田村一二の知的障害児教育の出発は、1933年滋野小学校への赴任の際、校長に特別学級担任を要請されたことにはじまる。本人は、優秀児の学級といさんで了承するのだが、それは本人の思い込みで、校長の「ペテン」と言い出したものの、校長の説得に2年の期限付きで渋々引き受けさせられた経過はあまりにも有名である。その後、担任につけた校長に反抗し、不良教師の役回りを演じたと、本人は常々語っていた。また、この経過は、田村の出発点となった著書『忘れられた子等』でも、「ペテン」と表題をつけて語っている。
滋野小学校への赴任には、実は伏線がある。一つは、田村が代用教員時代に通った教員養成所での田辺一郎(滋野小学校の教頭となる)との関わりである。もう一つは、滋野小学校での特別学級を設置した校長斉藤千栄治のはからいである。田村に「ペテン師」よばわりされたその校長であった。特別学級の担任の候補を京都師範学校に求めていた斉藤は、おそらく、田辺を経由して、田村の存在を知り、京都師範学校とも相談していたと思われる。『忘れられた子等』の中にも次のような場面がある。
「ペテンだ。普通学級を持たせてください」に対して、「ペテン? 馬鹿なことをいっちゃいかん。君が専攻科に居る間に、師範ともちゃんと交渉がしてある、君も、既に承知の筈だ、さっきも君は、特別学級結構ですと云ったではないですか」と校長がやり込めるのである。
田辺一郎のその後、田村が滋野小学校から石山学園をつくる経過の中で再度、重要な役割を果たすことになるが、ここではおいておこう。「ペテン師」呼ばわりされた斉藤千栄治は、すでに前任校の成徳小学校において京都市内で初めて特別学級を設置した校長であり、京都の特別学級史を綴る上で欠かせない人物であるが、最近のその経歴、特に奈良女子高等師範附属小学校での特別学級の開設と初期の実践を担った経験が掘り起こされてきている。このことに関しては、障害児教育史研究会『障害児教育史研究-史料と論究』創刊号、2018年を参照してほしい。この斉藤千栄治の生涯について、特に奈良から京都への転任の経緯など謎が多いので、それもいつかは紹介してみたい。
とにかく、田村一二の「特別学級」担任の出発は、1933(昭和8)年4月ということになる。そこから、2年という期限で担任をはじめたのである。黒板に725日・・・と残りの日時を書きながら、校長に反抗し、毎日絵を描きながら過ごした。また、子どもたちにげんこつを食らわすなど手荒い「指導」をしていくのであるが・・・。この日々は、いつくらいまで続いたのであろうか??
田村の特別学級担任の決意を垣間見せるものが、ぼくが田村のことをはじめなければならなくなったきっかけとなった森脇功先生の手元に保管されていた「精神薄弱児の図画」という原稿である。その末尾に、昭和9年9月15日の日付が筆で書かれていた。