[あらすじ] 二十代三十代の頃に、仕事で担当していた地区を散歩した。
過去の担当地区を歩き、地面の水道メーターボックスを探して
うつむいていると、
当時の身体感覚から始まって、当時の感情や出来事を思い出していく。
あの頃は、あの頃は、あの頃は。
過去に思いが向くのはあんまり得策と思えない。
でもまあ、
「15年前まで担当していた町を歩いていたら、
当時失くした〇〇を見付けた。
それには△△が挟まっていて云々」
という法螺のネタにでもしようか、などと考えながら歩いた。
気分を立て直すために、ほとんど通ったことの無い道に入った。
ワクワクする。
※
道の横に幅一間、深さ半間くらいの溝が有る。
昔は水路だったのだろうか。
今は涸れて、草が生えて落ち葉が積もっている。
廃川歩きというご趣味が有るのをご存じだろうか。
以前は川だったが今は違う形になっている場所を
「ああここは川だったねえ」などと想像しながら歩く
まことにもって高雅な趣味である。
私もそのケが有る。
道が湾曲していたり、沿道に段差が有ったり、
橋らしきものだけが遺っていたり、
歩道の敷石が溝の蓋になっていたり、
マンホールの下から冷風が吹き上げてきたり、
そういった特徴で、暗渠が隠れていることを嗅ぎつけては喜ぶ。
路上観察学という芸術行為の一つの枠と言えるだろう。
こういう涸れた水路もまた大好物である。
明治大正頃の地図を見較べて、
ああ玉川上水のここんとこから分水してこっちへこう引いてあっちへ流してたんだな
なんてなことを知っては忘れて楽しむ。みやびやか~
※
ふとその空堀を見ると、落ち葉の間に異質な物が落ちている。
プラスチックの管を組み合わせて何か幾何学的な立体を作った、
直径15㎝ほどの物だ。
うす赤い細い管を、それぞれの辺の長さに合わせて切って、
中に細い紐を通して組んであるようだ。
ヒンメリだろう。
まさか。
私の作ったものではないか?
10年あまり前に、私は一時期ヒンメリ作りに凝ったことが有る。
当時同居していた人も色々工夫して大作を作ったものだ。
図書館で『ヒンメリをつくる』なんてステキな本を借りてきたりした。
また過去の経験が押し寄せてくる。
鍼灸の鍼は、無痛に打つためのプラスチックの管に入っている。
鍼の使用後にはその管が残り、捨てるばかりのものとなる。
この管を集めて、ヒンメリを作っていた。
ヒンメリはフィンランドの収穫祭の飾りだ。
もとは「天」を意味する。
黍殻だか麦藁だかで作るそうだ。
うす赤い色は、私が使っていた鍼の管によく似ている。
まさか。
法螺として考えていたのに、現実になっているのか?
私が作ったものか?
もしや彼女が作ったものが落ちているのか?
私は溝に飛び降りてみた。
※
拾ってよく見てみると、それは確かにヒンメリだったが、
管は薄く、鍼管ではなくてストローのようだった。
それでも、自分が作っていたものとよく似ている。
まあ、ヒンメリというのは幾何形に作るのだから、
ある程度似てくる。
近年では車のルームミラーにつる提げて飾っているのも見かけるので、
とびきり珍しいものでもないのかもしれない。
なんだかちょっと狐につままれたような、
自分の法螺の世界に引き込まれたような気分で、
そのまま廃水路の底を歩いて行った。
数十メートル行ったら、また有った。
別の形のヒンメリだった。
やはりストローで作ってある。
こちらはストローを切らずに用いた長い辺も有る。
自分の作ったものではないという確信をやっと得る。
それに、こんな材質で十年以上も経っていたら、
劣化しているはずだ。
これはきっと、この前のクリスマス辺りに飾りとして作ったものが
飛ばされてここに来たのではないか。
そう言えば、すぐそこにプロテスタント教会も在る。
なあんだ。きっとそうだ。
過去の担当地区を歩き、地面の水道メーターボックスを探して
うつむいていると、
当時の身体感覚から始まって、当時の感情や出来事を思い出していく。
あの頃は、あの頃は、あの頃は。
過去に思いが向くのはあんまり得策と思えない。
でもまあ、
「15年前まで担当していた町を歩いていたら、
当時失くした〇〇を見付けた。
それには△△が挟まっていて云々」
という法螺のネタにでもしようか、などと考えながら歩いた。
気分を立て直すために、ほとんど通ったことの無い道に入った。
ワクワクする。
※
道の横に幅一間、深さ半間くらいの溝が有る。
昔は水路だったのだろうか。
今は涸れて、草が生えて落ち葉が積もっている。
廃川歩きというご趣味が有るのをご存じだろうか。
以前は川だったが今は違う形になっている場所を
「ああここは川だったねえ」などと想像しながら歩く
まことにもって高雅な趣味である。
私もそのケが有る。
道が湾曲していたり、沿道に段差が有ったり、
橋らしきものだけが遺っていたり、
歩道の敷石が溝の蓋になっていたり、
マンホールの下から冷風が吹き上げてきたり、
そういった特徴で、暗渠が隠れていることを嗅ぎつけては喜ぶ。
路上観察学という芸術行為の一つの枠と言えるだろう。
こういう涸れた水路もまた大好物である。
明治大正頃の地図を見較べて、
ああ玉川上水のここんとこから分水してこっちへこう引いてあっちへ流してたんだな
なんてなことを知っては忘れて楽しむ。みやびやか~
※
ふとその空堀を見ると、落ち葉の間に異質な物が落ちている。
プラスチックの管を組み合わせて何か幾何学的な立体を作った、
直径15㎝ほどの物だ。
うす赤い細い管を、それぞれの辺の長さに合わせて切って、
中に細い紐を通して組んであるようだ。
ヒンメリだろう。
まさか。
私の作ったものではないか?
10年あまり前に、私は一時期ヒンメリ作りに凝ったことが有る。
当時同居していた人も色々工夫して大作を作ったものだ。
図書館で『ヒンメリをつくる』なんてステキな本を借りてきたりした。
また過去の経験が押し寄せてくる。
鍼灸の鍼は、無痛に打つためのプラスチックの管に入っている。
鍼の使用後にはその管が残り、捨てるばかりのものとなる。
この管を集めて、ヒンメリを作っていた。
ヒンメリはフィンランドの収穫祭の飾りだ。
もとは「天」を意味する。
黍殻だか麦藁だかで作るそうだ。
うす赤い色は、私が使っていた鍼の管によく似ている。
まさか。
法螺として考えていたのに、現実になっているのか?
私が作ったものか?
もしや彼女が作ったものが落ちているのか?
私は溝に飛び降りてみた。
※
拾ってよく見てみると、それは確かにヒンメリだったが、
管は薄く、鍼管ではなくてストローのようだった。
それでも、自分が作っていたものとよく似ている。
まあ、ヒンメリというのは幾何形に作るのだから、
ある程度似てくる。
近年では車のルームミラーにつる提げて飾っているのも見かけるので、
とびきり珍しいものでもないのかもしれない。
なんだかちょっと狐につままれたような、
自分の法螺の世界に引き込まれたような気分で、
そのまま廃水路の底を歩いて行った。
数十メートル行ったら、また有った。
別の形のヒンメリだった。
やはりストローで作ってある。
こちらはストローを切らずに用いた長い辺も有る。
自分の作ったものではないという確信をやっと得る。
それに、こんな材質で十年以上も経っていたら、
劣化しているはずだ。
これはきっと、この前のクリスマス辺りに飾りとして作ったものが
飛ばされてここに来たのではないか。
そう言えば、すぐそこにプロテスタント教会も在る。
なあんだ。きっとそうだ。
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