『伊丹万作全集』3の月報には、稲垣浩の「万作」という文章が寄せられている。戦前、稲垣と伊丹は共同で映画をつくってきた間柄である。伊丹は、1944(昭和19)年に『手をつなぐ子等』のシナリオを執筆していた。稲垣は、それまでの映画の製作について述べた後、田村一二の原作の映画化について次のように述べている。
「(前略)私は田村一二氏の『忘れられた子等』を書いて、是非やりたいと会社に申し出たところ、同じ著者の『手をつなぐ子等』を万さんが再起作品として計画していると聞いて、断念することとなつた。ところがやはり病状が悪く、これも私が代行することとなった。私はそれより先に、万さんを監督して私が助監督をつとめようと申し出た。しかし、その心使いは無用だと彼は断つた。/この作品は占領下に作ることとなつたが、進駐軍C・I・Eから戦後の話に書き改めなければ検閲を通せないと言ってきた。万さんはそれを聞いて怒り、それなら絶対にこのシナリオを使つてくれるなと言つた。私も彼の意を解し、米軍検閲官と二時間にわたりディスカッションして、原形のままで押し通した。しかし万さんは終にこの作品の出来上がりを見ずに世を去つたのである。」
伊丹万作のこの脚本への思いは強しである。なぜ、時代設定を「昭和12年」としたのか、それを妥協せずに貫いたのか。そして、稲垣浩は、検閲官とどのようなディスカッションをしたのだろうか。伊丹と稲垣のそれまでの映画づくりと映画批評などの背景にある思想、戦争についての彼等の態度も含めて検討する必要があろう。戦中における伊丹の情勢判断、そして戦後の第二次世界大戦についての論評を読んでみる必要がある。
伊丹万作は、田村の石山学園に思いをはせ「石山学園の歌」をつくり、足尾鉱毒事件の田中正造の生涯を映画化する構想を練りながらも、1946年9月21日、病いに没した。46歳の生涯であった。