犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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現代人の読書

2016年05月26日 | 椰子の実の中
ひとに教わるのが苦手だ。
ある事を教わっても、なかなか腹の底に落ちない。
自分で実感しないと、知識が身にならない。

学生の時に、ある発見をして、先生に報告した。
喜んでもらえるかと思ったが、
「授業で言ったじゃないですか」と残念そうに返ってきた。
とっくに教わっていたが、体感していないので
記憶すらできていなかったのだ。

教わったら、ピンと来ない事については
なぜそうなのか、ほんとにそうなのか、自分で試してみる必要があるのだろう。
よく教わるとは、そういう復習なのだろう。
そこまでちゃんと学び、習うことをしてこなかったと思う。

自分で発見する感覚が好きで、ついつい教わらない。
楽器でも、入門書を読んであとは独学、なんてことをやっている。
ある程度のことはできるが、そこから先はよほどの発想の自由さが無いと、
独力では展開していかない。



本を読んでいて、いいことを言っているはずなのにどうも届いて来ない
と感じるものがあった。

その著者は、やたらに仏教語を引用するのだ。
自分が生きている中で繰り返し経験したことを、
「これは仏教で言う○○である」と書いている。
仏教語を引くことで説明した気になってしまっているような感じがするが、
定理として名前を付けることに、または定理としてしまうことに
私は抵抗を感じた。

毎日生きていたらこんな発見がありました。でおしまいにしときゃいいのに。
私はどうも、自分の言葉で語っているもののほうが納得がいきやすいようだ。



桜井章一という麻雀の裏プロがいる。
金や権利を賭けて勝負する人間の代理として麻雀を打つという仕事をしていた人だ。
時には命を狙われる。

そんな世界の人であって、それだけを突き詰めてきた人だが、
言葉はどうもシンがある。
真だか芯だか信だかわからんけれど、シンがある。

麻雀の牌が、わかる。
伏せていても、何の牌だかわかるのだ。
モーパイと言って、伏せた牌の見えない面を指先で触れて何の牌か知る
という技術があるが、そういうことではない。
わかっちゃうらしいのよね。

相手の持っている牌の手役もわかる。
とにかく感覚が鋭い。
感覚が鋭敏になっていくと、五感ではなく第六感などと呼ばれるが、
たぶん、そういった境目はあまり考えなくて良いものなのではないかと
私は思っている。実感から。

その感覚の基になっているのが、姿勢だと桜井は言う。
正中面を通している、と言う。
正中線ではなく、面なのだ。
次元がひとつ加わっている。
雀卓へ向かうためのベクトルが含まれるのだろうか。

この人の言葉は強い。
強くて受け入れられない時もあるが、とてもよく伝わる。
自分の言葉で語っているからだと思う。



何かについて極めるには、自分の絶え間ない積み重ねも必要だが、
先人の知恵を借りることも必要だ。
何かを発見したら、それは個人の成果ではなく、人類の成果になる。

それは仏陀の悟りもそうだ。
仏教に学べば答えは早く得られそうだ、としばしば思う。
けれど、どうしても、教わっても身にならず、
自分でもがいた末にぼんやり見えてきた答えが力を持つ。

ぼんやり答えが見えてきたというくらいのタイミングで先人の言葉を学ぶと
すっきりと視界がひらけるのだろう。



「三千年を解くすべを持たない者は、闇のなか、未熟なままに、その日その日を生きる」
と、ゲーテが言ったとか。
先人に学ばないと、個人の力はそんなに及ばないよ。と言われているようだ。

ゲーテは三千年と言ったが、中国古典医学書はどうやら四千年の古さのようだ。
人類の知は古い。
古典に学べば、人生は70年80年ではなくなる。
古典に学べば、四千年の寿命を得ることができる。

とは思いながらも、個人の発見の喜びにつかまって、短く生きてしまっている。

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