先日紹介した危ない本(「旅する木」星野道夫著)に下記のような1節があります。読者の自然観を変えるようなことが書かれている、と言ったことの一つです。
アラスカの自然を旅していると、たとえ出合わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する。今の世の中でそれは何と贅沢なことだろう。クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こすからだ。もしこの土地からクマが消え、野営の夜、何も恐れずに眠ることができたなら、それは何とつまらぬ自然なのだろう。4月のアラスカは、姿は見えなくとも、そろそろ雪の下からクマの気配を感じ始めるときである。
わが裏山にはこの種の貼り紙が何ヵ所かに掲示されています。
ここに書かれている観音台では公園にクマが出現し、それを仲間が目撃したことがありますが、その情報は実際にクマを見ているのですから信用できます。
しかし、これはあくまでタカ長の独断ですが、クマの痕跡があったとか、足跡があった、声がしたというような情報はまゆつば物だと感じています。
そもそも登山者が少ない山で、丁度そのときにクマのことが分かる登山者が通りかかるということ自体が信じられないのです。
わが裏山の入り口には「クマの足跡があった」ように書かれていますが、そのあたりはそもそも生き物の足跡がつきにくい所です。そのような所でクマの足跡であると断定できるとしたら、たとえば米田一彦さん(「山でクマに会う方法」などの著書あり)のような専門家だけだと思うのですが、そのような専門家がそのときわが裏山にいたとは思えないのです。
この件で区役所の担当課に問い合わせましたが、どのような人がそのような判断をしたのか、明確な返事は頂けませんでした。
何かあった時に行政は何もしなかったと言われるのを避けるための保身。そのようなものしか感じませんでした。
わが裏山を含む西中国山地はツキノワグマの生息域です。そのためクマに対する注意を怠ることは出来ませんが、だからと言っていたずらに恐れていてはアウトドアー活動そのものが成り立ちません。
タカ長自身は登山中にクマに遭遇した経験はありませんが、、、、、。
仲間たちと隊列を組んで比婆山を歩いている時、先頭を行くタカ長の後ろの方を一頭のクマが横断したことはあります。しかし、それを見たのはタカ長の後ろを歩いていたメンバーだけです。あっという間の横断だったので、タカ長はその気配さえ感じられませんでした。それがクマとの唯一の遭遇です。
車で走っているときにクマを見た経験は何度かあります。その中の一つですが、朝の光の中で見た子熊の毛並みは忘れられません。動物園で見るクマのような、しょぼくれた色ではありませんでした。
車を下りてナデナデしてやりたいところですが、子熊のそばには親熊がいて危険、と言うのは常識なので、車の中から見ただけです。
山を歩いていて生き物の気配を感じることはよくあります。特にソロ登山の時です。ソロ登山の時は全身を耳にして歩いている気分なので、何かを感じるのかも分かりません。
何かの気配がカサカサと近づいてくる時は緊張しますが、それがイノシシの群れであることが見えると安心し、その中にいたウリボウを、目を細めて見送ったこともあります。
そのようなタカ長ですが、山でクマに遭遇したいわけではありません。
出会い頭の遭遇は危険とされているので、それを避けるために笛を吹くこともあります。大声を上げることもありますが、そのような時に人に会うと嬉しくないので、「懺悔、懺悔、、、、六根清浄」と大声をあげます。信仰のためではなくて、単なる「奇声がわり」です。
山にクマがいるのは普通のことだと思いますが、それが「今の世では何たる贅沢」とまでは考えたことはありませんでした。しかし、言われてみれば、確かにその通りだと思います。
わが裏山にクマがいるのかどうか定かではありませんが、星野道夫の本を読んでいると、何頭かのクマがいるほうが贅沢な裏山歩きが出来そうだと思えてきます。
このような発想は危険なのでしょうか?
この本はやはり「危ない本」だと言えそうですね。
アラスカの自然を旅していると、たとえ出合わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する。今の世の中でそれは何と贅沢なことだろう。クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こすからだ。もしこの土地からクマが消え、野営の夜、何も恐れずに眠ることができたなら、それは何とつまらぬ自然なのだろう。4月のアラスカは、姿は見えなくとも、そろそろ雪の下からクマの気配を感じ始めるときである。
わが裏山にはこの種の貼り紙が何ヵ所かに掲示されています。
ここに書かれている観音台では公園にクマが出現し、それを仲間が目撃したことがありますが、その情報は実際にクマを見ているのですから信用できます。
しかし、これはあくまでタカ長の独断ですが、クマの痕跡があったとか、足跡があった、声がしたというような情報はまゆつば物だと感じています。
そもそも登山者が少ない山で、丁度そのときにクマのことが分かる登山者が通りかかるということ自体が信じられないのです。
わが裏山の入り口には「クマの足跡があった」ように書かれていますが、そのあたりはそもそも生き物の足跡がつきにくい所です。そのような所でクマの足跡であると断定できるとしたら、たとえば米田一彦さん(「山でクマに会う方法」などの著書あり)のような専門家だけだと思うのですが、そのような専門家がそのときわが裏山にいたとは思えないのです。
この件で区役所の担当課に問い合わせましたが、どのような人がそのような判断をしたのか、明確な返事は頂けませんでした。
何かあった時に行政は何もしなかったと言われるのを避けるための保身。そのようなものしか感じませんでした。
わが裏山を含む西中国山地はツキノワグマの生息域です。そのためクマに対する注意を怠ることは出来ませんが、だからと言っていたずらに恐れていてはアウトドアー活動そのものが成り立ちません。
タカ長自身は登山中にクマに遭遇した経験はありませんが、、、、、。
仲間たちと隊列を組んで比婆山を歩いている時、先頭を行くタカ長の後ろの方を一頭のクマが横断したことはあります。しかし、それを見たのはタカ長の後ろを歩いていたメンバーだけです。あっという間の横断だったので、タカ長はその気配さえ感じられませんでした。それがクマとの唯一の遭遇です。
車で走っているときにクマを見た経験は何度かあります。その中の一つですが、朝の光の中で見た子熊の毛並みは忘れられません。動物園で見るクマのような、しょぼくれた色ではありませんでした。
車を下りてナデナデしてやりたいところですが、子熊のそばには親熊がいて危険、と言うのは常識なので、車の中から見ただけです。
山を歩いていて生き物の気配を感じることはよくあります。特にソロ登山の時です。ソロ登山の時は全身を耳にして歩いている気分なので、何かを感じるのかも分かりません。
何かの気配がカサカサと近づいてくる時は緊張しますが、それがイノシシの群れであることが見えると安心し、その中にいたウリボウを、目を細めて見送ったこともあります。
そのようなタカ長ですが、山でクマに遭遇したいわけではありません。
出会い頭の遭遇は危険とされているので、それを避けるために笛を吹くこともあります。大声を上げることもありますが、そのような時に人に会うと嬉しくないので、「懺悔、懺悔、、、、六根清浄」と大声をあげます。信仰のためではなくて、単なる「奇声がわり」です。
山にクマがいるのは普通のことだと思いますが、それが「今の世では何たる贅沢」とまでは考えたことはありませんでした。しかし、言われてみれば、確かにその通りだと思います。
わが裏山にクマがいるのかどうか定かではありませんが、星野道夫の本を読んでいると、何頭かのクマがいるほうが贅沢な裏山歩きが出来そうだと思えてきます。
このような発想は危険なのでしょうか?
この本はやはり「危ない本」だと言えそうですね。