犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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礼器碑

2018年11月30日 | 書の道は
[いきさつ] 二年前の十月に、今まで敬遠していた毛筆での書を
独習し始めた。
一年間、ほぼ毎日書いたが、ふとしたはずみにサボったら、
次の一年間はほぼ全く書かなかった。
何度か立ち直ろうとしては失敗しつつ、ちょうど一年経った頃から
また、ぽつぽつと書いている。


草書が読めるようになりたい。とか
筆で署名しなきゃならない時に困らずに書けるようになりたい。とか
そんな動機だったっけ。

そのくせ、いつもの「さかのぼって学ぶ」という癖(ヘキ)が出て、
草書どころか、隷書だ篆書だ甲骨文字だと
いろいろ書いた。

中でも隷書が気に入った。
蔵鋒と言って、筆先を内側に収めるように使う。
波磔と言って、楷書で言うところの払いの形に特徴が有る。
特に、横画の終わりを楷書のように止めず、波磔できめる。

気に入ったので、いろいろ臨書した。
好きだから、練習も苦にならない。
たくさん書いても飽きないし、疲れを感じない。



久しぶりに書くのなら、やっぱりそうやって親しんだ書体が良いだろう。

と思って、隷書の中では後回しにしていた礼器碑を選んだ。
細身の線が特徴的で、波磔の美しい隷書だ。

その細さに苦手意識を持っていた。
しかし、その後、木簡の小さい隷書などを練習した。
すると、見え方が変わった。見る目が変わったのだ。

石碑でしか遺っていなかった隷書も、木簡が発掘されるに従って、
肉筆の書が見られるようになったのは、二十世紀に入ってからだ。
そして今では、写真や印刷の性能が上がり、木簡の筆づかいが見て取れるようになってきた。

肉筆の隷書である木簡を臨書してから、
石に刻まれた隷書である石碑を臨書すると、ずいぶん違う。
最初、いきなり石碑の隷書を臨書していた時は、
どっしりがっちりずっしり、という印象だった。
しかし、木簡に勢いよく書かれた隷書を見てからは、
石碑の隷書の中にも、筆勢を見るようになった。

そうなってみると、礼器碑の線も、
ただ細いのではなく、筆の運び方として見ることができる。



とかなんとかエラっそうなことを書いているが、
一年書いて一年サボった後なので、
またひどく下手くそになっている。
書き始めて一年経った頃の感覚だけ残っている。
思うように筆を使えない。
どう筆を運べばこの線が出せるのか、忘れている。

いちいちまた一から練習する。
書の練習は、文字通り「一」からの練習だ。
「一」、「ニ」、「三」、「土」…と進んで行く。
やれやれ。



礼器碑でリハビリして、
次にやりたいことは決まっている。

来年一月から、国立博物館で、顔真卿の展覧会が有るのだ。
ただ見ても、面白くない。分からない。
どうせ見に行くなら、その前にあれこれ臨書しておきたい。

敬遠してきた顔真卿を、書いてみたいのだ。

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