旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

トルコ紀行⑨ ・・・ コンヤ、そしてメブラーナ

2009-10-16 14:39:11 | 

 アンタルヤからタロス山脈を越えてコンヤに着く。大平原の町という感じだ。とはいえコンヤは、セルジュクトルコ時代の首都であり、今でも人口80数万の大都会。フラットさんの解説のよれば、コンヤを県庁所在地とするコンヤ県は面積でトルコ最大、その広さはオランダ王国より広い、という。大農業県で、トルコの小麦の70%はここで採れる。

 この町を有名にしている一つに「メヴラーナ教団」がある。わがツアーも、その教団の根拠地「メヴラーナ博物館」を訪ねた。実は私は、事前にガイドブックなどによりこの教団を聞きかじり、いわゆる「白い服を着てくるくる回りながら神に接近する舞踏を行なう新興宗教的な団体」と思っていた。ところが、フラットさんの解説で目が覚めた。それによると
 「メブラーナは13世紀のトルコが生んだ偉大な哲学者、思想家、詩人である・・・」
ということだ。現代の観光化された「旋回舞踏」だけを見てメブラーナを評価してはいけないと言う。私は早速、メブラーナ博物館で数少ない日本語の本『心の園にて、メブラーナ』(メラーハト・ウルクメズ著)を購入して読んだ。とても簡単に理解できるものではなく、そこには「人間の自由」、「絶対平和」「絶対愛」というようなものが語られていた。
 13世紀のトルコは、十字軍やモンゴルなど東西からの戦火の中にあり、人々は心の平安を求め、メブラーナはそれに答えようとしたのであろう。

 メブラーナの教えをまとめたものはないかと探していると、楽天ブログの『るうの雑記帳』というブログに「メブラーナの七つの言葉」というのがあった。申し訳ないが孫引きさせていただく(るうさんゴメンナサイ)。

 流れる水のように気前よく 人を助けなさい
 太陽のように情け深く 親切でありなさい
 夜のように 人の間違いを覆いかくしてやりなさい
 死人のように 怒りや興奮はほうむりさせなさい
 土のように 謙虚であり
 海のように 寛大でありなさい
 在るがままの汝でありなさい
  あなたはあなた自身でありなさい

 博物館を出ると、緑のドームが紺碧の空に映えていた。メブラーナの心のように.。
                                      
            


トルコ紀行⑧ ・・・ シルクロードを辿りコンヤへ

2009-10-14 22:32:33 | 

「これがシルクロードだ」
という言うガイドの言葉に、うとうとしていた目がさめた。あわててカメラをとり上げ窓外をのぞく・・・、しかし、道はバスの下にあるのであって窓からでは見えない。急いで空いていた前列2列目に出向きフロントガラスより前方を眺める。
 何の変哲もない道が延々と続いている。最前列の添乗員大三輪さんも「別にどうって言うことないですね」とつぶやく。
 「これが何千年の歴史を持つシルクロードだ。中国から続いた道はアクサスで分かれ、一つはアンカラへ向かい、一つは皆さんが見てきたアンタルヤ、パムッカレ、エフェソスなどへつながっていた。アレキサンダーもこの道を歩いて遠征した。バスは今、その道を走っているのだ」・・・
 ガイドのフラットさんの重々しい解説が続く。それを聞いていると、舗装された普通の道に歴史の面影がゆれてくるようだ。

      
 
時に2009925日午前1040分(現地時間)。既に918日付ブログ「東西文明の結節点トルコ」で、「シルクロードが東に中国の洛陽を発していることは知っていたが西の端がトルコであったことは今回初めて知った」と書いたが、そのシルクロードを今走っているのか・・・と思うといささかの感慨をもよすものがあった。(なお、シルクロードの西端がトルコ・シリア国境のアンタクヤであるとするWikipediaなどの記述と、フラットガイドの説明は若干違うが、そのような仔細ナことはここでは不問に付す)
 バスはなおシルクロードを走りつづけ、1110分に標高1900メートルというトロス山脈の峠を越えてコンヤへ向かった。昨日北から南に越えたトロス山脈を、今度は南から北へ再び越えたのだ。

 窓外の木々を見ながら「松ノ木が多いねえ」などとワイフと話し合っていると、
 
「向こうに見えるのが“レバノン杉だ」
というガイドの解説が入る。その説明によると、「レバノン杉は柔らかく細工がしやすい。しかも水につけるとセメントのように硬くなる。海軍の舟や車の車輪に使うために乱獲され少なくなって、今やこのトロス山脈にわずかに残っている」と言うことだった。

     レバノン杉

 

やがて眼前にコンヤの町が開けてきた。
(冒頭の写真は、峠の店屋で可愛いトルコ少女とワイフ)

                                     


トルコ紀行⑦ ・・・ アンタルヤ

2009-10-12 10:21:06 | 

 ガイドの紹介からトルコ全般の話に入っていったが、旅程に戻る。
 パムッカレの石灰棚を経て向かったのはアンタルヤ。途中、標高千数百メートルの高原に浮かぶ美しい湖のほとりで昼食をとる。名前を聞き忘れたが塩湖だそうで、そういえば湖岸が白い。それよりも水深185メートルというコバルトブルーの湖面が、見とれるように美しかった。トロス山脈を越えると眼下に地中海とアンタルヤの街が広がる。

      

 アンタルヤは人口100万、地中海に面するトルコ最大の観光地、紀元前7世紀にはイオニア人などが移住を始めたとガイドブックにある。また、港が美しく、旧市街は石壁の風情ある町並みだ、とある。海にはヨットの浮かぶリゾート地で、アンタリアには「9千種類の花があり、うち3千はトルコにしかない花」とガイドは語る。
 しかしわれわれはそれらをよそに、「ペルゲ遺跡」と「アスペンドスの大劇場」を見学。ペルゲはアレキサンダーに協力して栄え、パウロの第一回伝道で初期にキリスト教を受け入れた町(『わがまま歩き』)といわれ、アスペンドスの大劇場は、115あるといわれる劇場遺跡の中でも保存状況が最も良いといわれているので、どうしても見せたかったのであろう。

 このJTBツアーの一つの目玉はアンタルヤのホテルで、L級ホテル「シェラトンボイジャー」の地中海ビューの部屋というのが売り物。
 ところが、着いたときに最早夕暮れ、加えて本ツアー唯一のトラブルといえるホテル側の「部屋の取り違え」が判明。つまり地中海ビューの部屋でなかったのだ。添乗員大三輪さんの「怒りまくった大奮闘」で全て地中海ビューを獲得したが、ロビーで待たされること1時間半、部屋に入ったのは8時を過ぎ、外を見ても真っ暗だ。海だから真っ暗であったことがわかったのは翌朝、確かに前に地中海が広がり、左手(東)から日が昇った。しかしあわてて荷物を出し食事を取って8時出発とあっては、十二分に地中海ビューを味わうことも出来なかった。
 まあ,
これもまた旅である。それにしても大三輪さんの大奮闘は表彰ものであった。
                            
        


トルコ紀行⑥ ・・・ 飲酒、政教分離などでガイド力説

2009-10-11 15:22:42 | 

 トルコ旅行の特徴の一つはバス旅行であろう。8日間で国内の有名どころを回ろうと思えば、毎日数時間のバスの旅を続けることになる。初めて見る乾いた茶色い大地を眺めながら、ガイドの話を聞き続ける。
 コンヤからカッパドキアへ向かう長いバス旅(約230キロ)のときであったか、ガイドのフラットさんは全員に紙を配り「トルコについて聞きたいことを書け」という。私はかねて聞きたいと思っていた「イスラム教国トルコの飲酒」について、①なぜ酒に寛容なのか、②観光客の飲酒を国民はどう思っている?③常飲者はどのくらい?④ビール、ワインの生産量、などを問うたが、同じ趣旨の質問者(恐らくK氏であろう)もいて、フラット氏はかなりの時間を割いて説明してくれた。
 
一言で言うと、「トルコは政教分離を国政の柱にすえている。イスラム教が酒を排していても、それを日常生活や公共の場に持ち込むことはしない。加えて、そもそも『コーラン』は、①アラーを唯一神とする、②一日5回のお祈り、③年収の一定率の寄付、④メッカへのお参り、⑤断食(ラマダン)、の五つの義務付け以外のことは書いてなく、酒を飲むなとは書いてないと。

    
       エフェスビールのダルク(黒)

 それを聞いて私は、「トルコは、他のイスラム国と違ってどうして政教分離が出来たのか?」と重ねて聞いた。彼は「実に良い質問だ。よくぞ聞いてくれた」とばかりに滔滔とその歴史をしゃべった。
 第一次大戦後、オスマントルコの衰退でトルコは列強に分割され国が消滅する運命にあった。そこで立ち上がったのがムスタファ・ケマル将軍(パシャ)で、彼の指導で独立戦争を勝ち抜き、1923年共和政府を打ち立てる。彼は、これまで宗教的束縛が国の発展を遅らせていたことを重視、共和制とともに政教分離を導入する。以
来、決して宗教を否定しないが、公共の場の宗教活動を禁止し、一般社会生活は宗教色から無縁になりつつあるという。
 フラットさんは「私は毎晩酒を飲んでる。男性の三割は常飲者だ。女性の40%がスカーフを巻いているが、その半分は宗教と関係ない。一日5回お祈りする人も約23%・・・」などと語った。

 どの店でも酒の注文が出来たし、ワインの質はフランス、ドイツに引けを取らない。
                                   
建国の父(アタチュルク)ムスタファ・ケマルの像


オバマ大統領のノーベル平和賞受賞を喜ぶ

2009-10-10 10:17:02 | 政治経済

 私のような凡人の頭では全く予想もしていなかったが、オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞した。言われてみればオバマ氏に勝る受賞者はいない。
 4月のプラハ演説(核廃絶の呼びかけ)は全世界を感動させ、私も興奮してこのブログに「核廃絶を現実の課題に引き戻した」と書いたことを思い出す。

 ノーベル賞がアルフレッド・ノーベルの遺書に基づき創設されたことは知っていたが、平和賞についての具体的遺言文言は今回初めて知った。毎日新聞の一面『余禄』によれば、遺書には

「国家間の友好、軍隊の廃止または削減、および平和会議の開催や推進のために最大もしくは最善の仕事をした人物に与える」

と書かれていたという。まさに今年のオバマ大統領の動きそのものだ。ノーベルは、自分の発明したダイナマイトが戦争――人殺しに使われたことを反省しノーベル賞の設置を遺言したというが、平和賞という難しい賞にも、21世紀の現実を見据えていたような的確な指示をしていたのだ。

 もちろんオバマ氏は未だ問題提起をしたばかりであり、「受賞は早すぎる」と言う声を含めて今後を危惧する意見も多い。オバマ氏はそれらについて十分に理解しており、受賞について「これは私の業績を認めたものではなく、その目標が認められたのだ。21世紀の課題に立ち向かうよう行動する呼びかけとして賞を受賞する」と語っている。(毎日新聞1面)
 これがまた凄い。課題はこれから、ということを十分に承知した上で、その課題に立ち向かうために受賞する、と責務を自己に課したのである。

 私は核廃絶などという課題が簡単に実現するとは思っていない。今世紀をかけた課題だと思っている。ただ、大国アメリカがその方向に踏み出すことが何よりも重要なことで、歴代大統領に出来なかったことなのだ。
 それに踏み出し、自らの責務と位置づけただけで、ノーベル平和賞に十分に値するのではないか。
                           


24節気の酒 ・・・ 寒露

2009-10-09 14:47:37 | 

 昨日10月8日は、24節気の寒露。あるいは次の10月23日の霜降までを寒露と呼び、秋はいよいよ深まり冷気によって露が凍りそうになる時節とされている。またWikipediaによれば、「雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、蟋蟀(こおろぎ)などが鳴き止むころ」となっている。
 昨日は大型台風一過ともあって気温は28度に上がり、とても露が凍りそうになるとは思えなかったが、一方で、一日の温度差が一番大きい時期とも言われているので、確かにそのような季節になってきたのであろう。

 この時節の酒は何か。寒という字には「怜悧できりっとした」響きがあり、露には「清らかな透明感」がある。いずれも酒にとって重要な要素だ。そしてそのような酒として私はいつも『十四代』を想起する。
 十四代は特に奇をてらった酒とは思わない。米の削りが特別だとか、特別の米や酵母を使っているとも思えない(大吟醸の35%はそれなりの精米歩合であるが)。そんなことより、ただひたすら「よいお酒を造ろう」と励んできた結果「こんないい酒が出来ました」と言うような感じだ。先日、高木顕統蔵元と親しく話す機会を得たが、これほどの人気を背負う蔵元にしては肩に力が入っていない。そして「ブランドはお客様がつくるものです」と言い、「自分たちはただお客様に喜んでもらえる酒を造るだけです」というようなことを言っていた。
 最近銀行に金を借りて工場を完備したが、売上げ増などを気にする銀行に対して、「売上げは上がりません。しかし、これでお客様には喜んでもらえます」と答えたそうだ。

 私は、戦後の日本酒革命の第一段階が「本物の日本酒の存在を示した『越乃寒梅』」で、第二段階が「日本酒の質を格段に引き上げた『十四代』」と位置づけている。もちろん十四代だけでなく多くの蔵が純米酒を中心に日本酒の質的向上を図ってきたのであるが、その高い品質の酒を広く全国に広げたキッカケが十四代にあったと思っている。

 サラリーマン時代を経験し、市井における日本酒の問題点を知って上で蔵に帰り17年、一つの到達点を築いてきたが、まだ40歳を過ぎたばかりの高木蔵元には、これからも期待するものが山ほどある。
                           
          
           高木蔵元と


トルコ紀行⑤ ・・・ ガイドフラットさん(つづき)

2009-10-08 20:14:36 | 

 フラットさんは、長いバス旅行の中でたくさんのことをしゃべってくれた。いろいろ勉強して行ったつもりでいたが教わることが多かった。

・トルコには、歴史上38の文明が生じてきた、まさに文明の十字路だ。
・現在も少なくとも五つの顔――ヨーロッパの国、アジアの国、黒海の国、エーゲ海の国、地中海の国、の五つの顔を持つ多面的な国だ。
・国内には8000以上の遺跡があり、何万人が入れるギリシャ・ローマ劇場が115もある。
・食料自給率99%、輸入ゼロ、農産物の70%を輸出している。みかん1キロ30円。農業と観光に力を入れている。年間3500万人の観光客が訪れる。
・一日の勤務時間は9時から午後5時、昼休み1時間半、年次有給休暇は夏と冬に15日ずつで1ヶ月、みんなゆったりと生活している。
・教育、医療費は無料。ただし消費税は18%。

 このような話をしながらフラット氏は日本についての感想も述べた。

・日本に行って一番驚いたことは、「8時3分発の電車が、8時3分に出発した」ことだ。トルコでは考えられない。(事実、初日イスタンブール乗り継ぎのイズミール行飛行機の出発が30分おくれてイライラしたが、これはトルコでは普通で、文句を言う人間など居ない、ということであった。)
(私はそれを聞いて、毎朝ラッシュ時の電車が5分遅れても、車内放送で「電車が遅れてご迷惑をおかけしています」と謝っている日本を想起した)
・日本の規律は素晴らしい。トルコはその点学ばなければならない。(ただしイタリアよりトルコの方がいい、と胸を張ったのが面白かった。)
・そのような立派な日本を、日本の若者はもっと大事にしなければいけない。20~30代の若者がこんなに外国旅行が出来るなどうらやましい。
・日本の消費税5%は想像を絶する。日本の経済力では、消費税を20%にでもすれば、全ての生活費が無料になるのではないか?

 この最後の提起は面白いと思った。私は現状での(つまり無駄遣いの多い現状での)消費税上げは絶対反対であるが、フラットさんの提起は一考に値すると思った。
            


トルコ紀行④ ・・・ 現地ガイド フラットさんについて

2009-10-06 21:36:46 | 

 トルコツアーはまだ行程の三分の一を終えたばかりだが、ここで現地日本語ガイドとして全行程を案内してくれたフラットさんについて触れておく。今後の紀行文の中で、度々この名ガイドの言葉や行動を引用することになると思うから。

 本名はシュクリュ・フラット(SUKRU FIRAT)、正確にはSの下にひげがあり、Uにはウムラウト(上に点点)があるので、どのように発音するのか難しい。私は当初「シュクル・フラットと聞こえていたので、「フラットさん、フラットさん・・・」と話し掛けていたが、最終日にもらった名刺を見ると上記の通りフィラットかもしれない、またファーストネイムも、ひげ有りウムラウトありで、とても我々が正確に発音できるものではなかろう。しかしまあ、8日間仲良く出来た。

 イスタンブール大学政経学部で国際関係論を学んだ弱冠33歳のインテリ、独学で日本語を修め来日2回であるが、ほぼ完全な日本語を話す。豊富な語彙(ごい)、諺(ことわざ)を駆使して私たちを楽しませてくれた。たとえば、「・・・子、孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)、・・・その次は何か」と問われみんな黙っていると「〇〇〇だ」と言うので「へえー」と感心していると、「この言葉は、いま私が作った」という具合。
 
彼は、トルコの北東の端、黒海に面するリゼと言う町に生まれた。後背地にはノアの箱舟のアララト山や猫で有名なヴァン湖のある地域で、家は山岳地帯から黒海に落ちる45度の急斜面に在ったという。朝起きると母が家畜にえさをやり幼い彼は糞を集めて畑に運ぶ。それから朝食を終え、45度の斜面を一時間半歩いて学校に通った。上りの帰路はそれ以上の時間を要したことは言うまでもない。苦学に負けず、彼はイスタンブール大学に進む。
 
最初の来日は、学内の日本語弁論大会で見事一位に輝いたことによる。そのときのスポンサーが日立であったことから、「日立には感謝している」と話す。約2週間、日立の招きで日本各地を回り、京都と奈良、それに東京では浅草が印象に残ったと言う。

 おばあさんがロシア人、父系はクルド人で、かれは「クルドとロシアの混血」と自己紹介した。ワイフは、その体の大きさと目の鋭さから「・・・怪僧ラスプーチンとは言わないがロシア系だわねえ・・・」と言っていた。
 
その素晴らしい風貌で、彼は自国トルコを誇り高く語り続けた。(続きは次回)
                           


 カッパドキアの洞窟(地下7階建て)にて
 アドベントス大劇場


恒例の「ライデン開放記念ハーリングパーティ」に参加

2009-10-04 13:44:31 | 

 10月3日は、スペインとの戦いでオランダが勝利し、オランダ独立のきっかけとなった「ライデン開放」記念日である。毎年これを記念して世界中のオランダ関係者が記念パーティを開く。日本でも前日の2日、港区芝公園のオランダ大使館で開かれ、今年も幸運にも招待されて参加した。

 今年は残念ながら雨で、大使館の美しい芝生の上での飲食とはならなかったが、一年ぶりに「ハーリング(にしん)の塩漬け」と「ヒュッツポット(野菜のシチュー」を楽しんだ。
 「このにしんを食べる資格を得るだけでも、日欄協会の会員会費を払う値打ちがある」というF夫人も参加していて、一年ぶりの再会を楽しみながらヘリングを食べジェネーヴァ(オランダのスピリッツ――イギリスに渡りジンとなり日本ではカクテルのベースによく使われている)を飲んだ。
 ハーリングもジェネーヴァも実にうまい。日本のにしんとジンと別物だ。何が違うのだろう。F夫人も何度もそれを強調していた。

 毎年書いてきたが、この美味しいハーリング、ヒュッツポットについては、ライデン市民の栄誉をたたえ、その由来を今年も書き残しておく。
 オランダ大使館の招待状の末尾に次のように記されている。

 ~由来~
 1574年のオランダ独立戦争の際、スペイン軍に包囲されたライデン市民は、城塞に立て篭もって抵抗を続け、ついに10月3日、開放を勝ち取りました。城塞に立て篭もっている間、市民は飢えと戦っていましたが、このとき援軍が差し入れたハーリング(にしん)の塩漬け(heming)を挟んだパンとスペイン軍が撤退時に大鍋に残していった野菜シチュー、ヒュッツポット(hutspot)は、開放にちなんだ食べ物です。

                          

 


トルコ紀行③ ・・・ パムッカレの石灰棚

2009-10-03 16:56:33 | 

 3日目に訪問したパムッカレとは、また不思議な景観を持つところであった。
 ヒエラポリスの遺跡の一角に広がる石灰の棚田であるが、真っ白い広大な石灰の稜線が突き出ており、その谷間に美しい棚状のプールが100に及んで形成されている。
 『ブルーガイドわがまま歩き』によれば、「石灰分を多量に含む湧き水が、台地からあふれ岩肌をつたった。長い年月のうちに沈殿し凝固した石灰華岩が斜面を覆いつくし、さらに幾重もの棚を形成した」とある。長い年月ってどのくらいの長さなのだろう。コバルトブルーの美しい棚田を眺めていると、人工のいかなる技を凝らしても自然の営みにはかなわない、とつくづく思った。
 地元では「綿の城(パムック カレ)」と呼び、地名になったと言う。

       
              ツアーメンバー松田様撮影

 その前夜、宿泊した「パム サーマル ホテル」で、人工の棚田温泉風呂に入った。最上段から石灰を含む温泉水が吹き上げ、棚田状の風呂を次々と流れていく。上段ほど熱く、最下段はかなり冷たくなる。
 入ってみて驚いたのは、棚底はくるぶしまでつかるぐらいにドロドロの石灰だ。足を踏み入れるとむくむくと水面まで石灰が浮かび上がる。それを体に塗りつけると健康に良いと言うので、人並みに何度も塗りつけた。この歳では今更手遅れかもしれないが・・・。

 翌日本物に接して、その美しさ、雄大さに感じ入った。私たちはズボンをまくり上げ浅いところを歩いただけであったが、中には綺麗なおねえちゃんがビキニ姿の肢体さらして、紺碧の空とブルーの水面に映えていた。
 この肢体の美しさは人工美か、それとも自然美というべきか・・・?
                           
        


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