[あらすじ] 漢の時代に公式文書に使われていた隷書(れいしょ)を習う。
石碑の拓本がお手本だったが、20世紀に入って、大量の木簡が発掘された。
筆で書いた活き活きとした隷書が出現して、書道の、少なくとも隷書の世界は
変わった。
それから百年くらい経ち、良い資料も出てきているので、
隷書の世界で木簡をお手本にすることは常識になってきている。
ということらしい。
なんせ、書き始めて3ヶ月の私にとっては何もかもが新しい知識だ。
石碑の拓本を見て、どう筆で書けば良いのかわからない、と
初心者の私が感じたのも、うなづける。
エラい先生が臨書したものを臨書して、それから拓本を臨書する。
ということを繰り返しているうちに、慣れて、拓本から直接臨書できる
ようになってきた。
そうは言っても、まだまだ動的でない。
そりゃあ行書や草書ほど動的ではあるまいけれど、
筆に墨で書く文字が、こんなに重厚なだけでもないだろう、
と、うっすら疑問を抱いてはいた。
これも、間違いではなかった。
石碑は、格式ある隷書なのだ。
木簡は、日常の通信文などだから、もっと素早く書いている。
木簡には、ピンからキリまである。
紐で綴って書籍としたものは、腕の良い人が書いたらしく、
かっこいい。
かっこいいなんて、あほみたいな賛辞だけれど。
私が見ても、この木簡はあんまりうまくないなあ、というものもある。
隷書が正体として用いられていた時代に、あんまりうまくない人が
どんな感じの字を書いていたのか見られるというのも、おもしろい。
とにかく、隷書を習得したいのなら、木簡の臨書をしないでは通らない。
しかし、文字が小さい。
なんせ、長さは30cm足らず、幅は1cm足らずといった細~い木の板に
書いている。
手本として、原寸大の写真を見るのだが、難しい。
まずは拡大した写真をお手本として使い、つられて自分も大きめに書く。
木簡の隷書が、筆使いの手本になるとは言え、
これだけ細い板にこれだけ小さな文字を書くのだから
こういう筆使いになっているのだ、ということもあるんじゃないか。
大きく書く隷書に、木簡の書法をそのまま移入することも無いだろう。
などと、初心のくせに思う。
とまあ、いろいろ書いているうちに、あれこれ発見があるだろう。
石碑の拓本がお手本だったが、20世紀に入って、大量の木簡が発掘された。
筆で書いた活き活きとした隷書が出現して、書道の、少なくとも隷書の世界は
変わった。
それから百年くらい経ち、良い資料も出てきているので、
隷書の世界で木簡をお手本にすることは常識になってきている。
ということらしい。
なんせ、書き始めて3ヶ月の私にとっては何もかもが新しい知識だ。
石碑の拓本を見て、どう筆で書けば良いのかわからない、と
初心者の私が感じたのも、うなづける。
エラい先生が臨書したものを臨書して、それから拓本を臨書する。
ということを繰り返しているうちに、慣れて、拓本から直接臨書できる
ようになってきた。
そうは言っても、まだまだ動的でない。
そりゃあ行書や草書ほど動的ではあるまいけれど、
筆に墨で書く文字が、こんなに重厚なだけでもないだろう、
と、うっすら疑問を抱いてはいた。
これも、間違いではなかった。
石碑は、格式ある隷書なのだ。
木簡は、日常の通信文などだから、もっと素早く書いている。
木簡には、ピンからキリまである。
紐で綴って書籍としたものは、腕の良い人が書いたらしく、
かっこいい。
かっこいいなんて、あほみたいな賛辞だけれど。
私が見ても、この木簡はあんまりうまくないなあ、というものもある。
隷書が正体として用いられていた時代に、あんまりうまくない人が
どんな感じの字を書いていたのか見られるというのも、おもしろい。
とにかく、隷書を習得したいのなら、木簡の臨書をしないでは通らない。
しかし、文字が小さい。
なんせ、長さは30cm足らず、幅は1cm足らずといった細~い木の板に
書いている。
手本として、原寸大の写真を見るのだが、難しい。
まずは拡大した写真をお手本として使い、つられて自分も大きめに書く。
木簡の隷書が、筆使いの手本になるとは言え、
これだけ細い板にこれだけ小さな文字を書くのだから
こういう筆使いになっているのだ、ということもあるんじゃないか。
大きく書く隷書に、木簡の書法をそのまま移入することも無いだろう。
などと、初心のくせに思う。
とまあ、いろいろ書いているうちに、あれこれ発見があるだろう。
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