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書譜に曰く

2017年03月25日 | 書の道は

[あらすじ] 10月から書の独習を始めた。

私もまるで知識が無く、楷書がもとで草書行書は楷書を崩したものだと思っていた。
ところが、習えばすぐに知ることになる、
楷書は最後に成立したものであって、草書は隷書を崩したものなのだ。

じゃあ草書をやるためには隷書をやらねば、隷書を理解するためには篆書をやらねば、
などとさかのぼって習う。

小筆に慣れたい。なんて思ったところから、
中国文明の歴史まで紐解くことになった。



かの北大路魯山人は、子どもの頃から書を練習し上手であったが、
上京して当時の名人である日下部鳴鶴の門を叩いた。
しかし、「隷書なんか最後にやるもんだ」と言われ、納得いかずに離れたという。

ここまであらすじだよー。



草書の名作にもいろいろあるけれど、ひとまず
孫過庭の「書譜」を臨書している。

木簡の隷書をやり、木簡の章草をやってから、
唐代の草書をやっているわけだ。

木簡の時代と唐代の決定的な違いと言えば、
楷書が成立しているか否か、である。

草書を書いているわけだが、その一方で楷書という形ができあがっているかどうかということは、
やはり、草書にも影響を与えている。

「書譜」の時代には楷書はもう完成している。
草書も、隷書の特徴である横にどっしりと落ち着いた雰囲気を
まったく残していないくらいに発達してきている。

そんな中にも、隷書の名残として波磔が垣間見られるのも面白い。
http://blog.goo.ne.jp/su-san43/e/b811e06b66fd1c1be47a01db521b906b
ぴらりと幅広の尾鰭を見て書くと、慣れた隷書との流れを感じて、
ほっとする。



「書譜」の中に、こうある。
今日はちょっと手抜きして、今井凌雪氏の訳を引用する。

「世間には間架結構などについて、多年研究していても一向にその法則が
のみこめない人がある。また、
楷書をやり草書をやっても悟るところがない人も多い。
たとえ何か会得するところがあっても、
考え方が偏ってしまって発展性がない。
大体、心手相応の境地という根本はひとつなので、
筆使いの種々相はそれから分かれた姿にすぎない。

日常の用に供するためには行書が第一である。
題額や碑の文字、それに掲示のための大字などは楷書が適している。
草書ばかりでは謹直を要する場合に不都合であるし、
楷書のみ習っていたのでは手紙文が書けない。」

ほらね。
孫過庭も、「いろいろおやんなさい」と言っている。



先日、「書譜」の訳を一部分あげた。
その時は、西林昭一氏の訳を参考にしつつ、
辞典を引き直しながら、自分で現代語訳した。

漢文の訳も、訳者によってさまざまで、一長一短である。
現代語訳してもまだこむずかしいのがまず気に入らない。

もとの漢文は四六駢儷体(しろくべんれいたい)という、
対句を多用したリズミカルな文体で書いてある。
リズムを崩す余計な言葉は、そぎ落とされている。

おかげで、文の調子は良く、全体は短くすっきりとしているのだが、
当時の中国文化の基礎知識が無いとなんのことやら分からない部分が多い。

それを訳の中で補っているのだが、
ついつい余計なことまで補っていたりして、これも気に入らない。

上に今井訳をあげた同じ部分の西林訳は、こんな具合だ。

「かくして構成や配置について長年研究していても、
法則を理解するにはほど遠く、
楷書を書いても悟れず、草書を習っても迷いを抱くばかりである。
かりに、少しは草書がわかる、まずまず楷書の法を伝承しえたと思っても、
それは偏った我流にはまりこんで、みずから普遍性を妨げてしまっているのである。
こんな風ではどうして精神と技法の融和が、
たとえば水源を同じうして支流がわかれ、
用筆法が、あたかも同じ幹に出る枝もその向きをちがえるようなものだ、
ということを理解できようか。
名筆家は書風や技法を異にしていても、会得している境地は同源なのである。

ところで、吏員が実務的なものを書くものや、一般の日常処理にかなった書体は、行書がもっとも適している。
題額や碑や、大字の公用書体には、はやり楷書が第一である。
ところが草書だけ学んで楷書をあわせ学ばなければ、きちんとしたものを書くのに危なっかしいし、
楷書はできても草書に通じていなければ、手紙などの日常文字はこなせない。」

ずいぶん違うもんでしょ。

やはり、孫過庭が書いた元の漢文に直接触れ、
書き下し文を読みながらいちいち漢和辞典を引き、
自力で現代語訳する必要を感じる。

書き下し文でもいいから漢文を読むことで、
文の調子の良さを味わう。
現代語訳に補いは必要だが、
孫過庭が言いたかった芯のところはどこなのかぼやけてしまうという
悪い面もある。



この後の部分も含め、続きはまた週明けから。


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