田村の本格的な著作の出発となったのが、『忘れられた子等』(1942(昭和17)年、教育図書)である。その内容の一部は、京都日出新聞に、田村が連載した「忘れられた子等」(昭和16年1月~2月)を組み込んだものであった。もうすこし、その来歴を正確にすると、日出新聞への連載「忘れられた子等」は、その後、昭和16年に京都市学務課によって発行された田村の『鋏は切れる』に所収され、それにエピソードを追加して、「子供の巻」を構成し、「先生の巻」と合わせて『忘れられた子等』がつくられたのである。
『鋏は切れる』では、「忘れられた子等」として連載されたとして15のエピソードが所収されている。ちなみに、その見出しは「忘れられたる子等」となっており、日出新聞の表題と若干の相違があった。これまで、「忘れられた子等」の連載、『鋏は切れる』に所収された「忘れられたる子等」、そして『忘れられた子等』のそれぞれの内容について、吟味をする必要があると思った。
これは単純なことで、京都日出新聞から、連載を見いだすという初歩的な作業である。京都府資料館、現在は歴彩館と名称をあらためているが、そこにマイクロフィルムで保存されている。ちなみに、戦前の京都の新聞は、この京都日出新聞と京都日日新聞があり、戦中に統合されて京都新聞となった。「忘れられた子等」は、京都日出新聞マイクロフィルムでは、「子どもと家庭」の欄に1946年1月28日から2月18日まで連載されていたが、14のエピソードを確認することができた。なお、連載にあたっては次のような紹介があった。
「これは忙しい世の中から忘れられた精神薄弱児童と毎日暮らしている⼀小学教師の手記である。人的資源云々の言葉が何かにつけ用いられる今日、これら特別児童に対する世人の関心はあまりにも疎いのではなかろうか…全国で数万京都市内でのみでも二千を[数]する、この種児童の存在は決してこの際看過さるべき問題ではなかろう。忘れられた世界に住む子等に対する理解と同情がやがて国家的関心事として世⼈の認識に深く刻まれんことを期待しつつ…」
『鋏は切れる』と対照させてみると、その最後のエピソード「病気」を見いだすことが出来なかった。これは見落としかもしれないが・・・何度も確認したのではあるが???