広島県の最高峰、恐羅漢山の隣にある砥石郷山は広島では人気の山だと思っているのですが、、、
昨日の登山中に出会ったのは5名くらいの男性グループが一組だけでした。タカ長たちが下山したあと田代から登ってこられる人がいれば別ですが、、、、
見たところ2組10名たらずの登山者しかいなかったことになります。
昨日は最高の登山日和で、牛小屋高原の駐車場には大型バス1台を含め多くの乗用車が駐車していました。その人たちのほとんどは恐羅漢山に登ったのでしょうか?
ネット情報に毒されていたのかも知りませんが、田代から砥石郷山までの登りは相当キツイものになる覚悟していました。入れすぎるくらい入れ込んで現地に向かいました。
しかし、、、、帰宅して、あらためて軌跡を見ると、1時間で400m程度の高度しか登っていませんでした。
昨日のようにさわやかで、風が適当にあると汗だくになることもなく450mくらいは登れそう、、、というのが今のタカ長の脚力ですから、、、、
だから、あっけないくらい簡単に山頂に着いた、と感じたのでしょう。
今日のタイトルを「砥石川山」としましたが、これは変換ミスではありません。
「西中国山地」(桑原良敏著)によると、この山は昔は「長石山」と呼ばれていたようです。
砥石川山となったのは、牛小屋の谷の水源にあるナツヤケの谷より砥石になる凝灰岩質砂岩と思われる石が見つかったからである。砥石に使える石を初期には川の転石から見つけていたので、ナツヤケの谷を砥石川と呼んでいた。この付近では川を横川(よこごう)、中ノ川(なかのごう)、赤川(あかごう)の如く「ごう」と読んでいるので「砥石川山(といしごうやま)と書くのが正しい。
桑原先生は西中国山地のことを深く研究されているので、タカ長はこの記述に異議をはなみませんが、国土地理院の地図には「砥石郷山」とあるので、今では誰もがこの記載に従っています。
どのような経緯で国土地理院が「砥石郷山」としたのか、その経緯は知りませんが、地名は一つの文化財ですから、安易に変えることには賛成しかねます。
この峰より砥石郷山三角点までは、ミズナラ、ブナの樹林の中を歩くので展望がきかない。
「西中国山地」にこのように書かれている尾根道は、落葉期に歩くと明るくて好きでした。タカ長の記憶にある、青春のころのこの尾根は深い森を歩くのではなく、灌木中を歩いているようなイメージでした。
その森も年々成長して、、、人間にたとえたら「中学校入学」くらいにはなってくれたように感じています。
恐羅漢山をめぐる山はブナの山で、タカ長たちの年代の登山者が、その森の素晴らしさを知る最後の世代になったと感じています。
恐羅漢山の稜線部はもちろんですが、ナツヤケのキビレを下りた中之甲をめぐる山のブナは今では語り草になっています。その中之甲のブナはタカ長世代より前のことで、この集落を何度も歩きましたが、ブナの森の思い出はありません。
タカ長が知っているのは恐羅漢山山頂やその稜線部のブナですが、そのブナの森はスキー場の開発が影響したのか、今では見る影もないくらい酷いものになっています。
その森が再生するまで生きることはできないので、、、、、せめて砥石郷山の森が「高校入学」程度に成長する姿を見たいと思っているところです。
この尾根道は5年も10年もご無沙汰しているわけではありませんが、昨日歩いてみたら急に成長したように感じました。
森の成長も、ある時期には急に成長するのかもわかりませんが、しかし、どんなに急いでもらっても、あの森が昔の恐羅漢山のようになるまで生きることはできません。
そのことは重々分かっていながら、昨日の様子から「せめて高校入学までは見届けたい、、、」という夢は叶いそうな、そのような期待を持たせた山歩きでした。
ナツヤケのキビレから登ったところの展望のピークのまわりの木も成長してきました。
前方に見えるのが恐羅漢山ですが、砥石郷山のブナの森が「高校入学」くらいまで成長したころには、ここから恐羅漢山が見えなくなるのでしょうか?
ということは、、この秋にも行って、タカ長が好きな「全山紅葉」を見ておいたほうが良さそうですね。
昨日の登山中に出会ったのは5名くらいの男性グループが一組だけでした。タカ長たちが下山したあと田代から登ってこられる人がいれば別ですが、、、、
見たところ2組10名たらずの登山者しかいなかったことになります。
昨日は最高の登山日和で、牛小屋高原の駐車場には大型バス1台を含め多くの乗用車が駐車していました。その人たちのほとんどは恐羅漢山に登ったのでしょうか?
ネット情報に毒されていたのかも知りませんが、田代から砥石郷山までの登りは相当キツイものになる覚悟していました。入れすぎるくらい入れ込んで現地に向かいました。
しかし、、、、帰宅して、あらためて軌跡を見ると、1時間で400m程度の高度しか登っていませんでした。
昨日のようにさわやかで、風が適当にあると汗だくになることもなく450mくらいは登れそう、、、というのが今のタカ長の脚力ですから、、、、
だから、あっけないくらい簡単に山頂に着いた、と感じたのでしょう。
今日のタイトルを「砥石川山」としましたが、これは変換ミスではありません。
「西中国山地」(桑原良敏著)によると、この山は昔は「長石山」と呼ばれていたようです。
砥石川山となったのは、牛小屋の谷の水源にあるナツヤケの谷より砥石になる凝灰岩質砂岩と思われる石が見つかったからである。砥石に使える石を初期には川の転石から見つけていたので、ナツヤケの谷を砥石川と呼んでいた。この付近では川を横川(よこごう)、中ノ川(なかのごう)、赤川(あかごう)の如く「ごう」と読んでいるので「砥石川山(といしごうやま)と書くのが正しい。
桑原先生は西中国山地のことを深く研究されているので、タカ長はこの記述に異議をはなみませんが、国土地理院の地図には「砥石郷山」とあるので、今では誰もがこの記載に従っています。
どのような経緯で国土地理院が「砥石郷山」としたのか、その経緯は知りませんが、地名は一つの文化財ですから、安易に変えることには賛成しかねます。
この峰より砥石郷山三角点までは、ミズナラ、ブナの樹林の中を歩くので展望がきかない。
「西中国山地」にこのように書かれている尾根道は、落葉期に歩くと明るくて好きでした。タカ長の記憶にある、青春のころのこの尾根は深い森を歩くのではなく、灌木中を歩いているようなイメージでした。
その森も年々成長して、、、人間にたとえたら「中学校入学」くらいにはなってくれたように感じています。
恐羅漢山をめぐる山はブナの山で、タカ長たちの年代の登山者が、その森の素晴らしさを知る最後の世代になったと感じています。
恐羅漢山の稜線部はもちろんですが、ナツヤケのキビレを下りた中之甲をめぐる山のブナは今では語り草になっています。その中之甲のブナはタカ長世代より前のことで、この集落を何度も歩きましたが、ブナの森の思い出はありません。
タカ長が知っているのは恐羅漢山山頂やその稜線部のブナですが、そのブナの森はスキー場の開発が影響したのか、今では見る影もないくらい酷いものになっています。
その森が再生するまで生きることはできないので、、、、、せめて砥石郷山の森が「高校入学」程度に成長する姿を見たいと思っているところです。
この尾根道は5年も10年もご無沙汰しているわけではありませんが、昨日歩いてみたら急に成長したように感じました。
森の成長も、ある時期には急に成長するのかもわかりませんが、しかし、どんなに急いでもらっても、あの森が昔の恐羅漢山のようになるまで生きることはできません。
そのことは重々分かっていながら、昨日の様子から「せめて高校入学までは見届けたい、、、」という夢は叶いそうな、そのような期待を持たせた山歩きでした。
ナツヤケのキビレから登ったところの展望のピークのまわりの木も成長してきました。
前方に見えるのが恐羅漢山ですが、砥石郷山のブナの森が「高校入学」くらいまで成長したころには、ここから恐羅漢山が見えなくなるのでしょうか?
ということは、、この秋にも行って、タカ長が好きな「全山紅葉」を見ておいたほうが良さそうですね。