○人災。
事故調査報告書(ダイジェスト版)より抜粋。
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本事故の根源的原因は「人災」であるが、この「人災」を特定個人の過ちとして処理してしまう限り、問題の本質の解決策とはならず、失った国民の信頼回復は実現できない。これらの背後にあるのは、自らの行動を正当化責任回避を最優先に記録を残さない不透明な組織、制度、さらにはそれらを許容する法的な枠組みであった。また関係者に共通していたのは、およそ原子力を扱う者に許されない無知と慢心であり、世界の潮流を無視し、国民の安全を優先せず、組織の利益を最優先とする組織依存のマインドセット(思い込み、常識)であった。
当委員会は、事故原因を個々人の資質、能力の問題に帰結させるのではなく、規制される側とする側の「逆転関係」を形成した直因である「組織的、制度的問題」がこのような「人災」を引き起こしたと考える。この根本原因の解決なくして、単に人を入れ替え、或は組織の名称を変えるだけでは、再発防止は不可能である。
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事故調査報告書には考え方の誤りが幾つか見られる。「組織的、制度的問題」が人災を引き起こしたとするということは、人災というものは組織を構成する個々人が作り出したものではないという考えに至ってしまう。
組織にせよ、制度にせよ、これらもまた責任者などの個人が作り出したものであって、組織や制度の構築の際に問題意識が働かなかった「個人の資質、能力の問題」を無視して良いものではない。
また、腐敗した組織制度といったものを放置した圧倒的多数の服従迎合者の存在においても、これもまた「個人の資質、能力の問題」に関わるものである。
組織制度の構築の際に責任放棄や組織の利益ばかりを追究するような人格や、そうした組織の命令に無為無策に服従迎合してしまうヒトの動物的「社会性。」習性にこそ問題の本質根源があるのであって、結局は個々人の自律的な社会的責任意識の欠落にこそ、本質的な原因の根源が存在するのである。
重大事象が発生した場合に限ってその都度組織制度の改善をしていたのでは、「その」組織集団における再発防止のシステム構築にはなっても、他の組織集団における予防的/想定的な危険防止策に応用性/汎用性を持ち得ない。
法的整備に関しても、従来から述べているように機械手続き的条件反射しか行われることはなく、本質的な問題解決にはならない。脱法麻薬だのWebで誰でも知ることが可能な爆発物製造法については個人の自律的責任判断能力、すなはち「個人の資質、能力の問題」に依存するものであるからだ。
危険学は航空機事故の再発防止策についても、組織的制度的な問題点は取り扱っていたはずである。にも関わらずそれらが原発の運営に生かされることなく重大事象に陥るまで放置されたのは、ひとえに予防的/想定的な危険防止策に応用性/汎用性がなかったからである。
個々人に自律的な社会的責任判断が伴わなくなるのは、その行動選択に合理的論理検証性が働かず、利己本能や保身感情が優先してしまうという、極めて動物本能的な行動選択しか行われないからである。
組織だの制度といった、自律的責任意識を必要としない他律的環境だけに全ての問題があるとするべきではない。
組織的暴走によって取り返しのつかない破綻が生ずるまで放置されたのは、組織集団を構成する全ての個々人の無責任な迎合服従習性が関与していると考えなくてはならない。
「組織依存のマインドセット」そのものの原因にまで言及しなければ、本当の意味における根源的原因を究明したことにはならない。社会心理学的原因であるとしても工学が扱ってはいけない理由など存在しないのである。
一体どれだけの「取り返しのつかない破綻」を繰り返せば危険学はヒトに普遍的に見られる動物的な服従迎合習性の問題を取り扱うようになるのであろう。
東電に対しては「想定外で済まされない。」と論じておきながら、事故調査委員会は「検証範囲外。」と称してヒトの動物的な行動習性の問題点については無視するつもりであろうか。
このまま本能的な社会形成習性の危険性を放置しておいて危険学としての社会的責任を果たしていると思われたら話にならない。
何度も同じ過ちを繰り返すから「バカ」なのである。応用性/汎用性/可搬性のある、あらゆるヒトに対する危険防止対策にまで言及しなければ、何度でも「取り返しのつかない破綻」は繰り返される。この事実を意識から外し、無視し、「検証範囲外。」などと称して放置することは工学上での責任は果たしたことにはなるとしても、人間としての社会的責任を果たしたことにはならないぞ。
東電社員が命令に服従することであっても「東電の社員としての責任。」は果たしたことにはなる。それはすなはちオウム教団の幹部が教祖の命令に服従しても「教団幹部としての責任。」は果たしたという理屈になってしまうのである。
「想定範囲」や「検証範囲」といった検証の限定性というものは、責任回避の意識狭窄性に他ならず、理論的には許されるべきことではないのである。
学校におけるイジメの問題も、断片的な個々の嫌がらせだけを取り上げれば「些細な出来事。」で済まされるようなものである。しかし、閉じられた教室内での同級生という組織的な統率的協調行動の結果としてのイジメというものは、大人になってからの差別排除や体制組織への服従迎合性の醸成にまで発展しうるものであり、あらゆるヒトの本能的行動習性にまで言及しなければ、本当の危険学の社会的意義は失われる。
過ちが起きてから文句をたれるだけならバカでも出来る、畑村洋太郎がバカなのかどうかは、これからの危険学の発展次第であろう。
「例外や想定外なく検証することが必要。」と述べておきながら、「工学としての検証範囲。」を根拠に個人の意識の重要性を無視するというのは支離滅裂で無責任である。勿論単なる悪者探し的な「処理手続き」を目的とするのではなく、あくまでヒトが陥りやすい傾向性を抽出し、意識的に陥らないように意識喚起に用いることが出来るようにすることが大切である。
組織依存的な服従迎合性というものは、ヒト全般に普遍的に見られる本能的な習性傾向性であり。ヒトである以上誰であろうと傾向性を認識し、錯覚に起因する誤りに陥らないように努める義務について、基本的に例外は認めるわけにはいかない。
「工学」というシバリを根拠に例外を認めろというのであれば、公的機関ではどこも研究は進まないであろう。脳科学も認知科学も社会心理学も哲学もクソの役にも立たず、危険学以外にはどこにも期待出来ないからである。
工学系の研究者というのは、生物学的傾向性や習性というものについて「複雑過ぎて面倒臭い。」などと論理検証を放棄する傾向がある。故に本来理系に分類される生物学系研究者達の誰も無意識的な「結果。」と意識的選択としての「目的。」の明確な区別も一切されてこなかった。哲学に至っては完全に文系観念に染まった大衆人気取りしかしていない。これではヒトという種の生物に普遍的に見られる習性の危険性は放置されたままに、普遍的応用性を獲得することが出来ずに何度でも同じ過ちは繰り返されてしまうのである。
学術研究というものは、楽観的であることも時には必要であるかも知れないが、何に楽観するかの選択には合理的判断が必要なはずである。いつ起こるか原理的に予測不能な超新星爆発だの恒星バーストを心配してもどうにもならないが、こと人災に関わる予測可能性を持った事柄については常に悲観主義を貫くべきである。意識的に回避可能性を持った災害であるからこそ「人災。」と分類されるからである。
危険学というのは義務教育レベルから学ばせるべき人間としての基本的な社会的責任判断の重要性を認識させるための教材として有効なはずである。分数の割り算よか人間として重要じゃないのかよっ。
イジメという統率的協調行動によって、ヒトは無意識的に差別排除に陥るものであることを認識することによって、自律的にイジメを抑制できるようにしておくべきである。オランダの義務教育では普通に出来ているのに何で日本の教育機関が出来ない理由があろう。
力のある「上」の者に逆らうことによる差別排除を避ける保身のために、既存の組織体制といったものに対して無為無策に服従迎合してしまう動物本能的習性がイジメなどの組織的暴走をも助長するのである。このことを個人が意識的に認識していればあらゆる無意識的暴走は予防可能なものであり、あらゆる「人災」に対する抵抗力となりうる。
学校でのイジメも、シエラレオネの少年ゲリラの残虐行為も、ナチズムによる大量虐殺も、原発暴走と同様「人災」なのである。
無意識的なヒトの多くが、他人を上下関係でしか測ることが出来ない習性があり。これこそが本能的に組み込まれた動物的な「社会性」、社会形成習性の無意識的「結果。」であり。子供じみた観念を放置しておけば野良犬よろしく狂暴化するのはヒトの習性として必然である。
生物学系学界は従来無意識的な「結果」に観念的な事後正当化のこじつけしかしてこなかった。それこそが気分的満足によって論理検証を喪失していた原因である。
社会心理学的実験室による「実証」を必要とするのは、それを業績と認めてもらうための姑息な動機によるものであり。学術上における「常識」もまた一種のマインドセットに過ぎず、根本的な問題意識自体が欠落しているからである。
現実社会における現象であるなら、既に山程存在する。オリンパス取締役達による粉飾や、大王製紙会長の横領、西武グループ会長のインサイダー取引、ナチスやポルポトやソマリアの虐殺、シエラレオネの少年ゲリラの残虐行為、これらは全て組織依存的なマインドセットが関わっており、全て「人災。」の一種なのである。「本能的習性=天災」というのであれば、これは自律的には何も行動選択することの出来ない単なるケダモノの戯言でしかなかろう。
シエラレオネの少年ゲリラや子供のイジメに対して組織体制だの法的整備が何の役に立つであろう。ましてや単独犯罪である通り魔の行動選択には全く意味を成さない。通り魔が主張する「バスジャックをやったら凄い。」「重大犯罪を犯せば認めて貰える。」などという身勝手な決めつけも、あくまで集団内部における合理性のない固定観念によるマインドセットの関与なしには有り得ない。あらゆる無意識的な固定観念というものは意識的論理検証性の欠落が招くものであり、単なる個人的好き嫌いを普遍的価値観と錯覚することで生ずるものである。
何が錯覚で何が錯覚でないのかを認識するのは、観念的バランス問題などではなく、あくまで意識の問題である。
錯覚を錯覚と認識していないから子供じみた過ちが減らないのである。
東電による組織の利益優先というものも、要するに「お菓子を独り占めしたかった。」という子供じみた欲望が優先しただけのことである。どんなに巧妙な組織的隠蔽や協調行動を行ったとしても、それはイヌでも行うことが可能な本能的協調行動の「結果」に過ぎない。そんなものを知能として取り扱う生物学系学界には何も期待することは出来ないのである。
本質的知能とは第一に社会全体の安全性や持続可能性を優先する個人の統合的な自律判断にある。たとえそれ以外の一面的能力がどんなに高度であろうと、自律が欠落していれば単なるバカに過ぎず、人間としての価値は存在しない。
以前にも書いた記憶があるが、大抵の場合「私はこう考える。」と述べている場合、単なる固定観念による思考停止を正当化している場合がほとんどである。「組織制度に問題の根源があると考える。」と事故調査委員会は述べているが、それは実際には「考え」ではなく、これもまた思考停止のための一種のマインドセットに過ぎない。
言っている本人がマインドセットにかかっていながら、他人のマインドセットを指摘する権利はなかろうて。
組織制度自体の問題点を放置したのは、組織を構成する個人の無責任性である。そこにはあらゆる組織や集団に共通する「ヒト」の統率的協調行動習性/社会形成習性による錯覚や意識撹乱が関わっていることは明らかである。故にバカみたいな組織依存のマインドセットに起因する暴走が繰り返されるのである。
事故調査検証委員会自体に作り出された「常識」に囚われ、原因究明を途中放棄して良い理由はない。最後まで徹底的に究明したくないというのであれば、それは最初から自発的意欲興味が無かったと言われても仕方ないことである。
「要求されたから、やっただけ。」であるからこそ、中途半端なことしか出来ないのであり。組織を構成する個人が全員中途半端な判断しかしないから、組織依存性が生ずるのである。
過ちを犯した組織団体を糾弾して正義を振り回したフリをしておけば、大衆観念的には安心満足によって思考停止に陥ることも簡単であろう。それで本質的な社会的責任を果たしたつもりになっても、単なる自己満足のまどろみに溺れているだけであり。本質的には責任の途中放棄なのである。
Ende;