書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

今回の難解文章はここまで。

2012年07月02日 12時46分58秒 | 意識論関連
○死のことは考えることが原理的に不可能である。

 死とは生存の結果である。

 その結果をどんなに恐れ、不安を抱いても、それは「悩み。」煩悩ではあっても「考え。」には全くならない。

 合理的根拠に基づく「考え。」と、気分感情に由来する観念的「悩み。」とを、従来の哲学では厳密に分別してこなかったのが人類における重大な過ちである。


 西洋哲学も含め、ヒトは気分感情による恐怖や憂鬱ばかりに意識を奪われ、論理的根拠の存在しない精神的救済ばかりを追求して来た。

 それが本能的快楽を促すため、何ら意味を持たない観念ばかりに価値を求めてしまうのである。

 ドストエフスキーのような何ら論理的には意味を持たない気分的共感/精神的救済に異常なまでにバカ哲学者が固執するのはこのためである。バカ哲学者がどんなに意味ありげに主張しようとも、気分的/精神的救済というのは何ら合理的「考え。」によってもたらされるものではなく、単なる個人的自己満足に過ぎない。

 個人の精神的救済というのは、要するに経済学上における「目先の効用。」程度のものであって、何ら統合的長期的社会安全性や持続可能性には全く寄与しないばかりか、むしろこれらを意識から見失う原因でもある。

 気分的共感による安心や、精神的救済という個人的満足ばかり追求してしまうことによって、合理的論理検証性を伴った「考え。」を喪失するのである。

 どんなに気分的安心/精神的救済を求めても、社会の安全性にも持続可能性にも寄与することはなく、社会的意味は存在しないのである。そんなものを哲学だと思い込んでいるというのは社会的負荷/公金の無駄遣いにしかならないのである。

 どうしても既存の哲学界は気分的安心/精神的救済「悩み。」と合理的論理検証「考え。」を区別しないというのは、社会安全性や持続可能性を蔑ろにする詐欺行為である。


 統合的/長期的社会安全性や持続可能性というものは、特定の天才にしか不可能であるかのように言い張るバカも少なくないが、それなら振り込め詐欺師の行為もバカなら許されることになる。

 犯罪者が犯罪を単なる違法性としか認識せず、社会的負担や損失であることを認識しないことを。あたかも論理的に認識不可能性であるかのように言い張るのと同じことであり。何ら合理的根拠を持たない言い訳/言い逃れに過ぎないのである。



○秩序。

 秩序というものは持続可能性や安全性の論拠にはならない。

 秩序というものは外見上の統率性による気分的安心満足を得るだけのものに過ぎないのである。

 秩序とは、場合によっては個人の自律的判断を蔑ろにするものでもあり、むしろ社会安全性への害を為すものでも有り得るのである。

 統率的に秩序立っていれば、多くのヒトは気分的に安心し満足であろう。しかし、本能的社会形成習性による統率行動こそが個人の自律的社会的責任判断を粛清してしまうことは珍しいことではない。

 懲役刑による犯罪者の再犯率が全く下がらないというのは、懲役刑という法秩序による手続きというものには社会的安全性の合理的根拠が全く存在しないからであり。多くのヒトは目先の気分的に嫌な犯罪者にその場限りに罰を与えてさえおけば社会安全性はどうでも良く、意識の上から外しているからこそ漫然と刑法罰というものによって社会安全性というものが蔑ろにされるのである。

 合法である酒を呑んで自動車事故を起こせば危険運転至死傷罪だが、違法薬物で殺人を行っても心身こう弱で減刑されるのが刑法裁判である。

 合法ドラッグ類などは法秩序によっては抑止することの出来ない個人の自律的社会的責任判断が必要不可欠なものであり、法令遵守だけではどうにもならないものなのである。


 個人が自律的に社会の安全性を求めるのは、その個人自身が社会の中において存在する価値を自発的に保持しているからこそであり。個人が自律的に社会の安全性を求めないのは、その個人自身が社会の中において存在する価値を自発的には持っていないからである。

 ヒトの多くは、その本能的社会形成習性によって、統率的秩序に気分的安心満足を抱き、これによって自律的社会的責任判断というものを放棄できるものであると勝手に錯覚している。

 ヒトの多くは自発的に考えることが本能的に嫌いであり、同時に自律的責任判断も嫌いであるため、多数や多数によって規定された権威への服従迎合によって気分的安心満足しか求めようとはしない。

 これこそがヒトという種が持つ非人間性の根源なのである。


○疑い深さと騙され易さ。

 疑うという行為には、観念的拒絶反応と論理検証的批判精神の二つの側面がある。

 前者は無意識的で感情的なものに過ぎないが、後者は意識的で合理性を持つものである。

 観念的拒絶反応を示すヒトの場合、どんなに論理的説明を尽くしても論理的理解自体を拒絶しているために、気分的安心感や満足感を提供しない限り観念的に「納得。」することはなく。これを称して「疑い深い。」と形容するのである。

 そもそもが論理的理解をパスしているために、観念的に納得させさえすれば簡単に騙すことも可能であり、疑い深いヒトの多くが騙され易いのというのは論理的必然性が存在するのである。

 「信用するかどうか。」の基準自体に論理的検証が伴わず、観念的気分によって安心満足さえ得られれば信用してしまうために、簡単にカルトだの詐欺に引っ掛かることに陥る。

 自分が一度信用したものを再度疑う場合、「自己自身が既に信用した。」という既成事実的な判断自体も疑うことになるため、自分の頭の悪さを認識する可能性を観念的に拒絶してしまい、合理性のない事後正当化的屁理屈をこじつけてしまうことも多い。

 「疑う。」こと自体は東大の学長が論ずるように、自律的判断によって社会的責任を行うためには人間として必要な素養であるが、一度盲目的に信用信頼した対象を疑うことに対する観念的罪悪感によって疑うこと自体を放棄してしまう性質が観念的なヒトには見られる。


 恐ろしいことに、動物習性的傾向性として、多くのヒトに見られる習性性質というものを論証すると、あたかもヒトであれば傾向性に無意識的に流されることが正当化できるものであると錯覚するヒトも少なくない。みんなでバカなら恥ずかしくも恐くもないので気分的に安心満足して思考を停止し論理検証を全くしたがらない。


Ende;

下手くそな長文で申し訳ない。

2012年07月02日 12時44分38秒 | 意識論関連
○人間にしかない、自然な気持ち。

 アイヒマン実験において、権威の命令に無為に服従してしまうことは「自然な気持ち。」であろう。

 振り込め詐欺師集団内部において封建的統率行動を採ることも「自然な気持ち。」である。

 学校内でのイジメや、シエラレオネの少年ゲリラによる封建的統率行動であっても、これもまたヒトとしては「自然な気持ち。」であろう。ヒトというのは本能によって自然とイジメやカルト状態に陥るものなのである。

 文系大衆観念においては生物種としての「ヒト。」の情動行動と、社会的責任行動選択を自律的に行う「人間。」としての本質的合理性を伴った心を厳密に区別していない。

 厳密な区別を明確にしないまま、その場限りに「気持ち。」だの「心。」を論じていても、本質的な合理性を伴った「人間。」としての統合的思考に基づく、「本当の望み。」という目的意識は導き出すことはできず、全く無意味である。



 暴走を引き起こす時点で、カルト宗教であろうと金融人工知能であろうと、バッタの大量発生であろうと、これらは全て無意識の産物である。

 金融に用いられる人工知能や、クイズに正解することを目的とした人工知能などというのは、実際には人間が持ちうる本質的知能とは異なり、無意識的で統合的目的意識など存在しない機械条件反射に過ぎず。また程度的にも下等動物程度の「知能。」しか持ち合わせてはいないのである。

 そもそも人工知能を金融の安定に用いず、単なる目先の効用/金儲けにしか用いていない時点で金融工学というのは公共利益に供せず、「世間的成功=生物としてのヒトの優秀さ。」が優先されているからであり。「社会持続可能性や安全性=人間としての価値。」を蔑ろにする文系大衆観念特有の論理検証性の欠落による思考崩壊/停止が働いているからである。

 多数一般の大衆凡民達は、金儲けに成功して世間的に成功するという生物的「ヒト。」としての価値と。社会持続可能性や安全性を優先する本質的な社会性を持った「人間。」としての価値を明確に区別することすらしておらず、こうした支離滅裂な文系大衆観念によって暴走は引き起こされるのである。

 それがどれだけ無責任で危険なものであるかを、多数一般の大衆凡民は認識する意欲/気分すら持たないものである。

 自分に直接的に害をなすような危険以外には、多くのヒトは関心が働かない傾向習性があるからだ。



 養老孟司は「アメとムチ。」と論じた。アメという報酬評価がえられそうにないと苦しいことはやらないというの行動原理は、機械手続き的条件反射行動そのものである。養老は同時に「意識に意味はない。」とも論じた、養老にとって意識による論理検証とは自分の無責任発言を立証されかねない厄介なものであるため、意識に意味があっては困るために論理撹乱のためには「意味はない。」と言い張るのである。

 「怒鳴り散らしている時には大脳辺縁系にとって、大脳新皮質など邪魔なだけ。」などという話は、要するに怒鳴り散らすことが主体であり、また、「怒鳴り散らしている。」という極めて限定的状況における断片的な情動優位性における話しかしていないのである。

 それでも多くの文系大衆達にとっては、感情こそが意識の本質であると錯覚しているために、養老が促す意識誘導に簡単に論理検証を撹乱され、鵜呑みにしてしまうことに陥るのである。

 養老だのマイケル:サンデルだの占い師やカルト宗教の教祖達が用いる意識誘導の手口にさしたる違いはない。

 学術権威の多くが信用できないからといって、目先の仲間同士内部における気分的共感によって統率的反社会行動に加わり安心満足するのも結局はヒトのシーケンシャルな本能の結果でしかなく、本質的には自由とは言えない。

 それは「神がいないのなら、何をしても許される。」と称して目先の欲望のままに行動するのと同じであり。自律の欠落
による行動「結果。」でしかなく、自発目的も自律的責任判断も伴わない「サルの正義。」に過ぎない。

 「アメとムチ。」にせよ、「サルの正義。」にせよ、本能的無意識行動というのは「自然な気持ち。」によるものである。

 権威にせよ神にせよ、盲目的に信頼する対象を見失ったからといって責任判断をしなくなるのは、そもそもが自律的に何も判断していない証拠でもある。

 現状世間における権威性に信頼性がないのであれば、これは信頼性を高めるための対策努力をすることが重要であり。相手が権威だからといって何ら対策を行わずに気分的にやさぐれているだけなら、結局は現状世間に対しての迎合であることに全く変わりはない。

 「絶望は罪である。」とはキェルケゴールである。望みがあるからこそ人間は絶望するのであるが、単に気分的に絶望して無為無策に陥り、やるべきことを放棄するのはただのバカに過ぎない。どんなに多数の大人が無責任であろうとも、それによって自己自身の行動責任を放棄してしまえば、これは「多数の大人。」という環境依存性の結果にしかならず、何ら意識的目的行動選択にはならないのである。



 多数で群れていれば気分的には安心していることが可能であろう、しかしそれはカルト宗教内部における安心と同じものであり、何ら自分の生活する社会の持続可能性や安全性の確保にもならないばかりか、むしろカルト宗教同様に害をもたらすものでしかない。

 目的意識もなく気分本能的安心満足に無意識に流されているからこそ社会は破綻するのである。それが現状権威への無為な服従であろうと、単なる感情的反発であろうと、無意識的条件反射であることに何ら変わりはなく。具体的で本質的な目的意識は全く働いておらず、極めて不毛なだけでなく安全性を脅かす危険なものである。

 将来に希望が持てないからといって、自ら将来を放棄するのは簡単である。それもまた現状世間に対する迎合であって、何ら自発的で目的意識を持った人間としての行動選択ではない。


 権威とは、それ自体は科学的にも論理的にも実証不可能な観念に過ぎない。「科学的権威。」などと言っても権威性自体を科学的に立証することは出来ないのである。

 権威とは、あくまで文系大衆観念上における盲目的服従対象に過ぎず。服従することによる気分的安心満足を満たすための対象でしかないのである。

 服従による気分的安心満足を満たすことが出来ないからといっても、社会安全性や持続可能性を高めることとは無関係である。社会の安全性を高めるのは社会を構成する個人の意識/自律的な社会的責任判断によるものであり、特定の権威によって担保されるようなものではない。

 社会安全性や持続可能性というものは、特定権威への無責任な服従によって確立されるものではなく。あくまで個人の自律的責任判断の集積によって確立されるものである。

 ヒトの多くは本能的に特定権威への服従によって社会安全性が担保されるものであると錯覚しがちである。「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという実証不能の文系大衆観念はこうしてでっちあげられるのである。



 人間が社会的責任行動選択を行うのは、社会的な制約によるものであると文系大衆観念上では考えられている。

 しかし、社会的制約が及ばない「誰も見ていない状況。」や、自律的に社会的責任行動選択をしなければならない状況においては、社会的制約による行動抑制は意味を成さない。

 社会的制約という「ムチ。」や、社会的評価という「アメ。」によって行動が決定しているだけであれば、これは機械条件反射的な無意識行動に過ぎず、何ら自律的/自発的、主体性のある「個人の判断。」とは言うことができない。

 社会安全性において重要なのは、個人の自律的な社会的責任判断である。「誰も見ていないから、何をしても構わない。」というのであれば、社会安全性など成立しないのである。これは「神がいないのであれば云々。」の議論と全く同根であり、主体的な自律判断というものの存在を無視し、意識から外し、「ヒトの全ては主体的な自律判断が不可能である。」という勝手な決め付けに基づく観念に由来する。

 社会的制約や社会的評価なくして行動抑制が働かないと決め付ける者というのは、要するに「自分自身が自律的責任判断が出来ないことは、他の誰にも不可能である。」という論拠に基づいている。

 自分自身に不可能なことを、他の誰かが可能であるとすれば。これは自己否定にもなり無能の論証にもなりかねないために、全てのヒトは自律的責任判断ができないことにしておかないと気分的にいられないからである。

 養老が論ずる「私は30年間大学で働いた、そこには意味があったんだ、そう思わなきゃやってられないじゃありませんか。」などという歎きには合理的根拠など存在せず、単なる個人的な感情/気分の問題に過ぎないのだが。多くのヒトはこうした感情論こそが意識の産物であると信じて疑わないのである。


 無責任に行動しておけば腹も立たないであろう。「どうせ皆無責任なんだ。」などと勝手な観念の殻に閉じこもっておけば無責任な行動が正当化できると錯覚することは簡単である。しかしこれは一種の軽い自閉症であり、他人の話に耳を貸さなくなる原因でもある。

 しかし、こうした身勝手な観念の殻に閉じこもることによってヒトは自律的な社会的責任行動を放棄するようになるのであり。これこそが社会安全性への最大の障害でもある。

 多数他人はどうあれ、自分自身で自律的に理想を求めることこそが社会安全性を確立する唯一最大の対策である。社会制度云々という環境依存的な行動抑制では限られた行動しか抑制することはできず、制度そのものの確実性については権威他者への丸投げにしかならないのである。

 自律的に社会的責任判断を行うのは、個人の主体的意思によるものである。自律というものは自発の中にしか原理的に存在せず、これは現状世間とは無関係な普遍的「人間性。」によって導き出されるものである。

 普遍的な人間としての主体的判断というものは、社会環境に依らず自発的意欲に基づいて行われるものであり。多くのヒト達は本能的な社会形成習性によって、多数他人への迎合服従による気分的安心満足ばかりが優先してしまい、本質的な自発的行動選択というものを簡単に喪失するのである。

 「社会に生かされている。」などという観念は、一見謙虚そうに見えるであろうが、実際には自律の欠落した環境依存的迎合性を共有して満足しているに過ぎず。実質的には卑屈さの共鳴に過ぎない。


 個人の利益追求よりも社会安全性や持続可能性を優先することは、個人の寿命に限りがある以上最も優先されるべき本質的合理性を伴った心ある選択である。

 「個人的利益追求こそが合理性である。」という文系大衆観念には合理的根拠はなく、追求されているのは個人的利益(目先の欲望)であって、何ら合理性自体は追求されていないという事実は、全くといって良い程周知されることがなく、呆れるばかりだ。

 ヒトの多くは感情だけで行動が優先してしまうものである。これはヒトという動物である以上逃れることのできない習性傾向であるが、ヒトは習性傾向だけでしか行動選択が不可能であることの論証にはならない。

 文系大衆観念上においては習性だの傾向性さえ枚挙しておけば、あたかも習性や傾向性のままに行動しても許されるかのような身勝手な観念に閉じこもり、普遍性を持った論理検証性を開くことを拒絶するのである。

 論理検証による追求には普遍的な価値も導き出すことが可能だが、観念の殻の中には偏った観念における価値観に基づいた固定観念しか導き出すことが出来ないのである。

 「どうせ○○だから。」といった合理的根拠のない決め付けというものは、「ポアするしかないか。」と言っているカルト宗教の教祖と思考パタンは一緒である。

 ヒトは短絡的最終解決による気分的安心満足ばかりを追求しがちであるが、そこからより普遍的価値を持った判断というものは選択されることはなく。目先の気分しか満たすことはできないのである。

 それがどれだけ無責任で危険であるかを、多くのヒトは意識から外し、無視することによって目先の満足の殻の中に閉じこもる習性傾向がある。これを個人が自律的に断ち切ることによって社会の安全性というものは高めることが可能となるのであって、社会制度などの環境によって確保可能な安全性というものには限界がある。



○協調性。

 文系観念上では「協調性=人間としての素養。」として扱われることが多いが、協調性というものは振り込め詐欺師集団でもカルト宗教でもシエラレオネの少年ゲリラでも持っている能力であり、単なる「ヒト。」としての生物的能力に過ぎない。

 一人で地道に研究するような仕事であれば、多数他人との協調性が必要とは限らず。協調性の有無と人間としての価値には相関はない。

 むしろ本能的社会形成習性に由来する結果的協調性によって統率的に反社会行動に無意識に流されてしまうことの方が人間として出来損ないであると言える。

 無意識に多数他人との迎合性によって協調行動を採ることに馴れてしまうことによって、自律的に社会的責任判断を強迫観念的に出来なくなってしまうものでもある。

 協調性によってヒトは大きな力を得ることが可能であるが、こうした力というものをどのように使うのか、その選択を行う本質的意識/合理的検証がないから、力の暴走に至ることに陥るのである。

 協調性などという断片的な個性/性格を人間としての価値であるかのように錯覚するのは文系大衆特有の論理的根拠のない実証不能の観念に過ぎない。


 協調性に優れているからこそシエラレオネの少年ゲリラは残虐行為を統率的に行うことが出来るのである。多数他人との協調性/迎合性は、文系観念上では気分的安心満足をもたらすために、あたかも優先されなければならないものであると論理的根拠もなく錯覚されているが。東京電力の社員達の迎合性/協調性こそが原発の暴走を招いたことを忘れては困る。

 無意識的な協調性と迎合性は一体であり、生物本能的社会形成習性という動物的な能力に過ぎず。人間としての自律的社会責任判断を失わせることはあっても、促すことはない。

 目先の安心だの欲望に意識を奪われ、統合的な人間としての行動責任を無視しておいて社会の安全性も持続可能性も確立されることはない。

 ヒトの多くは目先の効用/欲望/生存/多数への迎合に意識を奪われ、本質的な人間としての自律的責任判断の重要を簡単に忘れてしまう性質がある。

 単なる集団内部における迎合的協調性は、自律的な社会的責任判断とは無関係な生物的能力に過ぎず。こんなものを基準にしていても人間性は全く養われることはない。

 協調性というものの「力。」を、どのように使うのかは自律的な論理検証性によって選択されなければならないものである。単なる一面的な能力基準だけを、あたかも人間としての価値であるかのように錯覚するのは大変な大間違いである。

 動物的な協調性に欠けようとも自律的に社会的責任判断ができれば人間としての価値は存在するものである。それが文系大衆観念上において気分的に不安/恐怖を抱くとしても、こうした気分感情こそが実証不能の観念でしかないことを認識すべきである。


 倒産したJALのキャビンアテンダントは、「自分一人では何も変えることはできない。」と諦めていた。こうした諦めというものも動物本能的な多数他人への迎合性によって無意識的に促されるものなのである。本能的無意識な協調性というものには何ら社会にとって有益性を持たないものなのである。

 西武グループ会長によるインサイダー取引に加担した社員も、大王製紙の社員も、協調性という名の迎合性によって犯罪を助長してしまった。協調性があると従順で扱いやすく、便利で気分的にも安心であろう。親教師といった大人による統率をしている間は便利で扱いやすい「良い子。」であろうが、その扱いやすさというものは振り込め詐欺師やヤクザ、カルト教祖にとっても便利なバカでしかないのである。

 単なる協調性によっては社会の安全性や持続可能性といった最も重要な人間としての素養は得られない。バカな大人の手抜き教育によって社会は破綻への暴走に陥ることを認識すべきである。



 何だか毎回だらだらと下手くそな長い文章書いているけど、伝わっているのかな。何ヶ月も放置しておいたけどアクセスIPはあんまり減らないので、何かを期待されているのか、それともボットの類がサーチしているだけなのか。ううむわからない。






Ende;

一括投稿。

2012年07月02日 12時34分10秒 | 意識論関連

○「麻原彰晃が何をしたかったのかを知りたい。」

 麻原は何か統一的な目的があって教団を指導していたのではなく、その場限りに自分の地位を維持するための命令を下していただけであって、具体的に「何をしたかった。」わけではない。

 麻原はナチスの絶滅収容所吏官アドルフ:アイヒマン同様に外見的には権力欲が強く、他人に対する順位欲として他人に対して異常なまでに上下関係を求めていた。これは本能的な社会性/社会形成習性による行動である。

 麻原は他人からの見た目、外見上の権威性に憧れていただけであって、集団内部においての権威性を維持することばかりに固執した結果として暴力的命令を下したに過ぎない。

 麻原は基本的に全て「ポア。」なる短絡的な最終解答しか導き出しておらず、麻原の目的とは弟子からの盲目的信頼によって服従させることだけであって、それ以上の統合的で合理性のある目的意識などなかったのである。

 世界征服程度の目的ならば、そこら辺にいる暴走族のバカガキでも求めるものであろう。問題なのはこうした荒唐無稽な要求/命令に対しての従順さを発揮する服従の本能習性である。文系大衆観念的には「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという実証不能の観念を盲信して安心したがるが、こうした合理性のない観念に何ら疑問を持たない論理検証性の欠落がヒトを破滅に導くのである。

 権威に服従して統率されていれば多くのヒトは安心して破滅の道を暴走することが可能であるが、破滅の道であることを論理的に認識して自律的に抑制することは非常に困難である。

 ヒトという生物に本能的欠陥があるとしても、特定の誰か救世主に対する服従によってどうにかなるようなものではなく。本能的欠陥を本能ではない論理検証性によって補うことが可能であり、その可能性が困難であるからといって破棄するという短絡的で安易な結論を導き出すのは、論理検証性に欠ける気分的な「諦め。」に過ぎず合理性の放棄である。

 ヒトの多くは論理検証を簡単に放棄し、観念的な諦めによって意識を狭窄化させておくことの方が気分的に安心であり満足することができるのである。

 麻原に聞きさえすれば全てが明らかになることの論理的根拠などなく、これは信者達の勝手な思い込みに由来する観念である。こうした観念を盲目的に信じ込んでいること自体が洗脳の原因でもある。麻原に目的があって意味のある命令を下しているものであると思っていたからこそ何の疑問も持たなくなったのである。

 マイケル:サンデルの講義も麻原の講義との類似点があり、特定の条件の範囲内においての思考を促されることによって、あたかも自分勝手で何かを考えたような錯覚に陥れる手法自体が洗脳であり。こうした洗脳手法を用いて学力競争を行っているからこそ、多くの高学歴者達は簡単に麻原に引っ掛かっるようになってしまうのである。

 「やる気スイッチ。」的な環境依存的自発性というものは、環境に依存している時点で本質的な自発性ではない。

 本質的な自発性というものは環境依存的に短絡的に見つけられるようなものではなく、様々なことに「ある程度。」挑戦してみなければ発見できないものである。「ある程度。」というのは個人差もあり環境にも依り「程度。」問題にしかならないが、これはヒトという種の生物の個体差によるものであって、これもまた「これさえやっときゃ。」的に短絡的に見つかるようなものではないのである。

 ヒトの多くは自分の気分が良くなることは短絡的に自分の頭が良くなったと簡単に錯覚する性質があり、構造的/環境依存的に快楽を与えられることによって簡単に洗脳することが可能である。「生徒に答を導き出させる。」と称して予め用意された解答に辿り着かせることによって自分で考えたような錯覚に陥れていること自体が、本質的な自発論理検証性を失わせる原因になっているが。こうした洗脳的学習による学力向上だけが目的となっていれば、個人の本質的自発性の探求などという面倒臭いことは排除されることになりがちである。こうした目先の学力追求によって教育者が自分の評価を求めることというのは、社会の持続可能性や安全性を無視した無責任な行動であることを認識すべきである。




 何の話だっけ。

 麻原が欲していたのは目先の多数からの支持信頼崇拝による優越感だけであって、それ以上の具体的目的意識があった訳ではない。

 本能的社会性/社会形成習性によって作り出される統率への安心感の追求だけが目的であって、その先に論理的根拠を持った本質的目的など最初から存在していないのである。

 一度作り上げた集団体制を維持することだけが目的となれば、そこには合理的自浄作用は全く働くことはなく、ただ気分本能のおもむくままに文系大衆観念的な最終解決や、或は権威者への盲目的服従による気分的満足以外は選択されることはない。

 ヒトという種の生物というものは、目先の短絡的最終解決や権威者への行動責任の丸投げによって、自律的責任判断を放棄しがちな性質が普遍的にあるからだ。

 「水戸黄門。」だの「暴れん坊将軍。」といった権威による暴力によって全てが解決されるような短絡的な話がヒトは大好きなのである。暴力的最終解決という暴走性というものは、ヒトという種に本能的に組み込まれた構造原理的帰結であって、こうした短絡的最終解決手法を多くのヒト達は「カッコイイ。」という感情を持つことで満足することが可能なのである。

 短絡的ではなく、合理性を持った対策というものには多数のヒトは気分的に満足することができず。そのため死刑制度という短絡的最終解決策が未だに温存されることになっているのである。

 ヒトという種の生物が、なぜ特定集団内部だけの身勝手な観念だけで行動が決定してしまうのか。それは集団内部における統率、服従迎合によって作り出される本能気分的安心満足が自動的/条件反射的に作り出されるものであって。それは本能的目的である快楽の追求だけであって、論理的根拠に基づいた具体的目的など存在しないのである。

 麻原に何を聞いてもオウムの目的など出てくることはない。それは振り込め詐欺集団の目的や、シエラレオネの少年ゲリラの目的と同様、合理性を持った具体的目的意識など最初から存在しないからである。

 シエラレオネの少年ゲリラのリーダーに「残虐行為の目的は何か。」と尋ねても具体的目的など出てくることはなく。こうした目的のない暴走というものは、どんなに高度な統率組織的結果であっても同じことであり、ナチスの総統が結局は自決してしまったのも、そこに合理性を持った目的など存在せず、ただ漫然と目先の体制維持だけに邁進した結果でしかないからである。

 子供のイジメにおいても、そこに目的があるわけではなく、あくまでその場限りの空気に多数が無意識に流された結果としてイジメが発生しているだけであり。統率的組織的にイジメを行っているとしてもイジメを行う集団のリーダーには何ら目的など存在せず、どんなにイジメの理由を尋ねても合理的な解答を得ることは不可能である。

 犯罪者の多くも、自分がなぜ犯罪を行ったのかの説明などすることはできず。むしろ何の目的もなく本能感情のままに無意識に流された結果として犯罪に至っただけ故に説明不能なのである。「悪魔が乗り移った。」だの「魔がさした。」といった、何ら合理性のない「説明。」しか出てこないのは、こうした当人の目的意識自体が介在しない行動結果でしかないからである。


 原発行政の暴走と同様、そこには合理性を持った目的など存在することはなく、ただ漫然と服従迎合する高学歴な多数凡人達による、目的意識のない無意識による本能的「結果。」でしかないのである。

 本能的目的である快楽/安心満足だけを追求しておけば、そこには論理的根拠を持った具体的目的など出てくる訳もなく、無意識的な「結果。」以上の何も出ては来ない。従来の生物学における目的と結果の区別が出来ていない実証不能の観念に基づく屁理屈や断片的言い逃れを放置しておいて、ヒトの暴走性というものへの原因究明や対策が立てられる訳はなく、未だに生物学では優生学への論理的反論をすることが出来ていないというのは、生物学者達の手抜き怠慢という他形容のしようがない。


 特定個人への崇拝、盲目的信頼によって作り出される服従と、それによって結果的に作り出される集団統率というものはヒトに進化する以前から組み込まれた、多くの動物に見られる本能習性であり。これは人間としての合理的目的意識とは無関係に機械条件反射的な無意識行動である。

 昆虫であっても可能な集団統率/役割分担という「社会性。」には、合理的目的を持った行動選択が伴わないのは当たり前のことである。そこにあるのは単なる生物学上の正義である「生存。」価だけであり、どんなに凶悪残虐暴力的であろうとも結果的に生存してさえいれば全ては必然的目的であるかのごとく論じられることに陥っているのである。

 こうした生物学における実証不能の観念というものは、マスコミを筆頭とする文系大衆観念/本能的満足との親和性が高く、論理的根拠を伴った合理的説明というものへの本能的拒絶反応によって差別排除され、一切認識されることがないのである。



 ヒトという種の生物は人間としては完全ではない、だからこそ人間は完全であろうとするのであるが。これを自己自身の自律的判断によって達成するのではなく、特定他者という統率者への服従によって気分的に安心満足させることにすりかえてしまうことこそがヒトという種における頭の悪さや合理性の欠落を招き、結果的に人間としての社会性も失うことになるのである。

 動物的社会性/本能的社会形成習性というものは、生物生存以外の何の結果以外何も論証することはなく、その過程において如何なる暴力的暴走があろうとも、結果的に生存してさえいれば構わないという極めてその場限りの短絡的結果論しか論証していないことを認識すべきである。

 その場限りの短絡的結果論だけを追求していれば、統合的で合理性のある「目的。」行動選択が導き出されないのは極めて当然のことである。

 生物/脳科学/哲学における、こうした怠慢というものこそが、合理的な原因究明や対策への阻害となっているのである。

 ある経済学者は、「目先の効用さえ個人が追求しておけば社会全体が良くなると良いな。」などという子供じみた短絡的妄想を述べていたが、その理由として「社会全体など一部の天才にしかわからない。」などと、自分自身の意識の低さによる無責任さを先天的能力限界であるかのようにすりかえているだけであり、無責任な言い逃れに過ぎない。

 誰も社会全体のことなど把握はしていない、しかし自分自身で把握可能な範囲内においてまで判断することを制限し、自律判断を放棄して良い論拠にはならない。

 こうした無責任な自律判断放棄を多くのヒトがしているから多くの社会問題が放置され、社会安全性や持続可能が向上しないのである。



 教祖やリーダーというのは本能的欲望によって結果的に得られる地位に過ぎず、必ずしも合理性のある目的行動選択であるわけではない。

 「指導力。」だの「統率力。」というのは必ずしも人間性を伴うものではなく、「善人に世界は変えられない。」などという観念の根拠ともなっている。文系大衆観念上における「決断力。」というものも、その場限りに無責任な決断を下すことに対して大衆の多くが盲目的信頼をすることによる気分的安心を得ているだけの観念に過ぎず、何ら合理的判断力を形容しているわけではない。

 文系観念上における「説得力。」も、気分的に納得したいかどうかという気分の問題でしかなく。論理的検証に基づく合理性のある「理解力。」とは無関係なのである。

 文系大衆観念上においては世界を変えさえすれば偉人と規定するため、歴史上における大量虐殺を英雄視する観念の根拠ともなっている。これを単に時代だの社会環境に基づいた判断であるとするならば、こうした観念自体が時代や社会環境に依存した「結果。」を並べているだけであって、普遍性のある人間としての目的意識とは無関係なその場限りの取り繕い/言い逃れに過ぎない。

 こうしたその場限り取り繕い/言い逃れを放置しているから、普遍的な人間としての目的行動がいつまでも選択されずに社会の諸問題が一向に解決しないのである。


 年功序列的な封建的体育会系組織への従順性を子供の頃から刷り込み学習させておけば、自分より目上の者に対する論理検証性や批判精神を喪失し。結果的に社会的自律判断能力を失い人間性も喪失することに陥るのである。

 当人自身は権威への忠誠忠実さだけを発揮しておくことによって、あたかも社会的存在であるかのような錯覚に勝手に陥ることが可能であろう。「SQ。」などという基準も要するに当人の気分的世間従順性を測っているに過ぎず、何ら自律的な社会的責任判断能力とは無関係な基準に文系大衆観念的に飛びついただけに過ぎない。それがどんなに多くの大衆凡民の大脳辺縁系を満足させたとしても、そこには合理的根拠など全く存在せず、単なる出版業界の金儲けに撹乱されているだけなのである。

 恐怖や権威性を用いた封建的服従性を子供に刷り込み学習させておけば、バカな大衆大人達にとっては扱いやすくて気分的に安心満足を得ることが可能であろう。こうした本能由来の文系大衆観念に無意識に流されているから合理的な論理検証性が多くのヒトから失われ、権力欲に溺れた「指導力。」や「統率力。」のある「決断力。」や「説得力。」によって多くの大衆凡民「衆生。」は暴走への抗力を喪失するのである。

 こうした状態を指して「危機意識が低い。」と言うのである。


 オウム幹部の上祐は、自律的に内部告発しなかった理由として「盲信と弱さ。」だと証言する。しかしこんなものは気分の問題、恐いとか安心かといった感情の問題に過ぎず。何ら論理的不可能証明にはならず、単なる言い訳/言い逃れでしかない。自分が精神的に弱ければ何をしても許される論証には全くならない。

 しかしヒトという種の生物は論理検証による合理的判断よりも、本能感情による恐怖や安心といった気分的バイアスによって行動を決定しがちである。振り込め詐欺だの占い師に騙されることも、気分的行動バイアスによるものであり。更には東北大震災において津波被害を大きくしたのも多数派同調バイアスや正常性バイアスといった気分的行動バイアスによるものである。

 ヒトの多くが反社会的行動に暴走しないのは、その行動バイアス的に破壊行為が恐いから暴走しないだけであって。ほとんどのヒトは自律的に行動判断しているわけではない。故に暴動などが一旦発生すると多数に便乗する形で暴動に加わるのである。それを社会のせいだの時代のせいにしているのであれば、これはオウムの思想と全く違いなど存在せず、オウムというのは文系大衆観念による気分的行動バイアスが作り出した一面的現象に過ぎない。

 ナチスやポルポトによる大量虐殺も、シエラレオネの少年ゲリラの残虐行為も、暴力団や暴走族の無意味な行動も、全ては本能が促す気分的行動バイアスが作り出した行動「結果。」であり、こうした気分的行動バイアスを漫然と文系大衆観念によって事後正当化しているからこそ、論理原因究明も対策も出来ないのである。

 無意識本能的行動「結果。」と意識的合理性を持った行動「目的。」の正確な区別も出来ずに、結果的に優生学などというバカげた観念をいつまでも学問として放置している生物学の怠慢は、学問の在り方として許されるものではない。


 「オウムの暴走を止めることが出来なかったのか。」と言うのであれば、「通り魔の暴走を止めることが出来なかったのか。」と論じているのと同じことであり。個々の事象においての結果論に過ぎない。

 本当に根本的解決策を求めるのであれば、本質的な合理的論理検証というものを文系大衆観念によって放棄しないことである。そのためには全ての学問から大衆文系観念を排除し、合理性のある論理検証によって何が正しく、何が間違っているのかを明確に判断することである。実証不能の観念と合理的根拠の区別も出来ずに解決策もすったくれもあったものではないからだ。

 被害者達は個々の事象における検証ばかりを求めるであろうが、統合的に「ヒト。」というものの性質を把握しなければあらゆる暴力性や暴走性というものに対する根源的原因というものは解明することは出来ないのである。

 オウム事件などの重大事件などばかりに意識を奪われ、子供のイジメのような小さな事象の原因と無関係であると錯覚してしまうのは間違いである。ハインリッヒの法則にあるように、一つの重大事象の陰には29の小さな事象が隠れているものであり、重大事象にばかり意識を奪われてしまっていればヒトという種の生物全般に見られる普遍的性質を見逃すことになるのである。

 ヒトという種の生物は本能的社会形成習性による観念的差別排除感情によって暴力的暴走に陥る性質が普遍的に存在することを認識する必要性がある。それが文系大衆観念的に多数に受け入れ難いかどうかで「判断。」すべきではない、気分で判断を下すから論理検証性を失うことになるからである。オウムの幹部や教祖であろうとも、かつては普通の子供であったこと、単なる「ヒト。」の一人であり。あくまでヒトという種の生物における無意識的暴走性の一面的結果に過ぎない。

 集団が暴走破滅という結末に至るのは、その行動選択に長期的持続可能性や安全性を追求するべき本質的意識が全く伴わないからである。

 ヒトという種の生物に普遍的に見られる暴走性を認識出来なければ、社会における持続可能性も安全性も確立されることはなく、予め組み込まれた本能による暴走の結果以上の結末を回避することは出来ないのである。

 人類は今まで本質的意識とは何で、無意識的なものが何かを認識区別することをしてこなかったため、こうした認識をしなくても気分的には安心していられるであろう。ヒトは長く続くことは永遠に続くと錯覚しがちであり、また、長く続いてきたことに対する気分的観念的安心感を得がちでもある。どんなに気分的に安心しても安全性の向上確立には全くならないことは、本来言うまでもないことのはずなのだが。

 本「意識論。」は、「これさえやっときゃ、全ては解決。」的な短絡的な解答ではなく。あくまで個人の自律的社会的責任意識の重要性を唱えるだけのものでしかない。それは決して簡単なものではないかも知れないが、難しそうだからやらないで済むような話でもなく、これ以外に解決策も存在しないのである。解決策自体が論理的に求められるものでしかないからだ。


 結果的に重大な破綻に至ったからと言って、暴走自体には目的など存在しない。東電による原発暴走であっても、特に東電が意識的に社会を破滅に向かわせようという目的意図はなく、あくまで無責任で無意識な暴走の結果として重大な破綻に至っただけであって。暴走というものは基本的に誰にも意思/目的がないからこそ暴走なのである。

 教祖やリーダーといった特定の者が「全てを知っている。」というのは文系観念上での勝手な思い込みに過ぎず、論理的根拠はない。

 このように論理的根拠のない文系大衆観念という「思い込み。」に囚われているから合理的論理検証が全く進まないのであって、こうした「思い込み。」という固定観念こそが論理検証性を不具にするのである。

 大学や研究機関において論理検証が出来ないにも関わらず単に学力が高いバカを飼い馴らしているから社会のあらゆる問題が一向に解決しないのである。

 マスコミも文系大衆観念に迎合して世間的なウケ狙いばかりに邁進しているからこそバカ研究者をそれと認識することができず、丸め込まれてしまっているため、何ら改善することがないのである。

 話を丸めることは気分的には安心であろうが、社会的責任判断とは言うことができないことを認識すべきである。


Ende;




○実証不能の観念。

 多数のヒトがアイヒマン実験や振り込め詐欺に引っ掛かっても、これは多数であるために気分的安心感だの多数決によって「普通。」或は医学的に「正常。」とされるが。多数の相手のご機嫌をとろうとしない場合にはアスペルガー症候群などと分類される。

 マイノリティの場合は社会的実害がなくても特殊扱いされるのだが、マジョリティの場合は社会的問題を含んでいても特殊扱いはされず、「○○症候群。」などと分類されることはなく。多くのヒトがアイヒマン実験に引っ掛かっても盲目的服従性には何の名称も付けられることはないのである。

 医学的な正常性というものは、人間としての社会性/自律的社会的責任判断能力とは無関係な生物学的正常性を論じているに過ぎないのである。

 ヒトとしてはアイヒマン実験で他人に危害を加えても「正常。」である。振り込め詐欺に引っ掛かっても、振り込め詐欺師自体が統率的に役割分担をして組織的に詐欺を行っても、これを医学的には「正常。」と規定する。

 暴力団だの暴走族ような組織的役割分担や封建的統率行動によって反社会的行動を行うことも、医学/生物学的には異常としては扱うことはない。

 人間として、社会的に異常な行動をとっていても、医学/生物学的には異常としては扱わない。従って犯罪者というものは医学/生物学的には治療対象にはならず、何ら合理性も存在しない司法刑罰による処理手続きを行うだけで済まされることにもなり。再犯率への対処対応の喪失の原因ともなっているのである。


 ヒトは多数派であることが気分的に安心であるために、これを観念的に「正常。」であると規定する習性傾向があり。これによって有害なヒトの習性傾向性であっても合理的原因究明も対策も行われることがほとんどなくなってしまうのである。

 逆に「空気を読めない。」程度の実質的には社会的有害性などないアスペルガー症候群のような性質は少数であるために特殊な病気扱いによる差別排除をするのが多くのヒトにとっては気分的に安心なのである。

 社会的に有害であっても多数派の習性傾向は放置され、社会的にはほとんど人畜無害な性質の場合は特殊扱いによる排除差別を行うのは。その分類自体に合理的根拠によるものではなく、文科系大衆観念に基づいたものであるからに他ならない。

 社会に対する「迷惑。」を生ずる実証不能の観念というものは、合理的根拠や検証性を持たない気分的安心による文科系特有の大衆迎合的無思考性によって作り出されるのである。


Ende;

一括投稿。

2012年07月02日 12時29分14秒 | 意識論関連
一括投稿


○コミュニケーション能力。

 動物としての本能的/感情的な「社会性。」であるコミュニケーション能力というものは現状世間においては金銭的価値を求められているであろうが、これは「ヒト。」という種の生物的価値にはなっても人間としての本質的価値とは関係がない。

 高いコミュニケーション能力によって世間的に成功しているとしても、社会的持続可能性や安全性という本質的社会性に適していることの論証にはならない。

 しかし、多くの文系大衆観念上では気分的に安心することばかりが優先され、本質的な人間としての社会性は多くの場合無視されるのである。

 空気を読まず、迎合しない者であっても自律的に社会安全性を優先しないことの論証にはならず。逆に空気を読んで権威に迎合することによってヒトの多くは差別や虐殺に加担する習性が存在することをアイヒマン実験は立証しているのであり、大衆に迎合せず多数のご機嫌をとらないからといって人間としての価値が低いことの証明にはならない。


 生物的/本能的すなはち気分的な安心感といったものは意識ではなく機械条件反射的無意識に過ぎない。ヒトの多くはこうした気分感情による行動バイアスこそが意識であると錯覚しがちであるが、人間としての本質的な意識というものは論理的思考による本質的合理性追求であることに対してヒステリックな拒絶反応をするのである。


Ende;



○「事件のカギを握る麻原。」

 麻原は事件のカギなど握っていない。

 教団の暴走というものは教祖に目的がなかったからこその結果である。暴走族が目的もなく暴走するのも統率自体が本能的な目的だからであって、集団で統一的統率をしていることの気分的安心を追求した結果に過ぎない。

 幹部達はただ教祖への忠誠忠実と評価を求めていただけであって、教祖もまた従順に服従する幹部の言うことを盲目的に信用していただけなのである。

 ヤクザやゲリラと同様に、統率的に行動することによって気分的安心を追求しているだけであって、彼らのリーダーには何ら目的など一切存在せず。麻原やナチスのヒトラーも同様に何の目的もない。

 暴走する集団というものには、そもそも誰にも合理的目的行動選択が行われないからこそ暴走するのであって。命令を下している教祖リーダーであるからといっても目的だの「事件のカギ。」を期待するのは間違いである。

 暴力団がなぜ暴力団であるのかを暴力団の構成員に尋ねても答がないのと同様、暴走族がなぜ暴走行為を行うのかを暴走族に尋ねても答がないのと同様、ゲリラがなぜ残虐なのかをゲリラ当人に尋ねても答がないのと同様、カルト宗教の暴走の原因をカルト宗教の教祖や幹部に尋ねても合理的回答が返ってくることは原理的にない。

 合理的回答を持っているのであれば最初から暴走になど陥らないのである。

 子供のイジメも同様であり、誰にも目的など存在せず、特定の仕切りたがり屋による扇動による多数同調の結果であり。リーダーとなる仕切り屋自身もまた多数からのウケ狙いを求めて扇動しているに過ぎない。子供になぜイジメを行うのかを問うても合理的説明による原因究明は原理的に不可能なのである。

 昭和天皇が軍による誘導によって太平洋戦争の責任者であるかのように祭り上げられたのと同様、北朝鮮の金正恩もまた何ら本質的には自発的選択など一切出来ない状況なのである。形式上の統率者だけが全てを取り仕切っているかのような錯覚を抱きがちであるが、実際には体制自体、集団全体の多数迎合性によって暴走性は作り出されるのである。

 自律的に目的行動選択を持たない本能的社会形成だけで統率された集団にとって、自律的に目的行動選択を行う者というのは気分が悪い邪魔な存在であるため、徹底的に差別排除され、粛正というヒステリックな最終解決が短絡的に行われることになり。集団は益々暴走の一途を辿ることに陥るのである。

 こうした無意識的な社会形成本能による暴走性というものは、司法による当事者への罰では何ら原因究明にも再発防止策もなることはなく。ただ漫然と慣習に従って感情的満足を得ているだけの無駄な行為に過ぎない。

 司法が追求する真実というのは、「その。」事案においての断片的真実を暴くことだけしか行われることはなく。ヒトという種の生物自体に由来する本能的暴走性については全く言及されることはない。刑事裁判の目的は再発防止ではなく、あくまで科料の妥当性を吟味することだけであるからだ。

 法制度手続きだけに基づいて行われる司法というものは、制度上規定された刑罰科料の妥当性吟味だけが目的であり。こうした手続き自体も、多数の大衆による論理的根拠を持たない観念によって維持保守されるだけである限り根本的解決としての科学的解析や再発防止対策の確立には構造的になっていない。

 裁判というものは、これ自体が刑罰を決定するためだけに存在するためのものであって。三権分立という制度自体はあくまで経験則的に構築された結果的制度に過ぎず、必ずしも科学的論理的根拠に基づいて規定されたものではない。

 何せ法律こそが具体的だと思い込んでいるようなバカが検察官をやっているような現状において、具体的な事件の原因究明や再発防止策の確立などされるわけがない。司法に携わる者達というのは法手続きに則って機械的に処理することによる評価報酬だけが目的であって、社会全体の安全性も持続可能性も意識の俎上には全くないからである。

 警察や検察による事件の捏造も、真実の追求によって安全性や持続可能性を高めることが評価になるようには構造的になっていないからであって、利己的な評価だけを目的としているからこその結果なのである。

 最近では評価の方法を変えることによって無意識な役人達の行動を制御する方法論というものが提唱されているが、これは役人個人の主体的自律判断というものを無視した「バカの取り扱い方。」を論じているに過ぎない。警察が取り締まりを最終目的とするよりは社会安全性を目的とするように「誘導。」できた方がいくらかはマシではあろうが、根本的な解決策とするのは大きな間違いである。個人が「バカである。」こと自体を改善しない限りはバカげた結果に至ることは避けられないからだ。

 本来であれば制度云々といった環境に依らず自律的に社会全体の安全性や持続可能性を追求するのが「人間。」としての社会性というものであるが。こうした根本的人間性というものが全く無視されたまま学力競争だけを漫然と強要してきた頭の悪さ、意識の低さ浅さ狭窄さというもの放置しておいて、社会が良くなる保証など全くないのである。

 ヒトの多くは漫然と慣習に則って同じことを繰り返しておけば安心で満足を得られるであろう。逆に言えば無意味な慣習であっても改革を行うことは恐怖と不安を抱くものでもある。ましてや無意識な多数に対して異議を唱えるとなれば世間からの排除をされることも少なくはない。その恐怖心/強迫観念こそがあらゆる社会集団における暴走性を助長する結果を招くことになるのである。


Ende;



○「勝てると思っているのかしら。」

 TBSの「怒り新党。」って番組で、自転車が自動車の間をすり抜けることについてマツコデラックスが形容してたんだけど。

 自転車が自動車の隙間をすり抜けするのは、自動車が道路を封鎖しているからすり抜けなければならないのであって、別に「勝ちたい。」からすり抜けているわけではない。と思う。

 有吉が言うには「俺ら(自動車)が避けてやっている。」とも言っていたが、すり抜けをしなければならいのは、赤信号で自動車が道路を封鎖しているからであって、多くの自動車は自転車が走れるようには考えていない。

 特にタクシーの場合、客を拾うために急な幅寄せをしてくることも多いために自転車からは嫌われている傾向もある。おいらも何回か経験がある。仕事で二輪車を運転をしていればタクシーは敵だと思われているかも知れない。

 自動車運転をしている者の多くは、赤信号の交差点に「詰めて。」並ぶためだけにスピードを出している場合が非常に多く、自転車からすると温室効果ガスを撒き散らして進路妨害をしているだけにしか見えない。

 そもそも「勝つ。」だのという観念は一体どこから出て来ているであろうか。こうした文系大衆観念というものには合理的根拠というものが全くなく、その場限りの気分から出て来る感情的なものに過ぎない。勝てれば良いというのなら、クレーン車が小学生を踏み殺しても構わないとでも言うのであろうか。

 法律上は自転車であっても「車両。」であるから、車道上では同じ扱いをされなければならないものであって、速度が遅いからといって無理矢理追い抜きをしなければならないわけではなく。むしろ速度の速いロードレーサー自転車を先頭に自動車が追従すれば、自ずと「ふんわりアクセル。」になって温室効果ガス削減にもなるし、赤信号で無駄に「詰める。」必要性もなくなる。

 幹線道路の多くは法定速度で走ることによって信号が順序よく青に変わるように設定されていることも多く、ロードレーサーの速度の方が無駄なアクセル/ブレーキ操作をせずに走ることも出来ることが多い。それに対して自動車の多くは無駄に加速して赤信号で道路を封鎖し、自転車の走行を妨害している場合が多く、その上路上駐車が重なると自転車としてはすり抜けをすることに「なってしまう。」のであろう。

 自転車で車道を走っていると、自動車は自転車の横をギリギリですり抜けてゆくことは日常茶飯事であり。それを無視して自転車の方のすり抜けだけを問題視するのは極めて身勝手な間違いである。

 そもそも自動車教習所では自転車が走っていたら何メートルかは離れて追い抜くように習ったはずであり、速度が遅いからといって無理矢理追い抜いて進路を封鎖して良いわけではなく。あくまで同じ「車両。」である以上、速度がどうあれ同じ扱いをしなければならないのである。

 「速度が速い方が偉い。」「車体重量が重たい方が勝てる。」などといった文系大衆観念というものは道路交通法上は全く根拠のない自動車の方の身勝手な決めつけに過ぎない。そんなものは道路交通法律上では何ら規定されてなどいないのである。

 大型車両が軽自動車よりも優先されないのと同様、自動車は別に自転車よりも優先されているわけではないことを認識すべきである。たとえ荷車であっても法律上は「車両。」であって、何ら邪魔にされるいわれはない。ベンツに載ってりゃ偉いわけでも優遇されるわけでもないのである。

 認識が足りないというのは、それが無意識であるからであって、文系大衆観念というものは論理的根拠のない無意識的な「常識。」のことでもある。

 法律を無視して、何となく無意識に自転車や荷車を蔑んで見る傾向というものが自動車運転者に限らず大衆観念的にはある。

 自動車を運転している者の多くは、何となくゆっくり走ることが「負け。」であるかのような感覚的錯覚を持っており。これによって強迫観念的に加速しなければならないと勝手に思い込んでいる場合が多い。

 ふんわりアクセルで法定速度を守って走っていると、時折煽ってくるバカもいるであろう。こうした一部のバカにつられて急加速を強迫観念的に行うのは無意識的な観念であることを認識する必要がある。

 ヒトというのは、一部の乱暴な者の扇動につられて強迫観念的に行動をしてしまうことが少なくない。多数の者が文系大衆観念に基づいて行動していれば、文系大衆観念こそが気分的安心や満足になってしまうものである。意識の9割以上が無意識であることを認識していれば、自分の行動が一体何を根拠に選択されているのかに思慮が働くものであるが、それが出来ていないから多くのヒトは「意識が低い。」状態から解脱することが出来ないのである。



 東京電力ではたくさんの社員が働いているはずである。その社員のほとんど全員が会社の「空気。」に迎合していたからこそ原発の暴走を招いたのである。

 「赤信号、皆で渡れば恐くない。」というのは集団心理傾向ギャグである。「恐い。」だの「勝てる。」だのといった気分感情に基づいた観念で行動選択がされているから無意識なのであって、これは極めて子供じみた発想である。

 芸人というのは大衆迎合が商売であるから、文系大衆観念に寄り添って空気を読むことが仕事であろう。だが、自動車の運転というものは原発同様社会的責任を伴うものであることを忘れるべきではない。

 疋田智が冗談半分で言っていたが、幹線道路では違法路上駐車車両は破壊されても賠償責任がないことにしてしまえば良いとおいらも思う。

 おいらの場合は冗談半分ではなく9割以上本気である。


Ende;


○帰属。

 ヒトという種の生物は、その本能的社会形成習性によって個人の意思尊重よりも集団帰属による安心を優先しがちである。

 特定集団への帰属による気分的/本能的安心満足というものは、個人の主体的で自律的判断を蔑ろにし、方向性のない集団暴走へと陥る傾向がある。

 個人が主体的な自律判断を誰もしない集団が暴走するのは当たり前のことであるが、集団心理が持つ気分的本能的安心満足感によって、あたかも集団の誰かが安全性や持続可能性を担保してくれていると論理的根拠もなく勝手に思い込むのである。




 北朝鮮の金正恩が、自発的に目的意識に基づいた政治選択をしているものであると多くの人は思うかも知れないが。実際には形式上の最高指導者として祭り上げられているだけであって、指導者個人が主体的に何かを選択しているのではなく、周囲の幹部による誘導によってしか判断をすることは出来ないのである。

 日本政府であっても大臣の多くは役人の言いなりであるのと同様、制度によって限定された閉じた集団の内部だけでヒトの選択はなされてしまいがちなのである。

 周囲の幹部の誰か特定の者に目的意識はなく、あくまで集団内部における最高指導者への忠誠忠実さ競争するための功績や評価を得るためだけの選択しかされることはない。


 本能的社会形成習性というものは、集団の統率性を作り出すものではあるが。その集団のトップが常に自律的に目的意識を持って選択を下していることはなく。むしろ多くの体制団体というものでは誰にも目的意識もなく、結果的に暴走しか生み出すことはない。

 ヤクザ、暴走族、カルト宗教といった反社会集団が持つ暴走性というものは、本能的社会形成習性の純粋発露であり、集団への帰属や忠誠忠実性の競争によって気分的/本能的安心感を得るための強迫観念的行動習性に過ぎない。

 こうした暴走性というものは形式上の反社会集団に限ったことではなく、東京電力や大王製紙、オリンパス、西武グループなど、挙げればキリがない程の多くの企業団体においても発生しうるヒトの普遍的行動習性であり。決して他人事ではない。

 集団内部における多数の観念というものが社会的に正しいのかどうかを個人が自律的に判断しなければ暴走は簡単に発生し、歯止めは全く働かない。

 危険学、ヒューマンエラーというものを論ずるためには、当人に危険意識/論理的危険性判断というものが不可欠であるが。個人が気分的安心と論理的安全性の区別が出来ないことには危険学というものは全く知識や教訓として生かされることはないのである。

 安全性を認識するのは個人である。集団体制というものは気分的安心しか満たすことは出来ないことを認識区別できなければ論理的安全性や危険性が何であるかを認識することは出来ない。


 ヒトの多くは特定の集団や世間多数への帰属による気分的安心ばかりを追求するばかりで、自律的な社会安全性や持続可能性といったものを目的とした選択を簡単に忘れるものである。








Ende;