子どもの頃から、’ほんとうのこと’が知りたかった。
どうしたら’ほんとうのこと’を知ることができるのだろう。
子どもの頃は、死んだら’ほんとうのこと’を知れるんじゃないか、
と思ったりした。
年寄りと’ほんとうのこと’と死とは、子どもの私からは
同じくらいに遠かったのだろう。
※
よーく観察すれば、正確に知ることができる。
そう思ってやってきている。
信念という言葉が当てはまるのかもしれない。
当人としては、あまり信じていない。
自分の見たことなど、信用ならない。
自分のところから見えるものなんて、限りが有るったらありゃしない。
科学の発展の歴史は、人間の目に見えなかったものを見るための
道具を作る歴史とも言えると思う。
誰だっけね、天文学者だったか微生物学者だったか、
自分でレンズを磨いてそれまでより一層見える望遠鏡だったか顕微鏡だったかを作って
新発見したんだったか新発見を導いたんだったか。
かなりうろ憶えですな。
脳みそにうろができていますな。
すごく遠くて肉眼じゃ見えないもの、
すごく小さくて肉眼じゃ見えないもの。
使えば見える道具、レンズ。
すばらしきはレンズ。
これ以上は分けられないぜ!
と思っていた分子だって原子だって、
もっと細かい部品からできていることが分かってきている。
どこまで続くのか。
見える範囲が一段階進むと、
それまで謎だった事が解明されて、
それが答えに見える。
しかし、実はまだまだその先が有る。
その繰り返しで科学が発展してきた。
今知られている事実も、技術がもう一段階進んだら、
間違っていたことが次々と明らかになるかもしれない。
よーく観察すれば、正確に知ることができる。
と書いたが、
どんなに観察したって、
見る技術が低かったら正確に知ることはできない。
そう知りながら見ないと、見たままを信じて間違ってしまうおそれが有る。
この、タンパク質と灰白質で濁った視覚は鵜呑みにできない。
それでも、まずは自分の目を頼りにしていくしかない。
※
だから、疑うことを忘れてはいけない。
※
よーく考えれば、かなり正確な推論ができる。
信念というよりは、
そうありたいと願っている。
短絡や憶測に陥らないように、なるべく多くの根拠を集めて、
疑わしいものを篩い、より信頼できる材料を用い、
複数の推測を試し、より妥当と思えるようなものを選んだり、
選んでしまわないように一歩引いてみたりする。
こうだったらいいな、という期待や、
これ以上考えるのは面倒、という手抜きや、
あんにゃろうどうせそんなこったろう、という決めつけなど
自分の都合に良いところに落ち着こうとしたら、
結論はゆがむ。
※
だから、疑うことを忘れてはならない。
※
観察も推測もいづれにしろ、自分の力をもとにしている。
これがいかん。
限度は手の届く範囲だ。
自分の狭い経験や、自分の不正確な耳や、
自分の低いアンテナだけでは、
感知するところは小さい。
その小さいものを根拠に推論していたら、間違ってしまう。
自分の手の届かないものも手に入れたいなら、
他人の力も借りるのが良い。
しかし、インチキをつかまされたり、間違った道を教えられたりしたら
自力よりも迷ってしまうので、
誰を頼るかは選ぶ必要が有る。
じゃあどうやって選ぶかというと、
やっぱり自分の力で選ぶことになる。
良い先生を見付けられると、
話が速い。
こちらの持つ疑問に対する答えを、先生は持っている。
そして出し惜しみしない先生が良い。
私のセンセイは、会うと色々な話をしてくれるが、
これが、私の持っている疑問の答えになっている。
そのつもりは無いのに私は予習していたような形になる。
ちっと気味悪いくらいスッキリと答えがもらえる。
いかんなあ、先生がいると、ラクだ。
教わった答えって、自分が見付けた答えより、
忘れやすいのよね…。
ただ、答えを答えとして受け止められるのは、
疑問を抱いている時だけである。
自分で疑問を持っていなけりゃあ、
何を聞いてもそれはただ流れていくだけだ。
だから、疑うことを忘れてはならない。
※
そんなふうにいつも思ってきた。
先日、サンスクリットの講義の中で、
プラマーナという言葉を知った。
「知る手段」である。
プラマーナには三つあるという。
一つは感覚器官。自分の目や耳など。
もう一つは推論。感覚器官で得たものをもとにする。
そしてもう一つは言葉。信頼できる師などの教えの言葉。
ああ、なんだ。
古代インドから、言っていたことなんだ。
慎重に慎重に考えてきたことだったけれど、
観察して考えて教わる、
というのは、何千年と確かに言われてきたことだったんだ。
プラマーナということを知っていたら、早かっただろうか。
なんだか、自力で考えて到達する必要が有ったから
知らずにきたのかもしれない。
あるいは自力で考えた末だから、答えが耳に入るようになったのかもしれない。
どちらでもいい。
とにかく、知りたい。
どうしたら’ほんとうのこと’を知ることができるのだろう。
子どもの頃は、死んだら’ほんとうのこと’を知れるんじゃないか、
と思ったりした。
年寄りと’ほんとうのこと’と死とは、子どもの私からは
同じくらいに遠かったのだろう。
※
よーく観察すれば、正確に知ることができる。
そう思ってやってきている。
信念という言葉が当てはまるのかもしれない。
当人としては、あまり信じていない。
自分の見たことなど、信用ならない。
自分のところから見えるものなんて、限りが有るったらありゃしない。
科学の発展の歴史は、人間の目に見えなかったものを見るための
道具を作る歴史とも言えると思う。
誰だっけね、天文学者だったか微生物学者だったか、
自分でレンズを磨いてそれまでより一層見える望遠鏡だったか顕微鏡だったかを作って
新発見したんだったか新発見を導いたんだったか。
かなりうろ憶えですな。
脳みそにうろができていますな。
すごく遠くて肉眼じゃ見えないもの、
すごく小さくて肉眼じゃ見えないもの。
使えば見える道具、レンズ。
すばらしきはレンズ。
これ以上は分けられないぜ!
と思っていた分子だって原子だって、
もっと細かい部品からできていることが分かってきている。
どこまで続くのか。
見える範囲が一段階進むと、
それまで謎だった事が解明されて、
それが答えに見える。
しかし、実はまだまだその先が有る。
その繰り返しで科学が発展してきた。
今知られている事実も、技術がもう一段階進んだら、
間違っていたことが次々と明らかになるかもしれない。
よーく観察すれば、正確に知ることができる。
と書いたが、
どんなに観察したって、
見る技術が低かったら正確に知ることはできない。
そう知りながら見ないと、見たままを信じて間違ってしまうおそれが有る。
この、タンパク質と灰白質で濁った視覚は鵜呑みにできない。
それでも、まずは自分の目を頼りにしていくしかない。
※
だから、疑うことを忘れてはいけない。
※
よーく考えれば、かなり正確な推論ができる。
信念というよりは、
そうありたいと願っている。
短絡や憶測に陥らないように、なるべく多くの根拠を集めて、
疑わしいものを篩い、より信頼できる材料を用い、
複数の推測を試し、より妥当と思えるようなものを選んだり、
選んでしまわないように一歩引いてみたりする。
こうだったらいいな、という期待や、
これ以上考えるのは面倒、という手抜きや、
あんにゃろうどうせそんなこったろう、という決めつけなど
自分の都合に良いところに落ち着こうとしたら、
結論はゆがむ。
※
だから、疑うことを忘れてはならない。
※
観察も推測もいづれにしろ、自分の力をもとにしている。
これがいかん。
限度は手の届く範囲だ。
自分の狭い経験や、自分の不正確な耳や、
自分の低いアンテナだけでは、
感知するところは小さい。
その小さいものを根拠に推論していたら、間違ってしまう。
自分の手の届かないものも手に入れたいなら、
他人の力も借りるのが良い。
しかし、インチキをつかまされたり、間違った道を教えられたりしたら
自力よりも迷ってしまうので、
誰を頼るかは選ぶ必要が有る。
じゃあどうやって選ぶかというと、
やっぱり自分の力で選ぶことになる。
良い先生を見付けられると、
話が速い。
こちらの持つ疑問に対する答えを、先生は持っている。
そして出し惜しみしない先生が良い。
私のセンセイは、会うと色々な話をしてくれるが、
これが、私の持っている疑問の答えになっている。
そのつもりは無いのに私は予習していたような形になる。
ちっと気味悪いくらいスッキリと答えがもらえる。
いかんなあ、先生がいると、ラクだ。
教わった答えって、自分が見付けた答えより、
忘れやすいのよね…。
ただ、答えを答えとして受け止められるのは、
疑問を抱いている時だけである。
自分で疑問を持っていなけりゃあ、
何を聞いてもそれはただ流れていくだけだ。
だから、疑うことを忘れてはならない。
※
そんなふうにいつも思ってきた。
先日、サンスクリットの講義の中で、
プラマーナという言葉を知った。
「知る手段」である。
プラマーナには三つあるという。
一つは感覚器官。自分の目や耳など。
もう一つは推論。感覚器官で得たものをもとにする。
そしてもう一つは言葉。信頼できる師などの教えの言葉。
ああ、なんだ。
古代インドから、言っていたことなんだ。
慎重に慎重に考えてきたことだったけれど、
観察して考えて教わる、
というのは、何千年と確かに言われてきたことだったんだ。
プラマーナということを知っていたら、早かっただろうか。
なんだか、自力で考えて到達する必要が有ったから
知らずにきたのかもしれない。
あるいは自力で考えた末だから、答えが耳に入るようになったのかもしれない。
どちらでもいい。
とにかく、知りたい。
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