冒頭写真はホット飲料用PETボトルを分解したところ。なんと四層構造になっている。加温による破裂に耐えるようにするためなのだろうが、そこまでして必要な商品だろうか?
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東京23区では、今年度(2008年度)からプラゴミは可燃ゴミカテゴリーに戻されて一括回収されることになるという。おそらく、<分別回収費用>対<環境負荷軽減効果>を考えてのあまりの税金と家計費の無駄遣いのバカバカしさに対する批判が、ゴミ利権関係者や御用環境論者の継続圧力に勝ったのだろう。京都では、市環境部局と民間のゴミ利権関係者、さらには関連圧力団体がゴミ事業を牛耳っているので転換はありえないだろうが。いやむしろ京都では、利権拡大のためのさらなる分別細分化や有料化などで余計な仕事が増やされていくことだろう。
京都市環境局(利権その1)によって分別収集されたプラゴミ、PETゴミは、民間中間処理業者(利権その2)のところでさらに汚れなどで使いようのないものが分別され、なんとか金になるごく一部のプラゴミ、PETゴミが再生業者(利権その3)に回される。再生品ももとどおりの同じ包装容器にまで再生されるためには、回収品にも100%近い純度が要求されるから微々たるもので、大半は不純物が混入していてもなんとかなる下位のベンチだの園芸資材だの、それだけのコストをかける意味があるのかと思わざるを得ないどうでもいいようなものが作られるだけだ。
プラゴミ、PETゴミ分別収集がいかに無意味なことかを示す一つが再生プラ包装、PET容器マークが存在しないことだ。紙ではこれ見よがしに再生紙マークが付けられているのに。まあ、「再生マークを付けた包装材では消費者に敬遠されるから」とでも言い訳するのだろう。
中間処理業者のところで箸にも棒にもかからない汚れ物として排除されたプラゴミの行方はどこか?答えは、再び市の焼却場に戻ってくるのだ。プラゴミを排除された一般家庭ゴミ(いわゆる燃えるゴミ)は大半が生ゴミだ。生ゴミは燃えにくい。従って焼却には石油製品を助燃材として加える必要がある。再生不可能として業者から突返されてきた大半のプラゴミは、また市が引き取って家庭ゴミの助燃材代わりとなって焼却炉に放り込まれるのだ。まったく馬鹿げている。なぜこんなことがまかり通るのだろう?もうこんなバカバカしい分別はやめようと思っている。うちだけではアリの小便にもならないささやかな抵抗でしかないが。
さて、「なぜ、たかがゴミ分別程度のことにそんなに噛みつくのか?」という向きもあるだろう。それは、私にはこの例が日本の環境に関係した運動や行政、研究、ひいてはサブプライムローンから石油高騰、「地球温暖化?」などなど噴出している世界的体制矛盾すべての象徴のように思えてならないからなのだ。
「環境問題」と「環境ビジネス」が表裏一体の流行となるくらい、いまや「環境」は金儲けの具となってしまった。さらにそれだけではない。環境問題から派生して、その解決のためには「持続可能な循環型社会」に移行しなければならないなどと、本来、現代資本主義社会の抱える体制矛盾から生じている様々な問題から目をそらさせ、「持続可能な循環型社会」などという体制枠内での改革幻想で糊塗しようとする、古くて新しい姑息な体制延命策に反体制、体制懐疑派も含めて乗せられている、まさに環境大政翼賛会といった現状に危惧を抱かざるを得ない。
そもそも環境、エネルギー、食糧、貧困・格差など、噴出する問題点の根源はあくなき金儲けを是とする現代資本主義体制にある。そこをつかずして何の解決もない。エセ環境論者を告発した「環境問題はなぜウソがまかり通るのか2」という書がある。基本的スタンス自体は体制派の著者には、自身が「データ運用や論旨が政治的、利己的」と批判するエセ環境論者の流儀に著者自身もハマっていることに気づいていないというきらいはあるが、「環境問題の解決策は簡単なこと、経済を縮小し、皆が年収減を受け入れ金を使わない生活をすればいいだけのことだ」という一点で本書を支持する。
そもそも、「金を稼ぐ」ということは「地球環境への負荷手形をとりつけている」ということであり、「金を遣う」ということは「地球環境への負荷手形を行使する」ということに他ならない。金を遣って買う「何か」はその生産のために必ず何らかの資源・エネルギーを消費している。無から有は生まれない。それが経済的商品価値というものだ。「そこに人間の手(労働)が加えられることによって新たな価値が付加される(労働価値説)」と説いたのはマルクスであった。すなわち、「金持ちか貧乏か」は「環境に与える負荷が大きいか小さいか」の差だ。金を遣えば遣うほど環境に負荷をかけているということで、環境への過度の負荷が罪であるとするならば、金を遣うものは犯罪者なのだ。
実はそのことを自覚していながら、いや自覚しているからこそ自分達だけが湯水のように金を遣い、享楽の限りを尽くすことで相対的優越感、幸福感を得ようという者たちが体制維持対策上持ち出してきたしたのが、他ならない「持続可能な循環型社会」などという欺瞞の産物なのだ。過去、資本主義国家は様々な問題を抱えながらも、「始末の悪い自称社会主義・共産主義国家」の存在のおかげで、よりましな体制として見逃されてきた。それらが自滅して隠れ蓑がなくなると、今度は「福祉国家」だの「実力(成果)主義」だの「独立起業時代」だの「物から心の豊かさへ」などとあの手この手で誤魔化して延命を図ってきた。そしてここにいたっての世界をまたにかけた究極の延命策が「持続可能な循環型社会」というわけだ。もしかしたら「田舎暮らしのススメ」もその一環かもしれない。
カバン持ちの「環境屋」はいざ知らず、善意の「環境家」もこの単純な原理に気づいていない、気づこうともしないし気づいても認めようとしない、みな釈迦の手の内の孫悟空なのだ。そしてエネルギーも資源も経済も安全も教育も何もかもが、本来企業、行政、国家レベルで行わなければ解決不可能な問題なのに、庶民一人ひとりの個人レベルで行うべきこととして、資源を無駄に使うな、省エネしろ、ゴミは分別しろのと、無意味な空回りを次々と押し付けてきて、世を洞察し隠された真実を見抜く暇を与えないようにしてしまう。
「勤勉で真面目?」な日本人は何の疑問も持たず、お上や偉い人の言うことだからと、無意味な分別をし、物心付くかつかないかの幼少時から競争に駆り立てられ、体制の下僕となっていくのだ。そんな「持続可能な循環型社会」に踊らされるのは、私は真っ平だ。本当の解決策があるはずだ。
唐突だが、「共産主義」ってそんなに悪いものなのだろうか?ひと時のうたかたのように浮かんで消えていった「東側世界」は本当に「共産主義」だったのだろうか?いつの時代にもどこの国でも、体制派が庶民に最も目を向けさせたくない、隠しておきたいところに実は真実が隠されていることが多い。トッテンさんも言っているように、実は「共産主義」も悪くない選択なのかもしれない。