田村一二が特別学級の教師になったことについては自らも語り、『忘れられた子等』において主人公の谷村清吉として登場して、その経過を記しているのは、よく知られているところである。
直接『忘れられた子等』の執筆の経過について語ることはあまりなかったのではないかと思われる。田村にとっては、いつも前を向いていくということになるので、あまり過去のことについて述べることはしないのかもしれない。そうではあるが、1974年に、田村が語った内容をもとに制作された『ちえおくれと歩く男』(柏樹社、1974年10月)で、少しだけ触れられている。その表題が「両刃斬撃―忘れられた子ら」としてまとめられた部分である(pp.65-68)。
直接『忘れられた子等』の執筆の経過について語ることはあまりなかったのではないかと思われる。田村にとっては、いつも前を向いていくということになるので、あまり過去のことについて述べることはしないのかもしれない。そうではあるが、1974年に、田村が語った内容をもとに制作された『ちえおくれと歩く男』(柏樹社、1974年10月)で、少しだけ触れられている。その表題が「両刃斬撃―忘れられた子ら」としてまとめられた部分である(pp.65-68)。
そこではおおむね次のようなことが語られている。
特別学級を担任して10年がたった頃(注:8年前後がたった昭和15年か16年の頃と思われる)、京都新聞(注:京都日出新聞)の東辻記者がきて、「この子等のことを連載しませんか」と言われた。東辻の人柄が気にいったので書くこととなった。それも絵と添えて毎日(?)連載となる。
(ここからが問題)・・・その見出しが「両刃斬撃」というのである。
「『両刃斬撃』というのはね。相手も斬るけどこっちも斬るという意味に使うたんです。
つまり読者、社会も斬るけど、同時にこっちもうかうかはしておれん、同じ刃で斬られているのやというんですね。
ほんまは誰も斬られてませんな。向こうさんも一向平気でしょうし、こkっちも至極のんびりと書いているんですから。
こんな題をつけて、力み返っておったんやなあ、自分の若さが笑えてきますね。」
つまり読者、社会も斬るけど、同時にこっちもうかうかはしておれん、同じ刃で斬られているのやというんですね。
ほんまは誰も斬られてませんな。向こうさんも一向平気でしょうし、こkっちも至極のんびりと書いているんですから。
こんな題をつけて、力み返っておったんやなあ、自分の若さが笑えてきますね。」
つづけて、これらの連載をみた教育図書の飯田君というのがやってきて、「先生、これを本にさしてもらえませんか」と言われ、田村は「僕はいっぺんに承知しました」といっている。田村の記録も薄れて、混乱しているようで、「とにかくこの『両刃斬撃』がもとになって、僕の第一作の『忘れられた子ら』が生まれた」というのである。そして、次のように続ける。
「『忘れられた子ら』が導火線になって、『手をつなぐ子ら』『石に咲く花』『百二十三本目の草』『特異工場』『バックネット』などが次々と出ました。
まあ、何しろ十年間、黙ってこつこつと書き溜めた記録がありましたから、堰を切ったように流れ出たんでしょうな。
滋賀に行ってから『開墾』『はなたれぼとけ』『茗荷村見聞記』を書きました。
そのうち映画になったのは『忘れられた子ら』と『手をつなぐ子ら』どちらも脚本は伊丹万作さん(前者の脚本は稲垣浩)、監督は稲垣浩さんでした。(後略)」
まあ、何しろ十年間、黙ってこつこつと書き溜めた記録がありましたから、堰を切ったように流れ出たんでしょうな。
滋賀に行ってから『開墾』『はなたれぼとけ』『茗荷村見聞記』を書きました。
そのうち映画になったのは『忘れられた子ら』と『手をつなぐ子ら』どちらも脚本は伊丹万作さん(前者の脚本は稲垣浩)、監督は稲垣浩さんでした。(後略)」
「両刃斬撃」・・・それはこれまで聞いたこともない表題だった。