小学1年生から5年生までの間、図工はたしかずっと同じ先生だった。
私自身は絵を描くことも工作をすることも大好きだが、
図工の授業は好きではなかった。
ついでに、その先生が私のことを「ンあっこ」と鼻にかかった発音で呼ぶのがイヤだった。
いや、発音がイヤだったんではなく、「あきこ」なら「あっこ」と呼ぼうという
それがイヤだった。
子どもの頃の私は多分いわゆるボーイッシュというやつで、
ボーイッシュというのは女子であり少年ぽい、という在り方を認めるものだった。
だからボーイッシュでも、本名「あきこ」から女の子らしい「あっこ」という呼び名を
使うことは、一般的に言っておかしくはない。
でも、「あっこ」と呼ばれるのは本人はイヤだった。
他に私を「あっこ」と呼ぶ人なんて一人もいないのに、なぜそう呼ぼうという気になれるのか。
「あきこならあっこ」という疑問の無さがイヤだ。
※
6年生になったら、新しいK先生がノシノシ歩いてやって来た。
若い女の先生だったが、突然楽しくなった。
何がそんなに良かったのか、具体的にはもう思い出せない。
ただ、楽しかった気分やこの人を好きな気持ちはなんとなく忘れない。
※
15年くらい前に再会して、それから展覧会の案内などくれるようになった。
十年ほど前からは書道を始めたそうで、これもちょくちょく見に行った。
甲骨千字文と言われてもなんのことやら分からない。
分からないけどちょっと面白いから見に行く。という感じだった。
が、一昨年、私も書を始めた。
そのくせ2年ほどご無沙汰していたが、今年は久しぶりに見に行った。
※
会場に一歩入って、自分の目が変わったのを感じる。
ああ、大好物の隷書がたくさん有るじゃないの。
そして、この会はとても古典的だということも分かる。
K先生も、今年の漢字は隷書だ。
竹中青琥先生は御年八十歳だが、すらりと動き、筆もちっとも衰えない。
趣味のシャンソンも熱心な様子だ。
竹中先生は、西川寧先生についていたそうだ。
ある日、竹中の隷書を見て西川が言う。
「この字は誰に教わったんだ。」
「先生です。」
「これはいかん。」と言って、その日から陳曼生を臨書させた。
竹中は来る日も来る日も隷書は陳曼生の臨書をした。
なかなか先生の'ハイこれでオッケー'は出ない。
そうこうするうちに、西川先生は亡くなってしまったのだそうだ。
その後、西川先生にも認めてもらえたのだと思えるある機会が有って、
自由に隷書を書くようになったそうだ。
ふっくらとして、どこか柔らかい調子を含んだ隷書だ。
K先生は「だから、この会は先生のスタイルを持った隷書なの。」と言う。
見回すと、なるほどと思う。
うん、でも先生の隷書はかなり力強くくっきりしているけどね。
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自分も書を始めた証拠に、一つ持参した。
急就章の木簡を原寸大で作って臨書したものだ。
https://blog.goo.ne.jp/su-san43/e/b821124f2d762ef76c8c9c88e6987dad
先生は興奮して、「先生に見せるね!」と持って歩いて、
誰かに会うたびに「この子が書いたの!小学生だったのよ!」と言っている。
うん、まあ、そうだ。
※
K先生はもう一つ、かなの作品も出していた。
小島切。
小野道風の細っこーい細っこーい字だ。
なんと隷書と対照的なのか。
どうしても細く小さく書けないが、百枚も書いているうちにある日、
突然文字が大きく見え始めた、とK先生は言う。
中島敦の小説みたいですね。
「そう!あの!弓で狙うやつね!蝿が牛のように見えるって。それが起きたのよ!」
そうかー。私の木簡も、小さく細く書くのが難しくてかなり練習したが、
大きく見えるところまでは行かなかった。
「全部復元してよ!」
いやー、発掘されて見付かって写真になってるのはほんの数本だけなんですよ。
とは言え、またやってみようかな。牛に見えるまで。
※
小島切を書き上げた頃、ちょうど高校生の書道コンクールが有り、
入選作が小島切だったそうだ。
K先生は、自分の作品とそれをよく見比べた。
するとなんと、
自分は一番最後に「て」一文字だけの行が有るのを見落として書いていない
ということに気付いた。
この一枚、全部書き直しだ。
しかし、助かった。
という話を先生に報告したら、竹中先生おっしゃるに
「危うく'てぬき'になるとこだったわね。」と。
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