○死のことは考えることが原理的に不可能である。
死とは生存の結果である。
その結果をどんなに恐れ、不安を抱いても、それは「悩み。」煩悩ではあっても「考え。」には全くならない。
合理的根拠に基づく「考え。」と、気分感情に由来する観念的「悩み。」とを、従来の哲学では厳密に分別してこなかったのが人類における重大な過ちである。
西洋哲学も含め、ヒトは気分感情による恐怖や憂鬱ばかりに意識を奪われ、論理的根拠の存在しない精神的救済ばかりを追求して来た。
それが本能的快楽を促すため、何ら意味を持たない観念ばかりに価値を求めてしまうのである。
ドストエフスキーのような何ら論理的には意味を持たない気分的共感/精神的救済に異常なまでにバカ哲学者が固執するのはこのためである。バカ哲学者がどんなに意味ありげに主張しようとも、気分的/精神的救済というのは何ら合理的「考え。」によってもたらされるものではなく、単なる個人的自己満足に過ぎない。
個人の精神的救済というのは、要するに経済学上における「目先の効用。」程度のものであって、何ら統合的長期的社会安全性や持続可能性には全く寄与しないばかりか、むしろこれらを意識から見失う原因でもある。
気分的共感による安心や、精神的救済という個人的満足ばかり追求してしまうことによって、合理的論理検証性を伴った「考え。」を喪失するのである。
どんなに気分的安心/精神的救済を求めても、社会の安全性にも持続可能性にも寄与することはなく、社会的意味は存在しないのである。そんなものを哲学だと思い込んでいるというのは社会的負荷/公金の無駄遣いにしかならないのである。
どうしても既存の哲学界は気分的安心/精神的救済「悩み。」と合理的論理検証「考え。」を区別しないというのは、社会安全性や持続可能性を蔑ろにする詐欺行為である。
統合的/長期的社会安全性や持続可能性というものは、特定の天才にしか不可能であるかのように言い張るバカも少なくないが、それなら振り込め詐欺師の行為もバカなら許されることになる。
犯罪者が犯罪を単なる違法性としか認識せず、社会的負担や損失であることを認識しないことを。あたかも論理的に認識不可能性であるかのように言い張るのと同じことであり。何ら合理的根拠を持たない言い訳/言い逃れに過ぎないのである。
○秩序。
秩序というものは持続可能性や安全性の論拠にはならない。
秩序というものは外見上の統率性による気分的安心満足を得るだけのものに過ぎないのである。
秩序とは、場合によっては個人の自律的判断を蔑ろにするものでもあり、むしろ社会安全性への害を為すものでも有り得るのである。
統率的に秩序立っていれば、多くのヒトは気分的に安心し満足であろう。しかし、本能的社会形成習性による統率行動こそが個人の自律的社会的責任判断を粛清してしまうことは珍しいことではない。
懲役刑による犯罪者の再犯率が全く下がらないというのは、懲役刑という法秩序による手続きというものには社会的安全性の合理的根拠が全く存在しないからであり。多くのヒトは目先の気分的に嫌な犯罪者にその場限りに罰を与えてさえおけば社会安全性はどうでも良く、意識の上から外しているからこそ漫然と刑法罰というものによって社会安全性というものが蔑ろにされるのである。
合法である酒を呑んで自動車事故を起こせば危険運転至死傷罪だが、違法薬物で殺人を行っても心身こう弱で減刑されるのが刑法裁判である。
合法ドラッグ類などは法秩序によっては抑止することの出来ない個人の自律的社会的責任判断が必要不可欠なものであり、法令遵守だけではどうにもならないものなのである。
個人が自律的に社会の安全性を求めるのは、その個人自身が社会の中において存在する価値を自発的に保持しているからこそであり。個人が自律的に社会の安全性を求めないのは、その個人自身が社会の中において存在する価値を自発的には持っていないからである。
ヒトの多くは、その本能的社会形成習性によって、統率的秩序に気分的安心満足を抱き、これによって自律的社会的責任判断というものを放棄できるものであると勝手に錯覚している。
ヒトの多くは自発的に考えることが本能的に嫌いであり、同時に自律的責任判断も嫌いであるため、多数や多数によって規定された権威への服従迎合によって気分的安心満足しか求めようとはしない。
これこそがヒトという種が持つ非人間性の根源なのである。
○疑い深さと騙され易さ。
疑うという行為には、観念的拒絶反応と論理検証的批判精神の二つの側面がある。
前者は無意識的で感情的なものに過ぎないが、後者は意識的で合理性を持つものである。
観念的拒絶反応を示すヒトの場合、どんなに論理的説明を尽くしても論理的理解自体を拒絶しているために、気分的安心感や満足感を提供しない限り観念的に「納得。」することはなく。これを称して「疑い深い。」と形容するのである。
そもそもが論理的理解をパスしているために、観念的に納得させさえすれば簡単に騙すことも可能であり、疑い深いヒトの多くが騙され易いのというのは論理的必然性が存在するのである。
「信用するかどうか。」の基準自体に論理的検証が伴わず、観念的気分によって安心満足さえ得られれば信用してしまうために、簡単にカルトだの詐欺に引っ掛かることに陥る。
自分が一度信用したものを再度疑う場合、「自己自身が既に信用した。」という既成事実的な判断自体も疑うことになるため、自分の頭の悪さを認識する可能性を観念的に拒絶してしまい、合理性のない事後正当化的屁理屈をこじつけてしまうことも多い。
「疑う。」こと自体は東大の学長が論ずるように、自律的判断によって社会的責任を行うためには人間として必要な素養であるが、一度盲目的に信用信頼した対象を疑うことに対する観念的罪悪感によって疑うこと自体を放棄してしまう性質が観念的なヒトには見られる。
恐ろしいことに、動物習性的傾向性として、多くのヒトに見られる習性性質というものを論証すると、あたかもヒトであれば傾向性に無意識的に流されることが正当化できるものであると錯覚するヒトも少なくない。みんなでバカなら恥ずかしくも恐くもないので気分的に安心満足して思考を停止し論理検証を全くしたがらない。
Ende;
死とは生存の結果である。
その結果をどんなに恐れ、不安を抱いても、それは「悩み。」煩悩ではあっても「考え。」には全くならない。
合理的根拠に基づく「考え。」と、気分感情に由来する観念的「悩み。」とを、従来の哲学では厳密に分別してこなかったのが人類における重大な過ちである。
西洋哲学も含め、ヒトは気分感情による恐怖や憂鬱ばかりに意識を奪われ、論理的根拠の存在しない精神的救済ばかりを追求して来た。
それが本能的快楽を促すため、何ら意味を持たない観念ばかりに価値を求めてしまうのである。
ドストエフスキーのような何ら論理的には意味を持たない気分的共感/精神的救済に異常なまでにバカ哲学者が固執するのはこのためである。バカ哲学者がどんなに意味ありげに主張しようとも、気分的/精神的救済というのは何ら合理的「考え。」によってもたらされるものではなく、単なる個人的自己満足に過ぎない。
個人の精神的救済というのは、要するに経済学上における「目先の効用。」程度のものであって、何ら統合的長期的社会安全性や持続可能性には全く寄与しないばかりか、むしろこれらを意識から見失う原因でもある。
気分的共感による安心や、精神的救済という個人的満足ばかり追求してしまうことによって、合理的論理検証性を伴った「考え。」を喪失するのである。
どんなに気分的安心/精神的救済を求めても、社会の安全性にも持続可能性にも寄与することはなく、社会的意味は存在しないのである。そんなものを哲学だと思い込んでいるというのは社会的負荷/公金の無駄遣いにしかならないのである。
どうしても既存の哲学界は気分的安心/精神的救済「悩み。」と合理的論理検証「考え。」を区別しないというのは、社会安全性や持続可能性を蔑ろにする詐欺行為である。
統合的/長期的社会安全性や持続可能性というものは、特定の天才にしか不可能であるかのように言い張るバカも少なくないが、それなら振り込め詐欺師の行為もバカなら許されることになる。
犯罪者が犯罪を単なる違法性としか認識せず、社会的負担や損失であることを認識しないことを。あたかも論理的に認識不可能性であるかのように言い張るのと同じことであり。何ら合理的根拠を持たない言い訳/言い逃れに過ぎないのである。
○秩序。
秩序というものは持続可能性や安全性の論拠にはならない。
秩序というものは外見上の統率性による気分的安心満足を得るだけのものに過ぎないのである。
秩序とは、場合によっては個人の自律的判断を蔑ろにするものでもあり、むしろ社会安全性への害を為すものでも有り得るのである。
統率的に秩序立っていれば、多くのヒトは気分的に安心し満足であろう。しかし、本能的社会形成習性による統率行動こそが個人の自律的社会的責任判断を粛清してしまうことは珍しいことではない。
懲役刑による犯罪者の再犯率が全く下がらないというのは、懲役刑という法秩序による手続きというものには社会的安全性の合理的根拠が全く存在しないからであり。多くのヒトは目先の気分的に嫌な犯罪者にその場限りに罰を与えてさえおけば社会安全性はどうでも良く、意識の上から外しているからこそ漫然と刑法罰というものによって社会安全性というものが蔑ろにされるのである。
合法である酒を呑んで自動車事故を起こせば危険運転至死傷罪だが、違法薬物で殺人を行っても心身こう弱で減刑されるのが刑法裁判である。
合法ドラッグ類などは法秩序によっては抑止することの出来ない個人の自律的社会的責任判断が必要不可欠なものであり、法令遵守だけではどうにもならないものなのである。
個人が自律的に社会の安全性を求めるのは、その個人自身が社会の中において存在する価値を自発的に保持しているからこそであり。個人が自律的に社会の安全性を求めないのは、その個人自身が社会の中において存在する価値を自発的には持っていないからである。
ヒトの多くは、その本能的社会形成習性によって、統率的秩序に気分的安心満足を抱き、これによって自律的社会的責任判断というものを放棄できるものであると勝手に錯覚している。
ヒトの多くは自発的に考えることが本能的に嫌いであり、同時に自律的責任判断も嫌いであるため、多数や多数によって規定された権威への服従迎合によって気分的安心満足しか求めようとはしない。
これこそがヒトという種が持つ非人間性の根源なのである。
○疑い深さと騙され易さ。
疑うという行為には、観念的拒絶反応と論理検証的批判精神の二つの側面がある。
前者は無意識的で感情的なものに過ぎないが、後者は意識的で合理性を持つものである。
観念的拒絶反応を示すヒトの場合、どんなに論理的説明を尽くしても論理的理解自体を拒絶しているために、気分的安心感や満足感を提供しない限り観念的に「納得。」することはなく。これを称して「疑い深い。」と形容するのである。
そもそもが論理的理解をパスしているために、観念的に納得させさえすれば簡単に騙すことも可能であり、疑い深いヒトの多くが騙され易いのというのは論理的必然性が存在するのである。
「信用するかどうか。」の基準自体に論理的検証が伴わず、観念的気分によって安心満足さえ得られれば信用してしまうために、簡単にカルトだの詐欺に引っ掛かることに陥る。
自分が一度信用したものを再度疑う場合、「自己自身が既に信用した。」という既成事実的な判断自体も疑うことになるため、自分の頭の悪さを認識する可能性を観念的に拒絶してしまい、合理性のない事後正当化的屁理屈をこじつけてしまうことも多い。
「疑う。」こと自体は東大の学長が論ずるように、自律的判断によって社会的責任を行うためには人間として必要な素養であるが、一度盲目的に信用信頼した対象を疑うことに対する観念的罪悪感によって疑うこと自体を放棄してしまう性質が観念的なヒトには見られる。
恐ろしいことに、動物習性的傾向性として、多くのヒトに見られる習性性質というものを論証すると、あたかもヒトであれば傾向性に無意識的に流されることが正当化できるものであると錯覚するヒトも少なくない。みんなでバカなら恥ずかしくも恐くもないので気分的に安心満足して思考を停止し論理検証を全くしたがらない。
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