🌸神仏習合1(「天皇は仏教徒」で「神祗神道」の宰主)
☆仏教伝来以来、日本精神史の宿命のテーマが仏教と神道の関係性である
*仏教は教義・教典の体系性において圧倒的な存在感を持つ
*空海、親鸞、日蓮などにより創造的に進化して民衆に根付いていった仏教
☆自然と祖先を崇敬して八百万の神の下での清浄を祈る神道
*「神仏習合」、自立した神道ヘと、時代と共に位相を変化させてきた
☆天皇制との関係において、神仏習合の意味は微妙に揺れ動いてきた
*明治維新まで「天皇は仏教徒」で「神祗神道」の宰主でもあった
*「おおらかな習合」の時代を続けてきた
🌸江戸期の仏教への再考察(日本人が身につけたもの)
☆江戸幕藩体制300年で、仏教は形骸化し堕落した
*本山が末寺までを統括する「本末制度」&「寺檀家制度」
*国家権力の統治機構に仏教が組み込まれた
*仏教教理の原点が見失われ、仏教の形式化が進んだ
☆日本の仏教は民衆統治の機構の一部になった
☆幕府による仏教統制はキリシタン禁制との相関で強化されていった
☆全国的に寺院単位で「寺請制度」による住民の統制がなされた
⛳徳川家と仏教(浄土宗と天台宗)
☆本来、徳川家は浄土宗の檀家であった
*浄土宗の増上寺が江戸における徳川の菩提寺となった
☆家康が天台宗の僧侶天海を重用し、天海が、107歳までの長寿を全うした
*天海は、三代家光までの徳川初期の宗教政策に大きく影響した
☆天海により開山された天台宗の上野寛永寺が重きをなし
*家康の死後は天海の「神仏習合神道」に基づき家康を神格化して
*「東照大権現」として飾日光に祀り、天台宗の輪王寺が取り仕切った
☆三代家光は日光に、四代家綱、五代綱吉は寛永寺に葬られた
*以後歴代将軍は増上寺と寛永寺が半数ずつ将軍家の菩提寺としての役割を分担した
☆徳川御三家の宗派も微妙
*尾張は浄土宗、紀州は天台宗、水戸だけが儒教にこだわる
☆徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉が仏教の統制に手を焼くのを目撃してきた
*そのため「仏教を保護しつつ統制すること」に腐心した
*仏教宗派の多くが、幕府の体制維持装置になっていく
☆日蓮宗不受不施派の頑強な抵抗と幕府による弾圧
*幕末まで日蓮宗不受不施派への検挙、斬首、流罪が繰り広げられた
☆中国からの黄葉宗の影響と出版文化の隆盛
*江戸期に黄檗宗の登場が仏教界に与えた刺激は大きかった
*宇治の万福寺を基点に活動した隠元によって導入された
*明朝禅林の生活規範たる「黄檗清規」が仏教教界を動かす
*世俗に配慮した柔軟な「心の染浄」を重視する姿勢
*江戸期仏教に静かに影響を与えた
☆黄柴系の僧侶が中国の本版技術で「大蔵経」などの経典を普及させた
*本版の「仮名法語」は民衆に仏教理解を促したことも大きかった
☆日本人の識字率がきわめて高かった要因
*「読み書き算盤」を教える寺子屋が機能していたためである
*仏僧が村落の日常において活躍した意味は大きかった
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