ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

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田中昌人「みんなで夜明けを」(『夜明け』創刊号、1970年6月)

2010年12月14日 17時37分18秒 | その他
資料の中から、全障研京都支部『障害児・者科学の夜明けをめざして-京都全障研運動10年のあゆみとこれから』をみつけた。その中に、田中昌人先生の創刊号に寄せた文章が再掲されていた。1970年の京都大学に赴任する直前に書いたもので、赴任後に機関誌に掲載されたものである。
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みんなで夜明けを
田中昌人
 1968年、わたくしは重症心身障害児の療育記録映画「夜明け前の子どもたち」の製作に参加しました。生き生きとして力強く明るい人間の発達の力を発見したわたくしたちの中からは、もっと躍動した題名をつけようではないかという声もあがりました。こんなにも力強い人間の発達の力、差別に対するはげしい怒りの感情を全身にみなぎらせる人間の命の叫び、しかしこれにたいしてうけとめる政治には、この子ども達の権利保障の観点がない、その状況を示す表現として、そして、わたくしたちは、夜明けへむかって運動を前進させていこうという決意をこめて、「『夜明け前』の子どもたち」が作りだされました。
 「夜明け前の子どもたち」が石運び作業で展開した人間の連帯の発達を学んでいった夏、全国のなかまの力は、全国障害者問題研究会を結成して、障害種別や地域をこえた自主的・民主的研究運動を生みだしました。全国のなかまに学び、「夜明け前の子どもたち」の職場では、「おたがいが団結し、わたしたちの生活と健康を守り、障害児の療育を守る」ために組合をつくりました。夜明けをめざして、権利保障への杭をうちこんだのです。それから、ひとあし、ひとあしのきびしいあゆみ、しかし子ども達はまた教育行政が責任をもった権利としての教育の保障がなされていません。映画製作の翌年やっと全員に教科書が渡たされ、地域の小学校と交流しました。その間に、「おむつをしてでも学校へ行きたい。友達がほしい」と訴えていたあつのぶくんをはじめ9人の子どもたちがそのねがいを実現しえないまま亡くなりました。わたくしたちは全国のなかまとともに、「すべての子どもに教育権の保障を」をスローガンに運動にとりくみました。「学校へいきたい、ともだちがほしい」というねがいはフィルムから、テープから、活字から解きはなたれ、人びとの心にうつしかえられ、人びとを結びつけました。
 ちょうどこの頃、わたくしたちはまた、「夜明け前」から、「夜明け」へ行くのには直線コースだけ、たとえば自治体請願をくりかえすということだけにあるではないということを戦後の京都のたたかいの歴史の中から学ぶことができました。たんにサークルをつくるだけでなく、日常的な要求活動を結集し、いわばそこを拠点とする民主的な学校や保育所・診療所をつくって運動を強め、それを軸にして連帯への発達を実現し、自治体民主化と結合して進めなければならないことを学んだのです。「夜明け前」の状態ではあかりをつけることによって一部分を軽くすることができます。しかしそれが集まっても「夜明け」にはなりません。「夜明け」はすべてが明るくなることです。
 いま京都では、70年代のたたかいの性格がどういうものなのかを日本中の人たちに明らかにし、日本の夜明けたらんと日夜奮闘しています。日本中があかるくなる本当の「夜明け」を実現するために、各地のたたかいと結合し、複雑な情勢のなかで統一の原則を踏まえていこうという決意が、全障研京都支部の機関誌「夜明け」にはみなぎっています。日本中のなかま夜明けをめざしてたたかいつづけていくとき、機関誌「夜明け」からくめどもつきぬ教訓を引き出すことができるとおもいます。それはまた必ず日本中にいくつもの運動の拠点をつくり、機関誌を出して、運動をひろげることになって連帯していくにちがいありません。

1970年2月10日 日教組19次教育研究全国集会をおえて
全国障害者問題研究会
全国委員会委員長 田中昌人

(全国障害者問題研究会京都支部機関誌『夜明け』創刊号、1970年6月30日)