イジメなどの小さな暴走においても、やはり特定の独裁的役割を持った統率者が存在し。本能的に組織化された封建的社会を形成する習性の結果として、観念的な好き嫌いを基準に差別排除というものが行われる事になる。

 組織的暴走というものは、社会の破壊や排除差別を目的としているわけではなく。本能気分的な安心感を維持するための集団組織の体制維持の結果として、無意識に破壊や差別排除に陥るのである。


 独裁的役割として統率を行う者の無意識的な本能的選択としては、組織的暴力などの力を用いた合理性の伴わない観念的強制力が優先される。ヒステリックでキレやすい自制心の欠落した危険な者の命令に無為無策に服従迎合する無意識性こそがイジメなどの差別排除を作り出すのである。

 ヒトは初期的には動物であるから、行動選択は感情気分が優先されがちである。従って本能習性によって無意識に促される統率的な協調行動というものは意識的目的を必要とはせず、あくまで気分感情的な安心満足を求めた「結果。」であり、意識的に選択された「目的。」というものは存在しないため、方向性のない排除差別などの暴走を引き起こすことに陥るのである。

 組織的暴走である差別排除や破壊行動というものは、あくまで無意識な本能によって促される社会形成習性の「結果。」であり。結果の原因である本能自体の自律的抑制なくして原理的に暴走を抑制することは不可能である。

 差別排除というものが発生した場合、そこに持続可能性や安全性が存在するのかどうかを集団の個々に考えさせることが重要である。考えもなしに漫然と無意識に本能習性に流されているから差別排除に対する対策が進まないのである。

 ところが、大人自体が自発的に何も考えずに、漫然と無意識に本能習性のままに流されて長い人生を生きてきた場合。虐待の連鎖的に思考停止を子供にも強制する場合が少なくない。養老孟司が論じた「私は30年間安月給で働いてきた、そこには意味があったんだ。そう思わなきゃやってられない。」などという、観念的な事後正当化の取り繕いを強弁する性質がヒトにはある。合理性のない実証不能の観念であるが故に、ヒステリックに強弁しなければならないのである。

 ヒステリックに強弁する相手に対し、ヒトの多くは無意識的に観念し、批判拒否する意欲を喪失して迎合することによって気分感情的な満足をしてしまう傾向がある。これこそが集団洗脳的な「実証不能の観念。」の原因である。

 原因がはっきりしていれば対策自体は理論的にはシンプルである。気分感情に流されずに常に合理的検証に基づいた理性的判断を下せば良いだけであるが、ヒトの多くは自己の感情気分に逆らうことが困難である。

 しかし、幼少期から自分の感情を抑制することに慣れ、本質的な合理性を追究する自発的思考による「意思。」を持っていれば、自律的に社会的責任判断を行う可能性は高めることが可能である。

 これは常に絶対に可能である論証がないから、やらなくても良いというレベルの話ではない。可能性を可能な限り高めることは社会的責務であって、ニーチェ的に「出来そうにないことを、自分に要求するな。」といった短絡的精神救済によって気分的に満足し意識から外すことは傲慢な無責任に他ならない。

 ナチズムの暴走というものはニーチェのゾロアスター教によって促されたことは明白である。思考停止を促すことによる気分的満足/精神的救済というものは実証不能の観念を強化することはあっても、論理的検証を促すことは原理的にない。





Ende;
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耐性。

2012年07月10日 17時32分02秒 | 意識論関連


○耐性。

 イジメ話が問題にされると、必ずイジメられる方の耐性だとか弱さを問題にするバカがいる。

 そもそもイジメというものはイジメを行う方の多数集団に迎合してしまう精神的弱さが原因であって、カルト宗教的な暴走であるから歯止めは効かず、イジメられる方は圧倒的少数であるから強いだの弱いだのを論ずるのはあまりにバカげている。

 生物学的な「強さ。」を論じるなら、自殺に追い込まれる方が生物学的に劣っているだけであって、自殺による淘汰も正当化されるのである。

 おいらもイジメられてたけど、最後にはぶちギレて首謀者を後ろから首を絞めてやって引きずり回して全員黙らせたことがある。ぶちギレたことを「強い。」などと言うのであれば、通り魔は英雄である。

 そんな感情的/生物学的「強さ。」が、社会的に何の意味があろう。

 だから「生存自体に意味はない。」と言っているのである。

 自殺自体を違法とすることに意味はない、何ら抑止にもならないからである。

 ヒトの多くがバカで、誰にも自分達の習性本能的行動を抑制出来ない社会であるならば、尊厳に基づいた自殺は論理的正当性がある。

 生物学的な「強さ。」に基づいて、生存自体に意味を求めるなら、シエラレオネの少年ゲリラは「正しい。」ということである。

 何の考えもなしに「イジメられる方の耐性。」などと訳のわからぬ実証不能の精神論を振り回すのは、「ナチズムによって虐殺されたユダヤ人が生物学的に弱かったからである。」と言っているのと同じであり、故に生物学は優生学を否定しないのである。

 それはキチガイの論理という以外になく、生物学界はカルト化腐敗していると言っているのである。


 学生の自殺を抑止するなら、「学校に行かなければならない。」という観念を捨てることである。イジメがあるようなバカの集団に馴染んでも、何ら人間性は養われることはなく。むしろ統率的協調性による非人間性ばかりを無意識「学習。」するだけである。

 統率的協調性というものは、ヒトの本能的社会形成習性によって自然と無意識に行われるものである。しかし、こうした本能習性も本質的自発性による行動選択が伴わなければ、本能習性だけが暴走することになる。シエラレオネの少年ゲリラの残虐性というものはガキの集団だけで放置しておけば勝手に陥るカルト状態である。

 教育委員会や学校による組織的事実隠蔽というものも、いわば統率的な協調性の賜物である。彼らは自分達の組織体制を維持することにおいて世間的に「成功。」しているからだ。公になった問題なら「失敗。」とも言えるであろうが、ハインリッヒの法則に従えば、表沙汰になっていない「成功。」が大量に存在すると考えるべきである。だからこそイジメの問題は全く改善進展が見られないのである。

 大人が子供のイジメを止めようともしないのであれば、子供達は「イジメはなくならないものである。」などと刷り込み「学習。」するであろう。そんな子供が大人になって教師の立場になってしまうから誰もイジメを止めようとはしなくなるのである。

 こうした一種の「虐待の連鎖。」というものは、無意識的に刷り込み学習によって漫然と繰り返されるのである。

 東電による原発暴走も、「津波の影響を考慮に入れれば、日本の何処にも原発は造れない。」などと言う実証不能の観念に迎合した協調性「社会性。」によるものであり、多数に迎合することを学校で刷り込み学習された子供達が、大人になって企業に入っても無為無策に上司に服従迎合するしか出来なくなってしまったからである。

 アインシュタインが権威や力によって学生を強制力によって服従させることの危険性を「従順な臣民。」と形容したのは、従順なだけで自発的に何も考えなくなったヒトというものは、自律的に社会的責任も負わなくなる危険性を「後に重大な障害をもたらす。」と論じたのである。

 イジメをやめさせるということは、すなはち人間としての極めて基本的な行動選択をさせることであり。こうした本質的な人間としての社会性を形成しなければ、子供達の誰も自律的には社会的責任を負わなくなる。

 「どうせイジメはなくならない。」という話には、合理的根拠はなく。ただ単に「今までずっとそうだった。」ことを無意識的行動学習することによる、気分的な「諦め。」に由来する実証不能の観念に過ぎない。

 諦めてしまうことは本能的に楽で、自然な行為である。故に思考が停止し無為無策に陥る「習性。」なのである。

 自然のままに任せておけば、ヒトから残虐行為は無くなることはない。ヒトとは初期的には残虐性も持ち合わせているのが現実であるからだ。

 ヒトという種の生物のオスは、生殖能力の高い若い女性を強姦したがる習性がある。しかし、こうした本能的行動というものは遺伝的に組み込まれたシーケンシャルな無意識行動の「結果。」でしかなく、強姦した後に女性を殺害することによって社会的事実隠蔽を行う場合も少なくない。そこには当人の目的意識は存在せず、ただ機械手続き的条件反射行動としての本能習性行動の結果しか存在しないのである。

 本能的行動習性というものに生物学的こじつけ/事後正当化をするのは簡単であろうが。実際には本能習性行動の結果というものには結果以上の何ら目的意識が存在せず、全くもって無意味である。

 「自分に娘ができて、初めて社会安全性の大切さを知った。」などという話は、要するに予測能力の低さによる合理性が全く追究できていなかったバカさを論じているだけであって、最初から社会がどうあるべきかという自発的「意思。」の欠落による意識狭窄によって、予測自体を全くしていなかったからである。

 現状世間に迎合服従するだけであるなら、何が起きても文句を言う権利はない。子供であるなら大人の作り出した世間に迎合するしかなかろうが、子供が大人になる過程において自発的に個人自身が合理的に「考え。」るような環境を整えなければ、世間は従順なだけの無為無策な文系観念に染まった凡人の暴走を誰も止めることは出来なくなる。

 っていうか、既にあちこちで暴走してるけどな。

 だから教育っていうのは「教えたことをただ正確に行える。」だけではダメで、自発的に疑問を持つことを自分自身でも否定せず、また他人からも否定されないような環境によって持続できるようにし。諦めずに疑問や謎を探求する強い自発的意思を育てることが重要なのである。

 自己の保身や生存を優先すれば、原発が暴走してでも腐敗組織や世間に迎合服従している方が「正しい。」ことになる。それならイジメで自殺が起きても自殺した奴がバカで弱いだけであって、イジメを行っている多数には何の問題もなく医学的には「正常。」だと言えるであろう。

 医学的には多数は「正常。」なのであり。それなら少数である「異常。」個体は生物学的には淘汰の対象でしかない。

 イジメのある学校の中で多数に迎合し、イジメられないように加害者になることは生物学的には「正常。」なのである。

 何の疑問も持たずに、無為無策に陥っている多数の観念を鵜呑みにすることは「正常。」なのである。

 多数がバカである場合、バカこそが「正常。」なのである。それが「現状。」というものである。

 そんな「正常。」性を漫然と放置しておいて、社会的問題が解決しないのは必然と言う他ない。

 現状というものは現実の断片であって、「これからどうすべきかを選択可能である。」という事実を無視するから現実逃避によって無為無策に陥ることになるのである。

 現実逃避をしておいて客観的事実もすったくれもあったものではない。

 生物医学的な「正常。」性というものは、生物種としての「ヒト。」の正常性しか規定してはいない。人間としての本質的正常性を論ずるのであれば、自律的に社会的責任判断を行い、諦めることなく問題や謎を自発的に探求する意思が必要である。

 遺伝子や素粒子の研究も結構だが、いかなる科学技術を開発しても、それを何に用いるかを選択する「人間。」が存在しなければ、あらゆる技術は暴走しか生み出さない。

 多数のヒト達が「それでも良い。」というのであれば、もはやおいらには何も言うことはない。



Ende;
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服従。

2012年07月10日 17時31分00秒 | 意識論関連

2012.7.6
○服従。

 東電の幹部達が管直人元総理の顔色を窺って適切な対処が出来なかったというのは、東電幹部達に自律的社会的責任判断能力がなかったことの著れである。

 首相が感情的にどのような命令を下そうとも、安全性を優先した適切な判断を優先すべき自律こそが東電幹部達に課せられた社会的責任というものである。

 東京電力という大きな会社の幹部になれたくらいであるから、世間的には成功していると言えるであろうし、年収もそれなりに多いのであろう。どんなに世間的に成功していようとも自律的に社会的責任判断が下せないのであれば、人間としては出来損ないに過ぎないのである。

 首相の命令に従わないことによって責任問題を観念的に恐れ、責任逃れとして命令に服従した結果として東電の幹部達は自分の責任を放棄したのである。

 管元首相の事故対応も感情的でヒステリックであったことも適切ではなかったと言えるであろうが、権威の命令に無為無作為に服従して良いことの理由には全くならない。


 人間としての本質的な価値というものは、当然学力だの年収で測れるようなものではないことは言うまでもないはずである。ところがヒトの多くは学力だの年収といった基準で他人の人間としての価値を測りがちである。

 ヒトの多くは世間的に成功している者の言うことを優先しがちである。その理由は世間的に成功することにあやかりたいからであり、単なる利己的根拠に基づいて本能的に優先しているだけの場合がほとんどである。

 現状世間において成功しているということは社会的責任判断能力=論理検証性に基づく自律の論証ではない。ところが多くの大衆凡民達は、現状世間において金儲けが上手いことと本質的人間性の区別も満足に出来ず、漫然と世間的成功=人間の価値という実証不能の観念に基づいた基準で判断してしまうのである。

 ヒトという種の生物は、その本能的な社会形成習性によって、観念的な基準による服従対象としての権威の命令を優先することで自律的な社会的責任判断にすりかえ安心満足するのである。論理的には無責任なこうした行動であっても、論理的検証ができない文系観念に囚われた者にとっては、気分的安心と論理的安全性の区別を全く行わない。

 マスコミは安心と安全をやたらとパック扱いしたがるが、気分的安心と合理的安全性の論証を混同することはマスコミとしての社会的責任を放棄しているのと同様なのである。


Ende;
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強制。

2012年07月10日 17時30分01秒 | 意識論関連

2012.7.5
○強制。

 柔道だのダンスだの、日本の教育機関というのは強制義務化が大好きだ。

 人間性を育てる教育において最も重要なのは自主性自発性であって、生徒に対して選択の幅を可能な限り拡げることが必要なのである。

 しかし、文系大衆観念上では、同じことを強制することによって「心を一つに。」だとか、本能的な協調性/統率性ばかりを重んじる傾向がある。そもそも文武両道が人間性/自律的社会的責任判断能力の論証など全く存在しない文系特有の実証不能の観念に過ぎないのである。大人にとって取り扱い易い簡単な生徒を大量生産することというのは、言い換えれば大人の手抜きに過ぎない。


 世の中にはいろいろな説があるが、バカ役人というのは多数の説から話を丸めて中途半端な解答を導き出して満足したがる傾向が酷い。実証不能の観念と、合理性のある理論を中途半端に丸めてしまうと合理性は意味を失う。

 柔道選手が強姦したり、サッカー部や野球部の寮で大麻の栽培をしていたりするというのは、文武両道というものが人間性とは無関係であることの論証であり、論証が存在するにも関わらず導入するというのは、そこに論理検証が全く働いておらず、ただ単に話を丸めて多数派からの評価だけが目的であるからだ。

 要するに日本の教育機関や役人共は、言われたことを言われた通りに実行することによって、権威や多数からの評価/報酬だけが目的であり。故に論理検証性も一貫した方針も全く存在しないのである。

 当人に自発的自主的な目的意識に基づく合理的方針を選択する「意思。」がないということは、これは無意識な暴走状態と同じであり、カルトや通り魔の思考パタンと全く同じ環境依存性な無意識的選択しかしていないのである。

 多数の説から話を丸めておけば、目先の責任からは逃れることが出来るであろうが。社会全体における教育機関としての責任は放棄しているのと同じである。

 この種の話をしだすと、「一体どうすりゃいいんだ。」と言い出すバカが非常に多いが、これはすなはち「どうすべきか。」という主体的方針を合理的に検証する本質的意識というものが最初から存在しないからである。

 無意識で「どうすれば良いのか。」を多数や権威に依存するようなバカが、この日本では大量に蔓延ってしまっているために、合理性のある教育方針や手法というものが全く行われないのである。


 そもそも、このように本質的には自発性がないバカというのは、選択が本能感情によって無意識に決定しているために。本能感情的にヒステリックに主張したがる傾向があり。話を丸めて平均値をとっておくことしか最初から出来ないのである。たとえ犯罪にならなくても無意識な集団というのはカルトに過ぎない。だから教育委員会が事実隠蔽をし自分達に都合の良い事しか公表しないのである。

 合理性のある論理的検証が出来ない文系観念に囚われたバカが教育機関を牛耳っている限り、自主性自発性を重んじ自律のある「人間。」を育てることは出来ず、結果的にはカルトや通り魔の再生産を促しているのと等価である。

 柔道の強制によって生徒が亡くなったりするのは、教育機関自体がカルト状態であることの著れなのである。こうしたカルト教育を放置しておくからオウムに入信するようなバカが再生産されることになるのである。これは教育機関としての社会的責任を果たしているとは言うことができない。


 個人の主体性を重要視する教育方針というものはノーベル賞受賞者達の多くが唱えるものであり、逆に強制性や均一性を重んじるのはヒステリックな多数の親やカルト教育委員会に過ぎない。論理検証的方針を唱える人というのは、その方針の根源が理性であって感情や本能、固定観念ではない故にヒステリックには主張しないものである。

 こうした感情的に主張しない方針を軽んじるのが、無意識なバカ集団特有の「選択。」であり、これは主体的な論理的判断ではなく、単なる話を丸めただけの「結果。」であって、そこに意識的「目的。」は存在しない。

 現状世間において、感情的/観念的丸め込みこそが世間的成功になる傾向がある。それはヒトという種の生物の本能習性の「結果。」に過ぎず、目的意識の喪失を意味する。

 話を丸めて「うまくゆく。」という現状を短絡的に現実と主張するのは間違いである。それは現実の断片的論証に過ぎず、言うなれば「バカしかいないから、バカと話を丸めときゃ世間的にうまくゆく。」だけの話に過ぎず、何ら自律的な社会的責任判断とは無関係な欲望本能主体の意識狭窄なバカの論理に過ぎない。

 バカの多数決や、バカの成功結果をどんなに沢山枚挙列挙しても、そこからバカではない帰結には永久に辿り着くことは原理的に不可能である。


 強制からは自主性や主体的判断能力は育たず、本能的な服従性によって「従順な臣民。」を大量生産するだけである。服従することしか無意識的に「学習。」していない者であれば、自律的に社会的責任判断が出来ないのは必然的結果であり、原発が暴走するのも、天下りがなくならないのも必然の「結果。」である。

 主体的目的意識の存在しない集団組織は暴走するものである。目的のない集団組織は暴走以外には主体的に選択する意思が最初から存在しないからである。多数で暴走を無意識に放置しておいても責任逃れが出来ると、多くのヒトは「思う。」であろう。特定の誰かに責任をなすりつけ、特定の誰かに懲罰を与えておけば全ては解決したと錯覚することも簡単であろう。

 それは無思考なバカの論理であることを認識すべきである。




Ende;
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自殺。

2012年07月10日 17時28分40秒 | 意識論関連

2012.7.4
○自殺。

 大津市中学2年生自殺事件において、自殺を練習させられていたなどというのはカルト宗教と全く同じである。

 また、こうした事実を隠蔽していた教育委員会もまた、カルト宗教と何ら変わりはない。

 イジメなどの統率的で異常な協調暴力行動とカルト宗教や通り魔を別物であると考えるのは大間違いである。

 たまたま暴走の結果程度が毒ガステロなどによって、被害者の数の多さという結果だけで特別異常であると分類しがちであろうが、これは文系特有の大衆観念に過ぎず、論理的根拠など全くないのである。

 統率的協調行動によって異常な暴力を誰も止めることが出来ない状態こそがカルトの構造であり、カルトとは誰にも目的意識/合理的論理検証抑制が働かない無意識暴走状態を指すのである。

 教育委員会が率先して隠蔽/体制腐敗をしているというのは、いわばカルトを醸成しているようなものであり、極めて悪質である。言うなれば社会への反逆行為とも言える。

 生徒/ヒトというものはイジメを行うものであり、イジメに陥る行動習性が存在することを前提にしなければ原因も対策も進むことはない。教育委員会は自分達の保身のために不祥事を隠蔽するというのは、そもそもイジメが発生することを過失であると短絡的に懲罰的処分を対策であると錯覚するのは大間違いである。頭をいくらすげかえても構造的原因がかわらなければ何も変わることはない。

 失敗学/危険学のような工学的アプローチによってヒトという種の生物に普遍的に見られるカルト無意識状態に対する対策方法を確立するためには、責任=解任という短絡的な懲罰によって単に頭のすげかえばかりに終始するというのは、文系大衆観念的な気分的安心満足をしているだけのバカげた短絡的解決法である。

 情報を可能な限り公にし、共有することによって、何が原因であるのかを追究しなければ何も問題は解決することはない。そもそもイジメという犯罪行為を個人情報として隠蔽する必要性など一切ないのである、犯罪者を隠蔽保護しておいて社会安全/防衛策など確立されるわけがない。未成年だからといって被害者だけが報道され、加害者が隠蔽されるというのは著しく公平性に欠けていることを認識すべきである。

 加害者を隠蔽する理由とは、社会的制裁というヒステリックな懲罰を回避するためのものであろう。こうした大衆による観念こそが社会の諸問題の原因究明や再発防止策の確立を阻害する最も根源的「失敗。」なのである。加害者というものがなぜ加害者となったのかを冷静に論理的に分析することによって、これからのヒト達が同じ過ちに陥らないよう原因を究明し再発防止策を見つけることの重要性を、権威だけに丸投げせずに民衆自身が認識しなければ、文系大衆観念に迎合することばかりに執着する脳科学/生物学者達は自発的には何もしないからである。

 結果的に自殺という重大な結果に至ったからといって、子供のイジメというものは普遍的に存在するものであって、何ら特異なものではなく、ヒトという種に普遍的に見られる習性であり。むしろ重大な結果に陥った事例こそが顕著な傾向性を示すものでもあり、徹底的に原因究明を行う必要性がある。ハインリッヒの法則にもあるように、一つの重大事象には多数の兆候や顕在化しない事象が隠れているものであり、特定事象だけの問題ではなく普遍的対策として原因究明をすることは本質的な社会的責任でもある。

 地位だの利権の保持といった保身を優先に意識を奪われているから原因究明が途中放棄されてしまうのであり、文系大衆観念的な懲罰的解任解雇といった短絡的処理によって、むしろ原因究明や再発防止策が失われてしまうのである。

 大衆観念的には不祥事が発生すると解任解雇で安心満足したがるヒトは多いであろう。しかしこうした感情的でヒステリックな短絡的最終解決策ばかり繰り返すことこそがバカげているのである。地位や権利を放棄すれば気分的には安心満足するであろうが、それと不祥事の原因は無関係である場合がほとんどである。

 不祥事やアクシデントというもの、失敗というものはヒトである以上必ず起こすもの起こるものである。ましてや根源的原因究明が全く行われておらず、何ら対策法が確立されていないアクシデントであれば再発することは当たり前であり、文系観念的に懲罰的解決法を繰り返しても全く無意味なのである。

 アクシデントにおいて最優先されるべきは責任の所在「悪者探し。」ではなく、論理的な原因究明でなくてはならない。どのような原因究明を具体的に行っているのかを透明化し、その具体的な対策こそを評価すべきであって、アクシデントの発生の有無自体を直接評価とするのは理論的にも間違いなのである。

 「失敗。」は必ず発生する。失敗すること自体を悪とするのではなく、失敗に基づいた適切な原因究明と対策を行わずに懲罰刑罰によって安心満足してしまう頭の悪さこそが人類全体における最大の「失敗。」であることを認識すべきである。

 文系大衆観念上においては、ヒトは懲罰的な恐怖によって社会的責任を負うものであるとされているであろう。しかし「誰も見ていない。」状況環境においても自発的自律的に社会的責任を負うためには懲罰云々ではなく、あくまで個人が自発的自律的に統合的な本質的合理性を追究しなければならない。文系大衆観念によって自律的な社会的責任判断というものを無視してきたからこそ、人類は教訓を教訓として活かすことが出来ないのである。

 責任逃れという目先の欲望が優先してしまうから本質的合理性追究が途中放棄されてしまうのであり。これこそが社会的責任を放棄し、人間としての価値を失うことに陥るのである。どのような社会制度や環境、多数派の観念があろうとも、自発的/自律的に社会的責任判断を行う「人間。」でなければ権威や責任あるポストに就かせるべきではない。自律を絶対優先できないようなバカ文系学者はあらゆる学会から排除するべきなのである。

 馴れ合いで多数他人の顔色でしか判断できないようなバカが権威に就いているから世の中おかしくなるのだ。



 アイヒマン実験において、無意識的本能的に他人に危害を加えてしまうことはイノセントであろう。当人に罪の意識が存在しないのであれば、これは子供じみた単なる失敗に過ぎない。刑法などの懲罰によって安心満足するという子供じみた最終解決策を漫然と盲目的に信頼し続けることこそが、失敗から教訓を学ばなくなるヒトという種全体に見られる「失敗。」の原因なのである。

 無責任に権威や多数に丸投げしておけば、大衆凡民は安心満足であろう。しかしこうした安心満足という気分感情/精神の救済ばかりを優先追究しているからこそ、あらゆるヒトが引き起こす諸問題の解決策が喪失してしまうのである。

 ドストエフスキーなんぞ読んで満足しているポンコツ哲学者というのは、むしろ社会的負荷に過ぎず、税金の無駄遣いも甚だしい。具体的で合理性を伴う工学的な対策を伴わない文系特有の気分的満足こそが、失敗から教訓的に学ぶことを阻害する原因なのである。

 論理的に考えることが嫌な奴が哲学者として扱われているのが現在の大学の現状である。これこそが社会的負荷なのである。

 学生のイジメも、教育委員会の隠蔽も、カルト宗教も通り魔も北朝鮮体制も、これらは組織集団によって行われる統率的協調行動の結果である。本能的な社会形成習性によって結果的/無意識的に行われる統率/協調行動自体には意味はない。統率/協調行動という力を何に使うのか、その方向性を選択するのは論理的合理性を追究する本質的意識である。方向性を持たない統率/協調行動だからこそ、それがイジメや体制腐敗といった反社会的「結果。」を招いてしまうのである。

 懲罰という、精神論的な短絡解決策で安心満足してしまうから思考停止に陥り、原因究明も対策も行われなくなってしまうのである。失敗学などの工学的アプローチにおいても、刑法などの世間的懲罰こそが原因究明の大きな壁となっているのであり、故においらは刑法廃止論を提唱するのである。少なくとも原因や対策が明確になっていない事象に関しては一時的にでも懲罰による「解決。」を停止し、徹底的に原因究明を行う必要性がある。

 政治の問題というのは民主主義制度国家においては、民衆の責任であることを忘れるべきではない。議員先生様に丸投げお任せパターナリズムを発揮して満足していることは、単なる無責任であり未失の反社会的行動選択でもある。


 以前自殺対策としての精神的救済の必要性についてコメントを頂いたことがあるが、こうした精神的/気分的救済というものは対処療法的な一時的でその場限りの臨床的対策以上の価値はない。イジメなどのカルト的統率/協調行動という根源的なヒトの習性に対する対策を行わなければ、根本的に自殺対策にはならないのである。

 臨床とは、言うなれば現場の正義でしかないのである。臨床医学だけに自殺対策を丸投げしておくことは、むしろ社会全体の無責任性とも言えるのである。

 自殺という「結果。」だけを基準にして、自殺する人だけに問題が存在するかのように論ずるのは間違いである。個人の尊厳に基づいた自殺であれば、むしろ人間として正しいと言うことが出来るであろう。

 メキシコの麻薬組織の異常性の高さというものは、メキシコにおける民衆の無責任性の結果とも言えるであろう。故に自殺率が低いのであれば、これは何の自慢にもならない。

 オウム教団の異常性の原因を知りたいのであれば、中学生のイジメやシエラレオネの少年ゲリラの異常性についても共通する「ヒト。」の性質習性について分析する必要性がある。自分の親類が被害に遭った事象だけを見ていても、ヒトという種全体に見られる普遍的習性が原因には辿り着くことが出来ない。それは言わば意識狭窄でもあり、感情的な無責任行動でもある。

 直接加害者だけを感情的に拒絶排除差別していても、自分自身の内部にも存在するヒト共通の原因の認識にはならない。被害者や被害者遺族であるからといって、それが全人的な聖人君子であることの論証にはならず、ヒステリックな正義によって短絡的解決を許されて良い論証など存在しないのである。偶発的に被害に遭ったからといって、懲罰だけで満足することは社会的正当性にはならない。「考える。」ことをしないのであれば、これはすなはち人間とすら言うことは出来ないのである。



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暴走。

2012年07月10日 17時27分15秒 | 意識論関連

2012.7.2

○暴走を止めるものとは。

 アレフが以前のように暴力的に変質する可能性は充分にある。そもそもアレフになんぞ入信するような奴は論理的思考が出来ない文系観念的無意識に染まったバカであるから、無意識的に本能のままに以前のような異常集団になりかねない。

 文系大衆観念によって暴走する集団に対して、文系大衆観念に基づいた対策を立てても何の効力も有り得ない。気分的にどんなに恐がっても、強迫観念的に干渉監視しても、むしろ論理的検証を誰もせずに観念的/感情的に集団を追い込むことになりかねない。それこそ政府レベルで強権的に監視するならまだしも、住民による合法的監視では教団の暴走を止めることは困難であろう。

 教団の教義の論理的穴を合理的に反証して、観念的な洗脳状態や、本能的社会形成習性による集団心理に流されないように促すことで、個々の信者達に自律的に教団をやめるように促す必要性があるだろう。


 同じ考え(実際には考えではなく気分的観念の気分的共鳴であっても)の集団に帰属することによる、本能的安心満足によって自発的論理検証を全くしなくなるために、無意識な集団は自閉症的に暴走に陥るのである。

 ヒトというのは論理検証よりも観念に基づく気分的安心満足を優先しがちであり、集団内部において多数が認識できない論理的飛躍や穴といったものを自発的には認識できなくなってしまうのである。

 その点においては周辺地域住民によるヒステリックな拒絶反応というものは、何ら信者達に自分達の観念の論理的穴を認識させることを促すことにはならず。むしろ合理性のない観念ばかりを強烈に植え付けてしまう可能性もある。

 「疑い深い。」というのは観念的拒絶反応による好き嫌い的行動「学習。」によるものであり、「深さ。」に依存していること自体がそもそも論理検証による論理的理解が働いていないことの証明でもある。

 論理的理解というものには「深さ。」に依存するようなものではない。

 ヒトという種の生物に普遍的に見られる間違いそのものに言及しない限り、特定の集団に対して観念的拒絶反応をしているだけでは何ら合理的解決には至ることはない。

 危険性というものは特定集団だけにあるのではなく、ナチス政権下のドイツでも、戦時中の日本でも、現在の北朝鮮においても、シエラレオネの少年ゲリラにおいても、更には個人においても無差別暴力というものは存在しうるものである。それを観念的拒絶反応をするだけでは、結局カルト信者達が社会全体を拒絶しているのとやっていることは同じであり。むしろ同じ観念によって助長を促しかねないのである。

 その拒絶反応において多数決は合理的判断の論拠とは全くならない。

 取締さえやっときゃ事故は減るだの、罰を下しておけば犯罪は減るだの、民主主義制度さえ導入しておけば民主的に政治が行われるだのといったイデオロギーというのは、結局は合理性のない宗教と同じものであり。単なる気分的満足だの精神的救済しかもたらすことはなく、何ら合理的解決策には至らないばかりか、それを阻害しうるものでもある。

 まさに多数派によって文系大衆観念というものは合理的論理検証を駆逐することによって合理的問題解決策というものが無視され、非合理的観念ばかりが優先されてしまうのである。それこそが反社会的であることを認識すべきであろう。

 文系大衆観念上では合理性の追求はあたかも絶対悪であるかのように論じられるが、一般的に言われる合理性追求というものは特定の本能欲望に基づいた理性的行動を指すのであって、カントの断片的な純粋理性批判といった観念は間違いなのである。理性が純粋な状態であれば、それは本能欲望を介さない純然たる論理検証を指すものであり、これは人畜無害な論理的事実しか導き出すことはない。

 こういった論理的理解を全く行わず、気分的満足を優先した観念の殻に閉じこもってしまっている状態こそが、むしろカルト信者の心理状態と全く同じものなのである。

 理論には「勝つ。」ことができない。そもそも理論というものは勝ち負けを目的としたものではなく、純然たる真理追求に過ぎないからである。勝ち負けを左右するのは理論ではなく多数や権威といった観念の「結果。」以上の何物でもない。



Ende;
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コメント貰ったんだけど。

2012年07月02日 13時21分06秒 | 日記
 リンク先ブログのURLが書いてなかたのでお返事に困っております。30日以上放置したこともあってトラックバックも出来なかったようです、申し訳ない。

 このブログのコメント欄は認証公開設定になっているので、内容を公開されたくない場合には旨も書き込んで頂くと良いかと。ま、基本コメントなので公開されたくないことは誰も書かないんでしょうけど。
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パワーLEDを買ってみた。

2012年07月02日 13時00分42秒 | 日記
○自転車用LEDライトとか。

 LEDというのは一般的な導体とは異なり熱温度抵抗係数が負(-)なんだそうで、電流を流すことなどによって生ずる熱で抵抗値が下がってしまうために、電圧だけ一定にしておいてもLEDの温度が上がってしまうと電流値が増加して一種の暴走状態に陥って自己発熱で勝手に壊れてしまう性質がある。

 しかも、LEDというのはわずかな電圧の違いによって電流値が非常に大きく変動する性質も持っているため、電圧が少し低いだけで明るさが急激に低下してしまい、一定電圧以下では全く光らなくなってしまったりする。そのためLED懐中電灯を電圧変動の大きいアルカリ乾電池などで点灯させていると電池は消耗していないにも関わらず意外と明るさが持続しない。

 エネループなどのニッケル水素充電池を用いると、アルカリ乾電池などと較べると電圧の変動が少ないので、比較的LEDを点灯させるのには適していると言える。しかし、アルカリ乾電池などは初期電圧が1.5Vなのに対しニッケル水素充電池は電圧が1.2V程度しかないため、アルカリ乾電池をそのままニッケル水素充電池に置き換えてもLEDというのは充分な明るさを得ることが出来ない。

 秋月電子通商のサイトだと、LEDを点灯させるためには抵抗を介した回路を推奨していたり、或はパワーLED専用の定電流回路モジュールが販売されていたりするのだけど、電源の電圧として5Vや12Vが必要となる。5Vならニッケル水素充電池を4本直列に接続すれば4.8Vということになるので、ほぼ5V電源として使うことも出来そうだけど、抵抗を介した回路というのは抵抗によって電力を熱に変換していることになるので、折角のLEDの発光効率の良さが無駄になってしまうようで気分が悪い。

 そこで当初はニッケル水素充電池を3本直列に接続して3.6Vとし、電流値を定電流ダイオードを用いて制御する方式を考えていたんだけど、定電流ダイオードというのは定電流ダイオードにかかる端子電圧が充分でないと電流も充分に流れてくれない性質があるため抵抗値の大きいLEDでは充分な明るさを得ることが出来なかった。

 定電流ダイオードの説明書には、並列に接続すれば、接続した倍数だけ電流が流れることになっているのだが、実際には接続本数を増やすと定電流ダイオードにかかる端子電圧がさらに低下してしまって電流値は本数倍には全くならない。

 電流制御がダメなら定電圧ダイオード(ツェナーダイオード)ならどうかとフェアチャイルドセミコンダクター社製3.3Vタイプを直列接続してみたが、これもまた端子電圧の不足らしくて、リチウムイオン充電池に直列接続しても2.91Vしか電圧も得ることが出来ず、これもまた充分な明るさを得ることが出来なかった。ツェナーダイオードというのは電源電圧が10V程度必要らしく、ほとんどを熱で損失してしまうようなものらしい。


 ところが、昔壊れたCDプレイヤーを分解した際に、DCコネクタの隣に直結していた謎の素子をリチウムイオン充電池に直列に接続してLEDを光らせると、フル充電状態で3.1V、平均的に3.0Vを得ることが出来、これがLEDの点灯にはとても適している。

Fig.1


 外観上は3端子レギュレータというのが似ているのだけれど、謎の素子には端子が2つしかなく、しばらく正体がわからなかったが、今回撮影した際に2つの端子の間に切除された端子の跡を発見。どうやら3.3V型の3端子レギュレータだったらしい。CDプレイヤーには中央の端子が切除された状態で実装されていたようなのである。

 3.1Vだと3W型パワーLEDがほんのり温かくなるのだけど、電流値が過剰に増える様子もなく明るさも安定しており、なかなか良い感じ。あまり大きな電流が流れても電池の消耗が早いので、これくらいが自転車用としては落とし所かなと思う。

Fig.2


 反射鏡の下半分だけを用いて対向車への防眩構造(水平カット)にしてみた。電動アシスト自転車とかもこの形式にして欲しい。夜中対向車が眩しくてかなわん。

 元々パワーLEDというのは大きな電流を流す構造になっているので、低い電圧でもそれなりに電流が流れてくれるので、豆電球の代用としてLEDを用いるなら砲弾型よかパワーLEDの方が手軽に明るさを得ることが出来る。

 ニッケル水素充電池2本を直列接続すると、フル充電状態で2.77V程度得られるのだけど、これで3W型パワーLEDを直結点灯させても、それなりの明るさが得られるので、現在寝室のピローライトとして使用中。PCのキーボードを照らすにはこれでも充分に使うことができる。

 初期電圧から通常の電圧に下がると一気に暗くなってしまうので、ニッケル水素充電池3本と3端子レギュレータを使った形式に改造する予定。2本直結だと暗くなったからといって充電し直すとほとんど消費してないのであっというまに充電完了してしまう。リチウムイオン充電池の場合はフル充電状態が長いと寿命が短くなるんだそうだけど、ニッケル水素充電池の場合は問題ないのかな?。

Fig.3


 オプトサプライの集光レンズを組み込んであるのだけど、狭角タイプの集光レンズを用いるにはレンズの保持構造体が必要で、これは自作するしかないらしい。タミヤ製マスキングテープディスペンサのフタに開いている穴が集光レンズの大きさを同じだったので、切り出して板材で箱を組んである。

 狭角15度タイプの集光レンズとして販売されているのだけれど、実際にはそんなに狭い角度範囲に光を集める能力はなくて、ダウンライト程度の集光能力しかなく、自転車の前照灯としてはちょっと不適切。

 集光レンズの素材に使われているPMMAって何かと思って調べたら一般的なメタクリル(アクリル)のことでした。


 試しに写真用レンズを用いたプロジェクションライトもこさえてみたんだけど、口径比が1.8では効率がかなり悪い。もちろん光を直視すればとても眩しいのだけれど、自転車用の前照灯としては不適。

 重たいし。

 防滴仕様にするのも大変そうだし。

Fig.4


 キヤノンのFDマウントなので、85mmF1.2レンズとかに交換すればかなり精度の高いスポットライトとして舞台演出照明とかなら使えるかも。

 欲しい人いたらコメント欄にメアド書き込んでね。認証公開設定になっているので書き込んでもおいら以外誰も見られないはずです。










Ende;
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メッセ。展示会のことかな。

2012年07月02日 12時51分26秒 | 日記

○超小型シロッコファン。

 工業系展示会で、ファンテックが模型用マブチモーターで使えるシロッコファンを展示していたんだけど。ファンテックのサイトを見てもモーターマウントは載ってるけど、軸径2㎜のシロッコファンが掲載されていなかった。

Fig.1


 展示会では実際に動かしていなかったので、どの程度の風量が得られるのかはわからないんだけど、シロッコファンっていうのは普通の扇風機とかに用いられている軸流型ファンとは異なり風の指向性が強く風圧も高く、脈動もないので応用範囲が広いから試しに1セット欲しいと思ったのに残念。

 サンワファンさんにメールしようと思ったんだけど、メールページ自体が応答しなかった。

http://www.sanwafan.co.jp/

 展示会でサンプルでも貰ってくればよかた。

 マブチモーターのサイトでRE140とRE280モーターのスペック表をダウンロードしたんだけど、回転軸側にビス穴があるのでモーターマウント要らないことが判明。130系モーター用以外はあんまり意味ない。

 プラモデル屋さんとかでファンとケースと取り付け板やモーターがセット販売されているといいのにな、タミヤさんとか工作シリーズで出さないかな。

 このブログでも売れるのかな、ブログの規定で商売禁止だったかな。


○超極細ニッケルチタン合金ワイヤー。

 艦船模型用でも42μmは販売されているけど、更に極細のが展示されてた。20μmはまだ売ってない。マヌケにも会社名失念。歩き疲れて朦朧としてた。ま、そのうち商品化されることでしょう。

fig.2


○キヤノンのブースに巨大なカーモデルが。

 全長70㎝くらいだったかな。ちょっと欲しいとか思ってしまた。インテリアは結構手抜きな感じ、窓閉まらないし。そもそもバタフライシフトじゃないのね、意外とローテクマシン。


Fig.3



 そういえば別の展示会で厚さ0.6㎜A4サイズのマグネシウム板をサンプルとして貰ったんだけど、調べてみたら削った粉が可燃性だとか、一度燃焼しだすと水をかけても水を水素と酸素に分解して余計激しく燃焼するからマグネシウム専用消火器使えとか書いてあるので、恐くて使えない。

 日本金属さんもむやみに危険なサンプル配らないでほしかた。

 危険と言えば、日本金属さんではマグネシウムにリチウムを大量に混ぜた超軽量合金も開発したらしい。粉末でなければ萌えたりしないって言ってたけど、萌えたら凄いよー。恐いよー。火が消えないよー。



Ende;
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頭。

2012年07月02日 12時48分10秒 | 日記
○ポリパテが手に入ったので頭こさえてみた。



 誰ってことはないんだけど、無意識に削ってみた。意外とかわうく出来たと思うのだけど。

 いつもはこういう写真はfgっつうサイトに載せてたんだけど、なぜかJPEG画像を認識しなくなってしまって、仕方ないのでこっちに載せてみた。

 このgooブログって30日以上放置プレイするとテンプレートが強制変更されちゃうんだけど、強制変更されたテンプレートも読みやすくて良いなとかおもてしまた。でもこの記事をうpしたので強制的に元通り。







Ende;
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