[あらすじ] 今日は東京レインボーパレード。
[性的マイノリティ]とカテゴライズして書いているとき、
私は読者を限定していない。
限定しないと、なんとなく自然と、マジョリティに向けた書き方になっている。
ストレートのみなさん、私はこんなですよ、
というスタンスである。
が、今日は、仲間に向けたい。
仲間ってざっくりとした言葉だけど。
テーマは普遍性があるので、誰が読んでも感じるものはあるはず。
感じない人は差別しちゃう人かもしれない。
パレードの当日である今日は特に、自分はなにがしかの意味でマイノリティだと思っている人、
差別されていることを感じている人、自分が何者かを声をあげて言えない人、
そういう人に向けて書く。
※
ここ数年、日本ではLGBTという言葉がよく聞かれるようになった。
コミュニティの動きも盛り上がっている。
しかしきっと、社会が反動的になる時が来る。
ということを昨日書いた。
事実、反動的な動きは絶えずあり、今はむしろそれがはっきり見える。
与党議員の発言のあれこれを聞くにつけ、そう思う。
※
LGBTであることを隠して日常生活を送っていても、つまりクローゼットであっても、
カムアウトして社会生活を送っていても、
生きづらさを感じることは現実にある。
いっつも傷付いているからこそ、年に一度のお祭りの日に
「ハッピープライド!」と言い交わすのだ。
そんなに傷付きっぱなしのプライドってなんだ。
プライドって何なんだ。
※
コミュニティの活動の中で大事なものに、社会への働きかけがある。
たとえば同性婚の法制化(私は違う意見だけど)へ向けての活動とか、
そこまでに至る、地道な地元でのひとつひとつの活動(同性カップルで婚姻届を出すとか)とか、
その基盤としてまず差別禁止法を作ろうとか、
そのまた下地としてどういったハラスメントが日常にあるのかのアンケートを取るとか。
様々な団体が、様々な切り口から活動を積み重ねている。
こういった活動のおかげで、社会は変わって行っている。
現在の国のあり方から言って、法律ができたり変わったりすることが
社会の変化の明確な表れだ。
※
そうやって社会は変わっているけれど、
きっと反動がくる。
まあ、社会的な反動が来なかったとしても、以下のことは
必要なことだとは思う。
たとえば私は、
「彼女」と呼ばれたり、体の形について言われたり、
男女別の制服を着たり、「奥さん」と呼ばれたりすると、
非常に気分悪い。
メゲますわよ。
それは、自分がどのような性自認を持っていようと、
はたから見りゃ「中年女」にしか見えないという事実を突きつけられるからだ。
悔しいし、自分の体がいやになるし、
今の自分がいやになる。
一方で私は、
「白髪多いね」と言われても、なーんもいやじゃない。
自分が気にしていないからだ。
同世代の多くの人は、1本でも見つけたら切ってみたり、
そういう対処が間に合わなくなってきたら染めてみたり。
白髪がいやなのだろう。
いや、白髪がいやなのではなく、白髪は老いの証であって、
老いがいやなのだろう。
二十代から白い部分はあったし、
それが増えたのは心身の疲れが重なった時だったし、
とかく、白髪と老いをあまり強く関連付けていない。
それに、老いるのも悪くない。
この辺りはあれこれ問題が絡むが、今は本題ではないのでこれくらいですっ飛ばす。
つまり、自分が気にしてなければ、周りに何を言われたって、平気なのだ。
※
だから、
女に見られていやな私は、自分の中に女性に対する嫌悪や蔑視が無いか、
よくよく検証する必要がある。
単なる身体的な感覚だろうとは思っているが、ほんとにほんとか洗い出してみる必要がある。
その上で、単に女性に見える身体がいやならば、
そこを言われていやなのは、自分がいやだからひとの言葉が不快なのであって、
ひとの言葉そのものが悪いわけではない、という整理をする。
私も今、こう書きながら、自分で考えてたどり着いたこのことを書きながら、
まだ自分の腑には落ちていない。
私はこういうことを言われたら傷付きます、だから配慮してください。
と、説明することも必要である。
そんなことで傷付く人がいるなんて、思いも寄らない人のほうがたぶん大多数ってとこだろうから。
だから、思いやりの勘所がこんなところにもある、っていう
共通の知識を社会の中で持とう、という意味で、
説明はとても大事だと思う。
ただ、その方向の活動だけしていると、悪いのは配慮の無い言葉、
ハラスメントのせいで傷付いた、差別が社会にある、
と、外ばかりに理由を置いてしまう。
社会を変えるのはたいへんだ。
もちろん、たいへんだが変わるのだが。
同時に、自分も変えていくと、コロリと事態が変わったりもする。
自分がこうなのは自然なこと、と
しっかり思えていれば、周囲の言葉がどうであろうと、
クヨクヨすることも無い。
※
繰り返しになるけれど、もちろん、法治国家であるので、
法律という形に仕上げることは必要である。
その活動も大事。
社会への働きかけの活動と同じように、
自分の内面から差別を撤廃することもできるんだ、
ということが、今日は言いたかった。
自分の気持ちのありかたは、自分の生活のすべてに影響するからね。
※
では、今日も会場で会いましょう!
[性的マイノリティ]とカテゴライズして書いているとき、
私は読者を限定していない。
限定しないと、なんとなく自然と、マジョリティに向けた書き方になっている。
ストレートのみなさん、私はこんなですよ、
というスタンスである。
が、今日は、仲間に向けたい。
仲間ってざっくりとした言葉だけど。
テーマは普遍性があるので、誰が読んでも感じるものはあるはず。
感じない人は差別しちゃう人かもしれない。
パレードの当日である今日は特に、自分はなにがしかの意味でマイノリティだと思っている人、
差別されていることを感じている人、自分が何者かを声をあげて言えない人、
そういう人に向けて書く。
※
ここ数年、日本ではLGBTという言葉がよく聞かれるようになった。
コミュニティの動きも盛り上がっている。
しかしきっと、社会が反動的になる時が来る。
ということを昨日書いた。
事実、反動的な動きは絶えずあり、今はむしろそれがはっきり見える。
与党議員の発言のあれこれを聞くにつけ、そう思う。
※
LGBTであることを隠して日常生活を送っていても、つまりクローゼットであっても、
カムアウトして社会生活を送っていても、
生きづらさを感じることは現実にある。
いっつも傷付いているからこそ、年に一度のお祭りの日に
「ハッピープライド!」と言い交わすのだ。
そんなに傷付きっぱなしのプライドってなんだ。
プライドって何なんだ。
※
コミュニティの活動の中で大事なものに、社会への働きかけがある。
たとえば同性婚の法制化(私は違う意見だけど)へ向けての活動とか、
そこまでに至る、地道な地元でのひとつひとつの活動(同性カップルで婚姻届を出すとか)とか、
その基盤としてまず差別禁止法を作ろうとか、
そのまた下地としてどういったハラスメントが日常にあるのかのアンケートを取るとか。
様々な団体が、様々な切り口から活動を積み重ねている。
こういった活動のおかげで、社会は変わって行っている。
現在の国のあり方から言って、法律ができたり変わったりすることが
社会の変化の明確な表れだ。
※
そうやって社会は変わっているけれど、
きっと反動がくる。
まあ、社会的な反動が来なかったとしても、以下のことは
必要なことだとは思う。
たとえば私は、
「彼女」と呼ばれたり、体の形について言われたり、
男女別の制服を着たり、「奥さん」と呼ばれたりすると、
非常に気分悪い。
メゲますわよ。
それは、自分がどのような性自認を持っていようと、
はたから見りゃ「中年女」にしか見えないという事実を突きつけられるからだ。
悔しいし、自分の体がいやになるし、
今の自分がいやになる。
一方で私は、
「白髪多いね」と言われても、なーんもいやじゃない。
自分が気にしていないからだ。
同世代の多くの人は、1本でも見つけたら切ってみたり、
そういう対処が間に合わなくなってきたら染めてみたり。
白髪がいやなのだろう。
いや、白髪がいやなのではなく、白髪は老いの証であって、
老いがいやなのだろう。
二十代から白い部分はあったし、
それが増えたのは心身の疲れが重なった時だったし、
とかく、白髪と老いをあまり強く関連付けていない。
それに、老いるのも悪くない。
この辺りはあれこれ問題が絡むが、今は本題ではないのでこれくらいですっ飛ばす。
つまり、自分が気にしてなければ、周りに何を言われたって、平気なのだ。
※
だから、
女に見られていやな私は、自分の中に女性に対する嫌悪や蔑視が無いか、
よくよく検証する必要がある。
単なる身体的な感覚だろうとは思っているが、ほんとにほんとか洗い出してみる必要がある。
その上で、単に女性に見える身体がいやならば、
そこを言われていやなのは、自分がいやだからひとの言葉が不快なのであって、
ひとの言葉そのものが悪いわけではない、という整理をする。
私も今、こう書きながら、自分で考えてたどり着いたこのことを書きながら、
まだ自分の腑には落ちていない。
私はこういうことを言われたら傷付きます、だから配慮してください。
と、説明することも必要である。
そんなことで傷付く人がいるなんて、思いも寄らない人のほうがたぶん大多数ってとこだろうから。
だから、思いやりの勘所がこんなところにもある、っていう
共通の知識を社会の中で持とう、という意味で、
説明はとても大事だと思う。
ただ、その方向の活動だけしていると、悪いのは配慮の無い言葉、
ハラスメントのせいで傷付いた、差別が社会にある、
と、外ばかりに理由を置いてしまう。
社会を変えるのはたいへんだ。
もちろん、たいへんだが変わるのだが。
同時に、自分も変えていくと、コロリと事態が変わったりもする。
自分がこうなのは自然なこと、と
しっかり思えていれば、周囲の言葉がどうであろうと、
クヨクヨすることも無い。
※
繰り返しになるけれど、もちろん、法治国家であるので、
法律という形に仕上げることは必要である。
その活動も大事。
社会への働きかけの活動と同じように、
自分の内面から差別を撤廃することもできるんだ、
ということが、今日は言いたかった。
自分の気持ちのありかたは、自分の生活のすべてに影響するからね。
※
では、今日も会場で会いましょう!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます