田村は、子どもたちとの直接的なふれあいの中で、頑なで癇癪を起こす心を、徐々に溶かし、契約の二年に至るまでに心境を変化させていく。田村は、担任となってから一年半の頃、「精神薄弱児の図画」(昭和9年9月15日)という手稿に、解けかかっていく心の様子を実に率直に書いている。
「(前略)根本は「彼等を知る」ことだ。こう云えば「ふん又古臭い事を云つてゐるそんな事はあたり前だ」と云ふだろう。だがそのあたり前の事が一番大切なんだ。これは僕が本当に受け持ってみて沁々感じた事実なのだ。…
僕は初めて受持った当時毎日癇癪が立った。一方で可哀さうだと云ふ気があるのだがそれでゐて癇癪玉が破裂してしまふ。その次に失望落膽した。あゝどうせどんなにやつたって駄目だと半分自棄になった。
ところが人間は妙なものでこんな時期を過す中に次第に彼等と云ふものが判りかけて来た。判りかけてくると可愛くなってくる。
これは本当を云ふと諦めからきたのかもしれんし、他の普通児の事を忘れかけて来たのかもしれんし、又この子供達になれてしまつて余りそのあらが目につかなくなつた故かもしれん。
とに角僕ははじめから彼等に高尚な教育愛なんか持つて臨んだのではないのだ。実は厭で堪らなかつたのだ。他の普通学級を持つてゐる連中が羨ましくて堪らなかった。今だって時々羨ましくなる時がある位だ。…
で、とに角僕は毎日の煩悶の中から悟つたのだ。
これは三馬力の機械だ。それを十馬力の機械の様に働かさうとするかたら怒こつたり泣いたりしなければならない。そして結局その機械そのものをこわしてしまふような結果にならぬとも限らない。
三馬力の機械は三馬力の機械としていためず錆びさせず、三馬力としての全能力を発揮させる事が出来ればそれでとに角神様への義理はすむと思ったのだ。
三馬力を二馬力や一馬力でほつて置かない様に全能力を出させてやるやうにする事が今の僕の教育なのだと思つたのだ。
それから僕は気が楽になつた。子供達ものんびりして来た事も自慢ではないが事実だ。
彼等が可愛くなればもうしめたもので、指導法なんか僕がこゝで下手な文章でくどくどと云はなくても自然とわかつてくるものだ。(後略)」
田村の「心境の変化」について、『忘れられた子等』が出される前年、京都市教育部より刊行された『鋏は切れる』(1941年5月)でそのことについてふれている。「八つ当式生活」をして、癇癪玉を破裂させながら、子どもたちと過ごしていくうちに、「子どもたちに対する憎い気持ちとすまんと云ふ気持ちが、段々に双方せり上がって来て、もうどうにもならなくなった」という。あるとき、漢字の指導をしていたところ、ある子どもには難しいだろうとひとりごとで「難しな」といったところ、その子がその文字を「難しいな」と読んだ-その瞬間はっとして何かがはじけたという。それ以後、田村は、よく笑うようになったし、子どもたちも明るくなり、互いに授業に精を出すようになったという。それが「第一の心境の変化」であった。
この手稿「精神薄弱児の図画」は何のために書かれたのか? はじめでの手稿として「図画」を選んだのは田村の経歴からわかるのだが?ところどころに、筆が入っているのは、田村自身の手になるものか、それとも、校長斎藤によるものなのか?? この手稿は、田村の著書の中にどのように入り込んでいるのか、そうでないのか?