慶喜

心意気
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天皇陛下「一代譲位」巡る対立の真相

2017年02月09日 | 歴史
皇族・宮内庁・野党が特措法反対ヘ

「譲位を認めてあげたい」との世論をバックに安倍政権が動くが“代弁者”が現れる
宮内庁が新年の宮中祭祀を取り上げて、平成31年元日からの新天皇即位や元号制定に異を唱える真意?
一代限りの特措法を批判する有識者、専門家、メディアは、性急に憲法や皇室典範まで改正しろというのか?
必要なのは、政府と国会がとりあえず特措法に収斂させることだ
宮家、公的行為、上皇などの呼称を含む懸案を徐々に解決していくのが最善ではないのか
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『THEMIS』2月号






天皇陛下譲位(ネットより画像)

世論調査では「譲位を認めてあげたい」との回答が80%を超えた
天皇陛下は、ビデオメッセージで「譲位の意向」を示唆したお言葉を述べられた
国民の間では、陛下が大手術を受けられており、公務に精励されていることに尊崇と同情の声が上がった
専門家からは「憲法改正や皇室典範改正にも及ぶから拙速な判断は下せない」という意見が続出した
政府は陛下のお言葉を受けて6人からなる有識者会議を設けた
会議が憲法学者や元皇室担当記者らを含む16人の専門家らにヒアリングを行った

野田民進党幹事長が「口火」
専門家会議の見解
 ☆高齢を理由にした譲位は認めない
 ☆譲位は認めず、公務の負担軽減や摂政の設置、国事行為の臨時代行などで対応する
専門家会議の結果を踏まえて
 ☆譲位を一代限りとする特別措置法を設置する方向に向かった
特別措置を望まず、皇室典範を改正して恒久制度化を望む側から強い反対が出てきた
民進党の幹事長が「皇室典範改正による恒久制度化」を強く主張した
他の野党も「特措法にいたずらに反対はしないが議論だけはしつかりする」などといい出した

野田氏の背後には宮内庁の意向が?
野田氏は首相時代に、女系天皇や女性皇族を認める方向の有識者会議を設けた
 ☆宮内庁に人脈ができ、彼らから働きかけがあったのでは?
ご学友の1人も「代弁」する
 ☆「皇室典範改正による恒久制度化」は「陛下のご意白である」と証言した
 ☆皇室の将来について国論が三分しているときに軽々に公表するものではないという批判が多い
宮内庁の幹部も野田氏の背後で「皇室のことはわれらに」と動いている?
大物国会議員の一人
 ☆「日本の根幹に関わる問題を家族会議のようなところで話し合うとは」と批判
 ☆平穏な着地を望んでいるのに“政争の具”にしようとする動きがあるのが残念ともコメント

宮内庁は平成31年元日に反対
メディアが「平成31年元日からの新天皇・即位と新元号を発表する」と報道した
 ☆元号決定が社会に与える影響を極力減少させようという狙い
宮内庁は「新年は多くの宮中祭祀がある」という理由を挙げ反対した
宮内庁は陛下のご意向ではないと表明しているが、陛下が宮中祭祀を大切にされていることは周知の事実
陛下のご意向が全く反映されていないとは考えられない

宮内庁は、陛下・皇族・皇室の将来について真剣に考え行動しいるか疑問?
宮内庁には、女性皇族が生まれた時点で
 ☆旧宮家や上流階級からふさわしい男性をウォッチする義務と責任があるのではないか?
宮内庁長官や次長は、外務省、厚生労働省、法務省などのOBが多い
任期を大過なく終えることに腐心している?
メディア対応の窓口は、総務課長(警察庁キャリアの指定席)
 ☆約2年で県警本部長などに転進していく腰掛けでしかない
極めつきはソープランドで急死した東宮侍従である
陛下の譲位問題を機に、皇室のあり方と制度を真剣に考え実行する気があるのか?

今回の譲位問題への対処で考慮する点
最初に今上天皇の公的行為を減少させることが急務
 ☆陛下は「象徴天皇の務め」と語られているから説得するのは難しいだろうが?
 ☆災害による被災地訪間は、皇太子さまや秋篠宮さまに譲る
今上天皇の譲位を受けて皇太子殿下が天皇陛下になられたとすると
 ☆次の継承候補には秋篠宮さま、悠仁さまなど
悠仁さまが結婚して男児が生まれなかった場合はどうなるのか?
 ☆女性大皇や女性宮家問題が生じる
女系天皇の場合、
 ☆結婚相手がどんな男性であるかも疑問?
 ☆ここで男系男子は絶え女系男子となる
 ☆国民は皇室に対してどのような思いを抱くだろうか?
陛下や皇族、宮内庁幹部、政府、国会議員はそこまで考えて対処すべきである

次代の皇室の懸念材料
以前より、娘が妃候補と知ると親や親族は、早々に見合いをすすめ結婚させていた
娘が、皇太子妃⇒皇后になったときの苦労や一家の窮屈な生活を敬遠した
 ☆皇后陛下も流産をされるなど、心身の不調を訴えたことがある
約20年後にやってくる悠仁さまのときはどうなるだろうか?
国民の間に「皇太子家は大文夫か」という疑念
 ☆皇太子妃雅子さまも体調を崩して長い
 ☆公務も皇太子さま一人でというときが多い


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仏教(五重塔・卒塔婆)

2017年02月09日 | 宗教
舎利信仰の誕生と世界各地の仏塔(仏塔崇拝)

釈尊の入減後、その遺骨(仏舎利)は崇拝の対象となり仏塔に祀られた
釈尊の遺骨を祀る仏塔が日本の五重塔などに発展
輪廻転生の思想がある古代インドでは遺体や遺骨を祀るという習慣がなかった
 ☆聖者の遺骨は供養することで功徳があると信じられていた
釈尊の死後、その遺骨は8つの部族に分配され、各地で仏塔を建立して祀られることとなった
舎利(釈尊の遺骨)信仰の始まりです
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『宗教史(成美堂出版)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています






仏教(宗教史(成美堂出版)より引用)

仏教を保護したマウリヤ朝のアショーカ王
アショーカ王は、各地の仏塔から舎利を掘り出して細かく分け、各地に約8万4千基の仏塔を建てた
 ☆釈尊が生涯に行った説法を「八万四千の法門」の数
世界遺産「サ―ンチーの仏教遺跡群」の仏塔
 ☆仏塔の多くは、いずれもアショーカ王時代に建立されたものです

インドの仏塔
円筒形の基壇の上に鰻頭型の盛土でつくられる伏鉢が置かれる
頂上には箱形の平頭が置かれ、傘竿・傘蓋が建てられる
仏塔は、在家信者の崇拝対象となる
 ☆仏教がアジア各地に広がるなかで形を変えながら建立された
日本には、中国で楼閣建築と融合した多重塔が伝わっている
 ☆多重塔はインドの仏塔とは形状も材料も異なるが、その頂には伏鉢が置かれている
 ☆平頭や傘蓋が変化した相輪が立てられている(インドの仏塔が原型)
仏塔はサンスクリット語で塔を示すストウーパとよばれる
 ☆音写語がお墓に建てる卒塔婆です

法隆寺玉虫厨子の「捨身飼虎」の図
ジャータカにある釈尊の前世の物語をモチーフとしたものです
餓死寸前の虎の母子を見つけた前世の釈尊が、自らを食べさせることで母子を救ったという物語
玉虫厨子同様、インドのイム搭の周囲にはジャータカをモチーフにした図が多く描かれている

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秀吉東国の平定(小田原合戦)

2017年02月09日 | 新聞記事
小田原合戦(秀吉と関東の覇者「北条家」との戦い)

小田原合戦の引き金になった「名胡桃城(なぐるみ)事件」は、秀吉の陰謀説有力?
秀吉は約22万の大軍勢を率いて北条家の居城・小田原城に攻めこむ
 ☆小田原城は、上杉謙信や武田信玄をも阻んだ難攻不落の天下の名城
秀吉が行った驚天動地の秀吉の奇策”一夜城”作戦
 ☆戦わずして勝つ″という秀吉の真骨頂
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・画像・番組等で確認ください
出典、BS・TBS『高島礼子・日本の古都』、小田原市HP
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)




















小田原城(TBS『高島礼子・日本の古都』テレビ画面引用)

秀吉のターゲットが後北條氏
四国征伐、九州征伐を行い西国をほぼ平定
国内で残るのは関東・東北の平定
 ☆秀吉は、「関東・奥両国惣無事令(そうぶじれい)」という命令を出した
 ☆関東と奥両国における大名同士の戦いを停止させた
大名同士の領土の取り合いなどがあれば、関白として秀吉が征伐する
秀吉は、後陽成天皇を自分の城である聚楽第に招き、諸大名にも列席を命じた
上洛したかしないかが、秀吉に臣従するかしないかの踏み絵となった
聚楽第行幸に、北条氏政・氏直父子は列席しなかった

秀吉に小田原征伐の口実を与える事件が勃発
沼田城代猪俣範直(のりなお)が名胡桃城を奪う
 ☆猪俣範直は、北条氏の家臣
秀吉は「関東・奥両国惣無事令」違反として後北条氏に宣戦布告した

後北條氏側もこの日の来ることを想定
小田原城やその他支城の修築などを行っていた
小田原城の、城と城下町大外郭ができたのもこのころです
武器、兵糧、弾薬などの準備も進められ、文字通りの臨戦態勢に入った
氏政・氏直は、領国すべてでおよそ五万六千ほどの兵が動員した
 ☆一戦国大名の動員数として、驚異的人数でした

秀吉の動員兵力は22万の大軍
量だけでなく、兵の質も違っていた
 ☆後北條軍は、農民が主力だったのに、秀吉の方は兵農分離が済み、専業武士が主力
大軍を前にして、氏政・氏直は小田原城に籠城する戦法をとる
 ☆上杉謙信及び武田信玄の大軍を、小田原城に籠城して勝った経験を持っていた
秀吉は、小田原全体を見下ろせる笠懸(かさがけ)山に城を築かせ本陣とした
 ☆石垣山一夜城
小田原城包囲の戦いで、3ケ月後に、氏直は開城して降伏した
秀吉は、氏政・氏照兄弟、老臣らに切腹を命じ、氏直は高野山に追放された


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