犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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鳴鶴と弟子たち

2017年06月07日 | 書の道は

相手によって言う内容の違う人は困るが、
受け取り手が違うなら同じ内容を伝えるための表現が変わるということはある。
一見、相手によって違うことを言っているように聞こえても、
それは相手に合わせて言い換えているのだったり、
相手の受け取れる範囲にとどめているのだったりする。
また、まったく同じことを言っていても、
受け取り手によって、違った結果になることもある。



以前、若き魯山人が上京した際に、日下部鳴鶴(くさかべめいかく)という書家に
習いに行った話を書いた。
http://blog.goo.ne.jp/su-san43/e/ea0d761569ce6c8af62a34ad8e6f2f31

鳴鶴は、廻腕法といって、筆をまっすぐに立て、全部の指で持ち、
筆を傾けることなく、腕全体を用いて使って書く、という方法を極めていた。
写真がその姿である。
なんでもこの方法で書いたし、弟子にもこれで書かせた。

魯山人は鳴鶴のもとに「二度ばかり話をききにまいりました」ということだ。
「ただ技巧のことばかりしか言われないのみならず随分無理がありました。」
と語っているのは廻腕法のことでもあろうか。

「たとえば最初どんな字体を習えばよいかと聞きますと、
楷書、行書、草書と順を追い、隷書とか篆書とかはあらゆる書を習得した後に
やるべきものだということでした。」
このすぐ後に、隷書千字文で受賞するなど、隷書を書きたかった魯山人には、
この教えが相当イヤだったと見えて、鳴鶴には「お別れ」している。



さて、信州は佐久の望月という小さな町出身の、
比田井天来(ひだいてんらい;1872-1939)という書家がいる。
若い頃から、古本屋などで古典の手本を見つけると、買いあさる。
この人は鳴鶴に師事しているのだが、ずいぶん関係が違う。
回想して、次のように書いている。


鳴鶴先生は科学者に逢ったように、あちらの法帖こちらの手本と持ち出され、
親切に説明をしてくださった。
四、五年後に入門をさせていただいたが、先生のお話に、
君は古法帖をたくさん持っているから、
それによって好きな手本を学んだほうがよい。
自分の弟子は我輩の悪いところばかり学んで困るなどとお話があって、
道人にははじめから古法帖だけで学ぶことを教えてくださったので、
道人はたいへん幸いをした。


鳴鶴に会いに行ったときに、すでに天来は相当の量の古法帖を
所持していたのだろう。
「科学者に逢ったように」とは、同好の士を見つけた鳴鶴の喜びを思わせる。
それだけのものを持っていたから、鳴鶴も自分のやり方を押し付けるような
教え方をしなかったのではないだろうか。

といういきさつのわりには、天来は鳴鶴に入門して、廻腕法を身に付ける。
小楷もこの方法で書けるまでになったという。
しかし、廻腕法だけでは書ききれない古典があることを感じ、
自ら俯仰法という筆遣いを編み出す。



私は先生に付かずに、古典の臨書だけで学ぶ中、
あれこれと筆を動かしてみて、どうすればこの形の字が書けるのかと
探ってきている。
そんな中、このエピソードを知って、レベルは月とスッポンだが、
なにか共通するものを感じる。

そんなわけで?
佐久市立天来記念館に行ってきます。
チャオ


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