田村一二は、1909年、京都府舞鶴市に生まれ、明治、大正、昭和、そして平成を生き、1995年11月8日没。84歳だった。
1970年代から1980年代に、障害のある人と関わる人にとって、その名を知らない者はいないほどだった。1933年、京都師範学校専攻科を卒業した後、京都市立滋野尋常小学校に赴任。そこで、「特別学級」の担任になる。校長(斎藤千栄治)に「ペテン」にかけられた知的障害教育の出発はあまりにも有名。田村一二への憧憬から、障害者福祉の道に入った者も多かったものだ。しかし、障害者福祉や障害者教育を学ぶ若い人たちの間では、もはやその名前を知る人は少ない。
田村一二について語ることとなったきっかけについて、はじめに述べておこう。
さかのぼれば大学院生時代のことになるのだが、京都の障害児教育史の史料をあつめていた。ちょうど、清水寛さんが内地留学で来られていて、ご一緒させていただいた。清水先生が古本屋で見つけたものが、田村一二の『精神薄弱児の生活指導』だった。それをコピーさせていただいていたのだが・・・。そのコピーが見開き1ページ抜けていたことに気づいたのは相当あとのこと。その1ページのために、いろいろ探したのだが、なかった。翻刻版はあるのだが、謄写版づりのものはなかった。ずっと、引っかかったままだった。それが、ひょんなことからそのコピーをみせていただくことができた。どこからコピーをとったのですかと伺うと、京都の総合支援学校の校長をされていた先生からとのこと、さっそく、連絡を取ってもらった。その後のことは、次のような文章にしている。
2014年6月のことだった。京都市の仁和小学校で、1948年に特殊学級が設置されたときにひょんなことで担任になった森脇功先生のお話しを伺う機会があった。森脇先生が、戦前からの京都市特別児童教育研究会の史料や戦後初期の特殊学級の再興、そして、その後の実践についての史資料を持っておられるということで、そのいきさつを聞かせていただくためにお宅にお邪魔させていただいたのである。
さっそくということで、口火をきると、「その前に話しておかないといけないことがある」とおっしゃって、大阪大空襲で命からがら京都に移り、敗戦を迎えたこと、それから、戦後すぐに京都の観光雑誌を発刊したがその事業にも失敗したこと、前後不覚で小学校に飛び込んで校長に頼んで教師をしはじめたこと・・・これまで歩まれた経過を、ゆっくりと話してはじめてくれた。森脇先生の教職の出発は、教育基本法と学校教育法が公布された1947年のことだった。
その仁和小学校で、一人の教師の提案で特別学級がつくられることになったのだが、その教師は早々と教師を辞めてしまっていた。だれが担任になるかで一悶着、だれも引き受け手がいない。
「結局、一番気の弱いぼくがおしつけられて、担任になることになった。教師になるつもりもなかったぼくが…」-「子どもらをあつめても、なにをしたらよいのかわからん」。その前の年に特殊学級ができていた生祥小学校の熊谷さんのところに教えを請いに行ったら、「わたしはなんにもわかりません」とけんもほろろ、ようやく、近江学園の糸賀先生がいるから、そこへ行って聞いてみなさいとアドバイスをもらえたという。
さっそく、1948年の夏、近江学園へ。「南郷の駅を降りて、瀬田川をあるいて、南郷の丘の上へ、でも糸賀先生いはらしません。そこで初めて会ったのが田村一二先生」「この人がどんな人かなんかなんにも知らんのです。教員になるつもりなんかまるっきりなかったですから…」。
「田村先生に、実は、こうこうこういうわけで、いろいろ勉強を教えてやろうと思って、いろいろやるんですが、とってもじゃないけどできしません、いうたら、その時、いわはったのが-「おまえはあほじゃ」-そうぼくにいわはった。いきなり…」「だいたい、人間の悪いところばかっりつかまえて、その悪いところをおまえはようしようとしとる。まちがえじゃ。人間ちゅうのは、どんな人間だって、いいところがあるもんや。いいとこを見つけて、それを伸ばすのが大事なんや。ああいう子どもでもいいとこがあるんやから-といわれましてね。ほんまにガツーンとやられまして、帰りに瀬田川のところを歩きまして、南郷の駅まで来るまでになんと言っていいのか…もう、その辺で、なんか気がおこってきて…」
その後、森脇先生は、三木安正、滝之川学園、八幡学園、伊豆の藤倉学園まで訪問して、戦後自主的につくられた京都市精神遅滞児教育研究会の中心となり、京都市の知的障害の教育実践と研究に邁進することになる。人生には、そのような転機となる人との出会いがあり、知的障害のある子どもたちとの出会い、そしてそれに携わ る人と人の出会いのなかで、心が固まっていく契機があることを痛感させられるお話しだった。「おまえはあほじゃ」と言った田村一二自身が、森脇先生と同じ経験と思いをもち、その中から、知的障害の子どもたちと共に人生を歩むことになっていった経歴をもっていたのである。その人生の重なりが、「おまえはあほじゃ」の一言に凝縮しているように思えてならなかった。
より詳細に伺うことを約束したのだが、その後、森脇功先生は入院。夏に、「君の研究に協力したい」といわれ、入院先でお話しを少し伺うことができたが、とにかく「退院してから、ゆっくりと伺います」と約束したのだが、その一週間後にお亡くなりになり、詳細を伺う機会はなくなってしまった。