日出新聞連載の「忘れられた子等」は『鋏は切れる』を経て、田村のはじめての著書『忘れられた子等』(教育図書、1942(昭和17)年)に、他のエピソードもいれられて、「子供の巻」がつくられる。もう一つの柱が「先生の巻」であり、「ペテン」からはじまって自ら「特別学級」の教師になっていく姿を記したものである。この『忘れられた子等』も、書誌情報をたどっていくのはなかなかのものがある。1942年に教育図書から出され、何版が出されたのか?、戦後、 1949年に 冬芽書房から再版されている。また、1950年に大阪教育図書から、「忘れられた子ら」「手をつなぐ子ら」その他を含めて再刊されている。その後、北大路書房から、再度、発行され、何度か版をあらためられて出されている。
清水寛は「滋野小学校の特別学級と田村一二先生」『京都障害者歴史散歩』(1994年、文理閣、pp.163-181)の中で、その魅力を語っている。『忘れられた子等』の書かれた時代背景との関係で、後の版との相違を次のように書いている。
「時代は日中戦争から太平洋戦争への”戦争と軍国主義の嵐”が吹きつのっていくときである。田村の著作にも、そうした時代の風潮は影を落としている。例えば、一九四一(昭和一六)年の一月末から二月の半ば頃にかけて京都の日出新聞に自らの挿し絵を添えて連輝していた教育小説『忘れられた子等』の第五・六話には「兵隊ごっこ」、第一二話には「徴兵検査」と題する物語がくりひろげられている(田村一二著『鋏は切れる』京都市教育部学務課発行、一九四一年、所収。ただし、戦後版の『忘れられた子等』では削除)。しかし、それらの物語も含めて、田村の作品の基底には常にこの子らに寄せる深い愛と良心的な教師としての教師としてのヒューマニズムの精神が貫かれている」
とはいえ、この「削除」問題については、正確ではないので指摘しておきたい。すなわち、1950年に大阪教育図書から出されたものでは削除されていたが、北大路書房版にはこの3話は掲載されているのである(冬芽書房版については未確認のため、確認必要)。なぜ、北大路書房版では復活されているのか―これも謎と言えば謎である。
敗戦後のGHQの検閲方針との関係は、もう一つの著書『手をつなぐ子ら』の場合のほうが明確である。このことは『児童文学の中の障害者』に詳しい。