振り返って、田村の教育文学の出発は、「もつと活発に社会に働きかけてもいいと思ふ」(前出『鋏は切れる』)と決意して著作にした『忘れられた子等』であり、続いて『石に咲く花』、そしてこの『手をつなぐ子等』が出された。だから、この一連の著作の連続性を考慮する必要がある。『手をつなぐ子等』は、戦中においてその社会に働きかける一つの到達点だったのではないだろうか。こういうと、戦後に「世に出た」というを長谷川の評価には疑問が残る。
とはいえ、田村自身も言っているように、内容においては、『忘れられた子等』『石に咲く花』が、特別学級を中心とした者であるのに対して、『手をつなぐ子等』は、通常学級という違いもあり、また、形式においても、『忘れられた子等』がエピソードの点描を集積したものであり、『石に咲く花』がエピソードを3話に構成した短編集とも言えるもの。そして『手をつなぐ子等』が長編ということになる。
すでに『忘れられた子等』の成立については、日出新聞の連載をその一部として構成し、そして、『石に咲く花』には、これもまた詳述する必要があるが「精神薄弱児の図画」を基にした部分があるようである。では、『手をつなぐ子等』はどうか―この点ももっと深められなければならないが、『手をつなぐ子等』にでてくる兵士として出征する父親の悩みと手紙のエピソードは、『勿忘草』第2号の田村の「覚え書き帳から」というもののなかにいれられている。別の機会に紹介や検討をしてみたい。
『手をつなぐ子等』の映画化についても、伊丹万作の著述をもとに検討したり、脚本検閲などについても調査が必要だ。伊丹を引きつけた『手をつなぐ子等』は、映画によって戦後の社会に送り出された。その広がりを調べてみたいのだが、少し着手していると紙芝居『手をつなぐ子等』が見つかった。
紙芝居については、2年前の青山塾での講義が始まるまえから、気になっていた。「日本の古本屋」のネット上に紙芝居が出品されていたのである。田の図書館に入っているかどうか、国会図書館などの検索で調べてみると東京の公立図書館1館だけに所蔵されているようだった。どうするか、古本屋で買うかどうか??購入するには高すぎる!!それも前編・後編の2つもあるのだ。一つ○万円するのだ。田村の著作を読んでいた滋賀の方もそれをみつけて「研究費で購入して、紙芝居に音声を付けて動画にしてよ」と勝手なことを言い始めて、よけいに悩んでしまった。半年くらい悩んでいたと思う。そのときに、青山塾の講義に池田太郎を担当している社会事業大学のT先生も参加すると担当のTさんがいってきた。ますますプレッシャーがかかり、その重みに、自然とポチッと「購入ボタン」をおしていた。ああ、またやってしまった・・・!