ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

映画『手をつなぐ子等』とCIE(GHQ)の検閲

2018年12月15日 22時45分28秒 | 田村一二

『伊丹万作全集』3の月報には、稲垣浩の「万作」という文章が寄せられている。戦前、稲垣と伊丹は共同で映画をつくってきた間柄である。伊丹は、1944(昭和19)年に『手をつなぐ子等』のシナリオを執筆していた。稲垣は、それまでの映画の製作について述べた後、田村一二の原作の映画化について次のように述べている。

「(前略)私は田村一二氏の『忘れられた子等』を書いて、是非やりたいと会社に申し出たところ、同じ著者の『手をつなぐ子等』を万さんが再起作品として計画していると聞いて、断念することとなつた。ところがやはり病状が悪く、これも私が代行することとなった。私はそれより先に、万さんを監督して私が助監督をつとめようと申し出た。しかし、その心使いは無用だと彼は断つた。/この作品は占領下に作ることとなつたが、進駐軍C・I・Eから戦後の話に書き改めなければ検閲を通せないと言ってきた。万さんはそれを聞いて怒り、それなら絶対にこのシナリオを使つてくれるなと言つた。私も彼の意を解し、米軍検閲官と二時間にわたりディスカッションして、原形のままで押し通した。しかし万さんは終にこの作品の出来上がりを見ずに世を去つたのである。」

伊丹万作のこの脚本への思いは強しである。なぜ、時代設定を「昭和12年」としたのか、それを妥協せずに貫いたのか。そして、稲垣浩は、検閲官とどのようなディスカッションをしたのだろうか。伊丹と稲垣のそれまでの映画づくりと映画批評などの背景にある思想、戦争についての彼等の態度も含めて検討する必要があろう。戦中における伊丹の情勢判断、そして戦後の第二次世界大戦についての論評を読んでみる必要がある。

伊丹万作は、田村の石山学園に思いをはせ「石山学園の歌」をつくり、足尾鉱毒事件の田中正造の生涯を映画化する構想を練りながらも、1946年9月21日、病いに没した。46歳の生涯であった。


伊丹万作と『手をつなぐ子等』

2018年12月15日 13時14分22秒 | 田村一二

1週間前から、正確に言うと12月6日の木曜日から、ノドが痛く、咳が止まらない。7日に診療所に行って、薬を処方してもらい、土日も予定を全部キャンセルして静養した。納まったかなと思ったのだが、薬が切れると、とたんに寝入りっぱなに咳き込んで眠られない。睡眠不足がまた、体調不良を促すことに。結局、14日の金曜日に診療所に行った。この1週間、そんなくらくらする中で、探していたのが『伊丹万作全集』・・・。その3巻に「手をつなぐ子等」があり、それを確認したかったからだ。

もともとは、以前に研究室用に買ったもの(書店経由では、1巻と3巻だけしかなかった)。研究費で購入していたので、図書館の蔵書で、研究室に貸し出しているという形となっていた。故あって、研究室の図書を図書館に返却していたところだった。『伊丹万作全集』もみあたらなかったので、返却したのではと思って、「ちぇっ」と舌打ちしながら、図書館にいって整理中の書架などを探して貰うが・・・「ない?」「まだ返却されてないみたいです・・・」とのこと。たしか、あそこにあったはずと思っていたところに見当たらないので、てっきり返却したものと思っていた。研究室やいろんなところをさがしてみても・・・・「ない!」。

結局、1週間探しまわって・・・・ようやく出てきた。灯台もと暗しとはよくいってもので、2冊きちんと別の部屋に鎮座しておられました。

さっそく、みてみると、やはり・・・伊丹万作がこの「忘れられた子等」の演出意図と備考としての留意事項が、脚本のあとに書かれている。ここでは、時間がないので、伊丹がこの作品を書いた理由などにつて触れるにとどめたい。伊丹は、原作の映画化について、「演出の根本精神」として「道義的精神」と「芸術的精神」があるという。前者は、「精神薄弱児の問題」であり、「未発掘の人的資源(当時のことば)としての意義を明らかにし…社会的情熱に訴えること」、もうひとつは「不良児が次第に感化されていく過程を通じて善の意識に快い刺激を与える」というもの。しかしそれ以上に、「芸術的精神が強力に作品を貫く」として次のようにいう。

「実を言うと、私がこの原作によつて非常に心を動かされた理由は、先に述べたような道義方面による点も少なくはないが、それにも増して私はむしろそこに描かれている小さいものたちの世界の澄み切った美しさに感嘆したことを白状する」

続けて・・・「ここには快いユーモアもあり、悲しみもあり、その他社会にあるようないろいろなものがあるにはあるが、ただ違う点は、こちらはどこまでも純真であり、明朗であり、徹底的に澄み切っていることである。このような美しさを、もしもそっくり映画に移し植えることができたならば、多くの人がその映画を見て泣いたり笑ったりしたあげく、結局心を洗われたような快感をいだいて帰って行くだろう。そういう映画をつくりたいものだというのが私の最初に描いた夢であり、そして未ださめない夢なのである」

演出備考の最初には、

「時 原作では大体、シナ事変のころを標準として書かれているが、映画では大東亜戦争開始の前後にわたっているように扱いたいと思う。風俗など、最近は一年間にずいぶんの差を示しているが、その点などあまり事実に拘泥せず、なるべく最近の風俗をとりいれるようにしたい」

とある。この脚本が戦時中に書かれたものであることに留意する必要があろう。伊丹万作と田村一二の戦中/戦後の交流については別途書いてみたい。